気が付いた時、目の前には広く深い青が広がっていた。あれ、と思いながら辺りを確認する。この景色に見覚えはある、がどうしてこんな場所にいるのかが分からない。
そもそも俺は死んだはずだろうと思って気付く。やっぱり自分は死んだ人間だと。こんなに天気が良いのに足元に影が出来ないなんて普通は有り得ない。ということは、今ここに意識があっても肉体は存在していないということになる。
「何か未練でも残してたかな……」
現世に未練があると成仏出来ないなんて話をどこかで聞いた覚えがある。真偽なんて確かめようもなかったが、自分がこの場にいるのは真実だった。肉体はないからここにいると表現して良いかは分からないけれど、このままここでじっとしていても仕様がないことだけは確かだ。
「とりあえず情報収集はするとして、つーか死んでるんだから人と話したり物に触れたり出来ねぇんじゃねーか?」
そうだとしたらどうやって情報収集するんだよと思ったが、物に触れなくても日付を知るくらいは出来るだろう。近況についても街を歩いていればある程度は分かるはずだ。一番知りたいのは成仏する方法だけれど、それは調べようと思って調べられることでもない。
「オルディーネのことも気になるよな……」
騎神は乗り手を選ぶ。誰でも扱えるものではないとはいえ、あれほどの代物が手付かずのまま放置されているとも考え難い。無茶をしたせいでオルディーネにも深い傷を負わせてしまった。騎神には自己修復機能が付いているが、核が大きく傷つけられてしまったこともあるから心配だ。どうにか情報を掴めれば良いのだが、流石に街中で騎神の情報を得るのは難しいだろう。それでも出来る限り情報を集めたい。
「あとは…………」
他に気になることは、と考えて思わず苦笑いをしてしまった。未練なんてないと思ったのにある人物の顔がすぐに浮かんでしまったのだ。これでは未練がないなんてとても言えそうにない。全く、自分で手放したというのに。
「行くか、トリスタ」
帝都近郊にある小さなその街には皇帝縁の士官学院もある。ただ漠然とこの辺りを散策するよりは何かしらの情報を得られる可能性も高い。もし何もなくてもトリスタから帝都までは目と鼻の先だ。そのまま帝都で情報収集をすれば良い。
そうと決まれば早速トリスタに向かうことにしよう。ここからパッと移動出来れば楽なのだが、どうやら幽霊でも瞬間移動をしたり空を飛んだりは出来ないらしい。仕方がないから移動は鉄道だ。
(また、いつか)
見慣れた空、見慣れない街並み。けれど自分がここに居た理由は何となく想像出来る。だからいつか――いつまで現世に居られるのかも分からないけれど、この場所に戻って来られたら良い。二つの青が広がるこの場所に。
そんな風に思いながらクロウは故郷に背を向ける。そして向かうは近郊都市トリスタ。鉄道に乗っていざ出発だ。
□ □ □
「ここも変わんねーな」
それもそうか、と言いながら今日の日付を思い出す。今は七耀歴一二〇五年五月、最後にここを訪れてから半年ほどしか経っていない。変わらない街並み、けれどトールズの制服には見慣れない顔が多い。同学年だった者達は皆卒業し、新たに一年生を迎えたのだから当然だ。
内戦が終結してから半年近く、帝国によるクロスベル併合が行われたようだが国内は平穏を取り戻しつつあるらしい。結局、あの内戦はどこまでが計画されていたものだったのか。今更それを知る術はないが、ただ一つ言えるのはアイツはやっぱり化け物だったらしいってことだ。あれで死んでいなかったというんだから驚きを通り越して感心さえする。
(……まぁ、俺にはもう関係のない話だけど)
何も感じないといえば嘘になるが死人に出来ることはない。考えても仕方のないことは考えるだけ時間の無駄だ。死人は死人らしく――というのも変な表現だが、難しいことは考えずに気楽にいこう。どうせあれこれ考えたところで何も出来ないしな。
「さてと、トリスタまで来たは良いけどどうすっかな」
人からは見えないし聞こえない、こっちも触れたり出来ないのに何故物理法則が働くのか。空を飛べるでもなければ壁をすり抜けることも不可能。幽霊というのは半端な存在らしいと実感しながらここまで数時間。いつかの実習を思い出させる鉄道旅行を終えた頃には夕方になっていた。
トリスタの街を散策するか学院に行ってみるか。この時間なら寮に戻っている生徒もいるだろう。どこに行ってみても何かしらの収穫はありそうだが。
(アイツはまだ学院だろうな)
トワが卒業したとはいえ、真面目な後輩は今でも生徒会の仕事を手伝っていることだろう。自由行動日でなくても時々手伝っているのを見た覚えがあるから学院に残っている可能性は高い。もしかしたら学院自体にいないことも考えられるが、なんとなくそれはない気がしていた。
幽霊なら念じればその場所に行けるくらいの便利機能が備わっていれば良いのにと思いつつ、悩んだ末に俺は一先ず駅から近い第三学生寮へと向かうことにした。他の寮に比べて古い造りのこの建物で過ごした時間は僅か三ヶ月。第二学生寮で過ごした時間の方が長いというのにこの場所にも懐かしさを覚える。Ⅶ組への編入は別に狙ってやった訳じゃないんだけどな、といつかの教官の言葉を思い出す。
(Ⅶ組、か)
特化クラスⅦ組。他とは違う規格外のクラスが今どうなっているのかは知らない。けれど三ヶ月間を共に過ごしたクラスは意外と大きな存在になっていたらしい。テロリストなんて放っておけば良いのにアイツ等もトワ達も追い掛けるのをやめなかった。
Ⅶ組やトワ達だけの話ではない。いつの間にか士官学院という場所そのものが思っていた以上に思い入れのある場所になってしまっていた。足掛かりにする為だけに潜入したというのに、一体どこで道を間違ったんだか。
(でも一番の失敗はアイツを好きになっちまったことか)
初めに会った時からなんだか目が離せなくて、気が付いたら自然と目で追うようになっていた。ただの後輩に特別な感情を持ってしまったのはいつだったか。女子が好きだってことにも変わりはないけどアイツに対してはちょっと違っていて、後輩だし同じ男だしどうするんだよと思った。どうするも何も俺の本分は《C》だったから何もする気はなかったんだけど。
「リィン…………」
真面目で頑張りすぎなところがある後輩は今どうしているだろう。裏切った俺を一番に追い掛けてきて、そんなアイツは煌魔城での出来事をちゃんと乗り越えただろうか。そんなに弱いヤツじゃないことは知ってるけど、灰の騎士として色々と大変そうな噂話はここまでの道中でも耳にした。
灰の騎士。力を持った人間にはそれ相応の責任が付き纏う。軍からの要請で動いているアイツは帝国の英雄とまでいわれているらしい。昔ヴィータに騎神の存在はいずれ忘れられるものだと聞いたが現状を見ていると本当にそうなのかと疑問を抱いてしまう。貴族連合の一員として各地で蒼の騎神を動かしていた俺がいえることじゃないが、灰の騎士の話を聞いた時はアイツが心配になったのは本当だ。
(無茶ばかりしてなきゃいいけど)
止めてくれる人間がいなければとことん無茶をするようなヤツだ。俺が心配しなくてもアイツには沢山の仲間がいるから大丈夫なんだろうけど、どうしても考えてしまう。責任感が強くて、甘えるのが下手で、敵であるはずの相手のことまで心配するような心優しいアイツのことを。
……いつまでもここに居ても仕方がない。つい足がこちらに向いてしまったがそろそろ情報収集がてらトリスタの街も回ってみよう。そのついでにアイツを一目見れれば良い。アイツが元気にやってるって分かったらそれで。
「………………クロウ?」
そう思って足を踏み出そうとした時、不意に後ろから声を掛けられた。その声に勢いよく振り返れば、そこにはついさっきまで考えていたソイツが立っていた。深紅の制服を身に纏った黒髪の青年は、青紫の瞳でこちらをじっと見つめている。
「リィン……?」
「本当に、クロウ……なのか?」
あれ、とまた疑問が浮かぶ。俺のことは誰にも見えないはずだ。それは俺の思い込みではないこともここに来るまでに実証済みだ。なのにどうしてコイツは俺の名前を呼ぶのか。まさかとは思うが。
「お前、俺のことが見えてんのか……?」
そんな訳ないよなと思いながらも聞けば、リィンは「えっ」と小さく驚きの声を上げながらも戸惑いがちに頷いた。見えてると思うけど、と返ってくるのは俺の声が聞こえているからに他ならない。
ここに来るまでに何人かを相手に会話を試みたけれど一度も成功はしなかった。幽霊なんだから当たり前だと思ったけれど、その考えがここにきて覆るとは思わなかった。どうしてコイツには俺が見えて、俺の声が聞こえるのか。理由は分からないけれど、そんなことはもうどうでも良い。
「……そうか、お前にはちゃんと見えてんだな」
「じゃあ、本当にクロウなんだな」
「おうよ。元気にしてたか?」
漸く肯定を返して尋ねるとリィンは顔を歪ませてそのままこちらに抱き着いてきた。ちょっと待てと止める間もなく、けれどその体はすり抜けることなくしっかりと俺の腕の中に収まっていた。
「もう、二度と会えないと思ってた。でも、本当はずっと。クロウに会いたかったんだ……!」
涙を流すリィンの背中をゆっくりとあやすように叩く。俺だってもう一度お前に会えるなんて思わなかった。それもこうやって触れて、話すことが出来るなんて。
あれで最後だと思ったからあの時俺は出来る限りのことを伝えた。でも気が付いたらまだ現世に居て、それなら一目だけでもコイツの様子を見たいと思った。改めて考えてみれば未練しかないような気さえしてくる。どうしてリィンだけが俺と普通に接することが出来るのかはやっぱり分からないけれど、この腕を放したくないと思ってしまうほどにこの温もりが心地良い。
「俺もお前に会いたくなったから会いに来たんだ。色々大変そうだけど頑張ってるみたいだな」
「前に進んで行けって、クロウがそう言っただろ? だから俺も前に進まなくちゃって」
「よく頑張ったな。けど無理しすぎんなよ? お前はすぐに無茶するからな」
少し前に考えていたことをそのまま本人に伝える。止めてくれる人や息抜きさせてくれるような人が傍に居れば良いけどと思いながら、自分がそれをしてやれないことがもどかしい。
全部一度は捨てたモンだってのに、死んで何もなくなった俺には帝国解放戦線のリーダーとしての役目も蒼の騎士としての役目もない。周りからは見えないし触れないではどうしようもないのだから当然だ。そんな俺に残ったのがコイツだけっていうのは、どういう運命の巡り会わせなんだか。
「…………それなら、クロウが傍にいてくれ」
予想外の返答に「へ?」と間抜けな声が零れた。それからゆっくりと体を離したリィンは真っ直ぐにこっちを見て続けた。
「あんな思いはもうしたくない。それに、クロウがいてくれれば……」
そこで言葉が途切れた。次に出てきた言葉は「ごめん、今のは忘れてくれ」だ。俺が本当はとっくに死んでいると理解しているからか、甘えたことを言ってしまったという自覚が生まれたのか。
けどまあ、良いんじゃないかと俺は思う。時にはそうやって誰かに甘えることも大事だ。それに今の俺はリィンとしかこうして話すことも触れることも出来ない。何より、俺が出来るのならコイツの傍に居たいと思ってしまった。それをコイツ自身も望んでくれるのなら。
「ったく、しょうがねーな。お兄さんが好きなだけ甘やかしてやるよ」
いつまでこの世界に居られるのかは分からない。けど、この世界に居られる間は大切なヤツのことを傍で見守らせて欲しい。
言えばリィンは驚いたような顔を見せる。お前が言ったんだろと言う俺に「でも」と言うあたりがコイツらしい。今更遠慮とかする間柄ではないだろう。ああでも昔はこんな風に返ってくることも多かった。俺がⅦ組に編入して暫くしてからは大分打ち解けたけど、これはコイツの性格だからな。
「たまには良いだろ。つーか、俺が一緒にいたいんだよ」
こういう言い方をすればリィンも納得するだろう。そう思ってはっきりと言ってやれば、リィンはほんのりと頬を染めて「そうか」とだけ返した。
あれ、この反応は……?
不思議には思ったけれど追及はしなかった。というより出来なかった。とりあえず中に入るかとリィンが寮の扉を開けたからだ。どうして寮の鍵をリィンが持っているんだとか気になることはあったけれど、聞きたいことがあるのは多分向こうも同じだろう。話はまた後でゆっくりするとしよう。
そんなことを考えながら寮に入ると、リィンがくるりとこちらを振り返った。
「おかえり、クロウ」
ああそうか。そうだったなと思い出す。
あの内戦の中、リィンはずっと俺のことを追い続けていた。俺を取り戻すんだって言って、トワ達と卒業させるんだなんて無茶なことも言っていた。多分、いや絶対にコイツは本気だったんだろうけど。コイツはあの日からずっと、俺がここに戻ってくるのを待っていたんだ。
「……ああ、ただいま」
俺達の帰る場所
ただいま、おかえり。そう言い合える場所はすぐそこに