「…………ン、リィン」


 自分を呼ぶ声にゆっくりと意識が覚醒していく。ぼんやりとした頭を動かすと、こちらを見つめる赤紫とぶつかった。


「こんなトコで寝ると風邪引くぞ」

「……すまない、いつの間にか眠ってしまったんだな」


 何か夢を見ていた気がするけれど思い出せない。でも夢とはそういうものだろうか、と考えているとクロウの声が耳に届く。


「疲れてるなら部屋で寝ろよ」


 そう言って頬に触れた手はあたたかい。お風呂から出たばかりだから当然といえば当然だが、そのあたたかさが心地よいと思ってしまうのはそれだけが理由ではないだろう。
 心配そうな幼馴染み兼恋人にリィンは素直に頷いた。


「課題をやるのはいいが、根を詰めすぎるなよ」

「ああ」

「じゃあおやすみ」


 おやすみ、と同じ言葉を返すとクロウは優しく微笑んだ。
 離れていく温もりが名残惜しいけれど、今日のところは早めに寝よう。そう思ったリィンだったが、背を向けて歩き出そうとしたクロウの姿に反射的に手を伸ばしてしまった。


「リィン?」

「あ、いや……」


 伸ばした手はクロウの服を掴んだ。どうしてこんなことをしたのか、リィンにも分からなかった。
 ただ、手を伸ばさなければ。
 クロウがどこかへ行ってしまう気がした――なんて、どうして思ったのか。自分の思考に疑問を抱いたリィンをクロウがじっと見つめた。そして、彼は徐に口を開いた。


「どこにも行かねぇよ」

「え?」

「これからもずっと、お前と一緒にいる」


 真剣な瞳にリィンの顔が映る。クロウは、引き止められたのは寂しいからだと思ったのか。そのように言いながらぽんぽんとリィンの頭を撫でた。
 でも、それにしては少し言い方が大げさな気もした。だけど不思議とリィンはその言葉にほっとする。その理由はやっぱり分からなかった。


「何なら一緒に寝るか?」


 ぱちっとウインクをしたクロウにリィンはふっと笑みを零した。突如胸に生まれた不安はいつの間にか消えていた。


「いや、大丈夫だ」

「つれねーな」

「クロウはまだ眠くないだろ?」

「そこかよ」


 笑うクロウに心があたたかくなる。そのわけは深く考えずとも分かった。


「たまにはそんな日があってもいいだろ」


 だから一緒に寝ようぜ、と誘う恋人に少しだけ考えたリィンは首を縦に振った。
 決まりだなと言ったクロウが差し伸べた手を掴んで立ち上がる。柔らかな笑みを浮かべるクロウに同じく微笑みを返してゆっくりと歩き出した。














 おやすみ、と改めて挨拶をしてから暫く経つと傍からすーすーと規則正しい呼吸が聞こえてきた。そんな恋人の髪をクロウはそっと掬う。


「……不安にさせてごめんな」


 今は見えない青紫の双眸から伝わってきた不安。リィン自身はその理由に気づいていないようだったが、クロウにはすぐにそれが分かった。
 十二月三十一日。
 世間では大晦日と呼ばれる一年の最後の日。その日が遠い昔――という表現が正しいかは分からないが、ゼムリア大陸にあるエレボニア帝国で勃発した貴族派と革新派による内戦。この終結日となったのもまた、十二月三十一日だった。そして、クロウが命を落としたのも。


「もう二度と、お前を置いていかねえよ」


 起こさないように気をつけながらこつんと合わさる額。そこから伝わる体温に胸があたたかくなる。でも今日のリィンはきっと、そのことに安心もしたのだろう。


(お前もいつか、思い出す日がくるのか)


 それとも思い出さないままだろうか。遠い日の、別の世界での自分たちのことを。
 そこまで考えたクロウは静かに額を離して普段より幾分か幼く感じる寝顔を見つめた。うなされていたさっきとは違ってあどけない表情で眠る幼馴染みにクロウは頬を緩める。


(ま、思い出さないならそれでいい)


 辛い記憶をわざわざ取り戻す必要はないだろう、と言ったらリィンは辛いばかりの記憶ではないと言うのかもしれない。それでも、クロウはリィンに記憶を取り戻して欲しいとは思ったことがない。
 この記憶は既に過ぎ去ったことだ。当然、今と昔は違う。クロウはあのリィンだから今もこの幼馴染みと一緒にいるわけではない。今、目の前にいるリィンだからこそ、一緒にいることを選んだ。そのことに過去は関係ない。


「……愛してる」


 小声で告げた想いに返事はない。けれど、どことなく口元が綻んだように見えた。
 あの頃も今もクロウはリィンが好きだ。だが、この世界でリィンを好きになったのは過去の記憶を取り戻すよりも前のことだった。
 世界が変わっても好きになったのはリィンがリィンだったからだろう。きっと何度生まれ変わったとしても自分はリィンを好きになるのだろうと思う。


「おやすみ、リィン」


 今度はいい夢が見られるように祈りながら軽く唇を落とす。
 それからゆっくりとクロウも瞼を下ろした。太陽が昇ったら、今度は起きている恋人に先程の言葉を伝えよう。そう思いながら大晦日の夜は過ぎていく。