「リィン」


 呼びかけると、鐘の音がする方を見つめていた相棒が振り返る。


「終わったのか?」

「ああ」

「じゃあ行くか」


 そう言ってリィンはさっさと歩き始める。そのリィンが見ていた方向を少しだけ見たクロウもまた、すぐに彼の隣に並んで歩き始めた。
 今頃、音のした場所ではたくさんの人たちが仲睦まじい二人の幸せを願っていることだろう。各地を回っていると時々こういった場面に居合わせることがある。それを近くで見ていると不思議とこちらまで幸せのお裾分けをもらったような気分になるものだ。

 女性なら憧れている人も多いであろう、ウェディングドレス。
 それを身にまとい、大切な人との永遠の誓う。交換される指輪、交わる唇。人生の一大イベントである結婚を夢見る人は決して少なくはないだろう。

 もちろん、中にはそうではない人もいる。クロウもその一人であるし、隣を歩くリィンからも結婚願望があるとは聞いたことがない。試しに聞いてみたところで別にないと返ってくることは予想できる。
 だが――と、クロウは風に揺られる黒髪を見る。どんなに時間をかけてもぴょこんとはねてしまう彼の髪は、それでいて柔らかな触り心地をしている。その髪をくしゃりと撫でると不思議そうな青紫がクロウを見上げた。


「一仕事終わったことだし、今夜は一杯やろうぜ」


 丁度この間いいワインももらったことだしなと言えば、ぱちりと目を瞬かせたリィンは「そうだな」と口元を緩めた。

 この相棒と出会ってから六年、恋人になってからは三年。
 結婚願望はないが、この先もずっとともに在りたいと思っている。それは、リィンにしてもきっと同じだ。だから。












 ちゅんちゅんと小鳥の囀りが聞こえてくる。カーテンの隙間から太陽の光が差し込んでいた。
 穏やかな日常の、平和な朝。いつもならリィンの方が早く目を覚ますところだが、今日はまだクロウの隣で静かに寝息を立てていた。たまの休日くらい、こんな日があってもいいだろう。
 リィンが目を覚ましたら何を作ろうか、とその寝顔を眺めながら考える。リィンが起きる前に朝食を作るという選択肢がないのは、この時間をもっと堪能したいという気持ちが勝るからだ。朝食が少し遅くなったところでリィンは怒らない。


「ん……」


 微かな声が聞こえてきたところで髪に触れていた手をそっと放す。やがて、ゆっくりと瞼を持ち上げたリィンはぱちぱちと二回ほど瞬きをした。


「おはよーさん」

「……おはよう」


 まだ意識が覚醒しきらないのか、リィンの声は弱々しい。これも今日が休日だからだろう。普段ならもっと素早く起きて身支度を整える。もう少しくらいいいだろ、とクロウが誘っても早く起きろと言われるところだ。
 しかし、こんなリィンを見られるのは自分だけだというのはちょっとした優越感がある。いつもは真面目な相棒がクロウの前でだけ見せる姿。それが嬉しくない恋人はいないだろう。


「リィン」


 名前を呼べば、青紫はすぐにクロウを映す。出会った頃から変わらない、彼のように真っ直ぐで透き通るように綺麗なその瞳がクロウは昔から好きだった。


「誕生日おめでとう」


 八時間ほど前にも伝えた言葉を再び口にすると、リィンは小さく笑みを零した。


「寝る前にも聞いたよ」

「いいんだよ。大事なことなんだから」


 年に一度の大切な日。この日は、六年前からクロウのカレンダーに特別大きく刻まれている。
 一番初め、学院の帰り道で会った偶然会った後輩からそれを聞いた時はキルシェで夕飯を奢った。十九歳と二十歳になる時はそもそも近くにいなかった。二十一歳を迎える年からはまた一緒に過ごすようになり、今年で彼の誕生日を祝うのは四回目。
 最初は先輩として、次からは恋人として。過ごしてきた時間は決して短くない。


「なあ」

「うん?」

「俺はこれからもずっと、お前と一緒にいたいと思ってる」


 伝えた言葉に、リィンはじっとクロウを見つめた。それから先程起こしたばかりの体を真っ直ぐにクロウへと向ける。
 でも、リィンからは何も言わなかったからクロウはそのまま続けた。


「十年後も二十年後も、こうやって俺がお前の誕生日を一番に祝いたい」

「……うん」

「俺も自分の誕生日はお前と一緒に過ごしたい」

「俺だってクロウと一緒に過ごしたい」


 当たり前だろう、とその瞳は言っていた。そう、リィンにとってもそれが当たり前なのだ。クロウがリィンへの想いを抱いているように、リィンもまたクロウへの深い想いを抱いている。だからこそ、自分たちはこういう関係になった。
 それを改めて伝えたのは、リィンに知って欲しかったからだ。世の中には言葉にしなければ伝わらないことがある。形のあるものが全てではなくても、そこにだって特別なものがある。


「リィン、手を貸してくれ」

「……手?」


 右利きのリィンは、首を傾げたのちに右手を差し出した。


「逆、左手だ」


 指摘すれば、下ろした右手の代わりに左手が持ち上がる。
 武人であるリィンの手は硬く、しっかりとしている。そのあたたかさに触れて、何度その手を掴みたいと思ったことがあっただろう。
 そういう時期もあったというだけで今は絶対に放すつもりなどないが、リィンがこの手を伸ばし続けたからこそ。今の自分たちの関係があることは間違いない。

 何よりも大切で、特別な――生涯をともにしたいと願う、その人の手に。
 クロウは隠していた小さなリングを嵌めた。


「………………」


 シンプルなシルバーリングの真ん中に嵌められているのは、蒼耀石の欠片。どちらかといえば、リィンに似合うのは紅耀石だ。だが、クロウはこの色をリィンに贈りたかった。


「これからもずっと、俺の隣にいてくれ」


 結婚に夢はみていない。クロウからすればリィンが隣にいてくれるだけで十分だ。リィンにしても同じだと信じているから、聞かなくても結婚願望は持っていないと思った。世間がどうであれ、自分たちにとってはそれだけでいい。
 式を挙げなくても、籍をいれなくても。
 一緒にいることはできるから形式にこだわる必要はない。それでも、この形ある証をリィンに贈りたいと思ったのは、それにも意味があると知っているから。


「色々あったが、俺は二度とお前を裏切るようなことはしない。できれば、俺がお前を幸せにしたい」


 そして、リィンにはいつも笑っていて欲しい――と、薬指で光る指輪に誓う。

 恋人はじっと、指輪を見つめていた。そうしたまま、たっぷりと十秒は経っただろう。もしかしたらそれ以上だったかもしれない。
 徐に顔を上げたリィンはクロウを見てそっと、目を細めた。


「それなら、クロウはずっと俺の傍にいないといけないな」


 幸せにしてくれるんだろう? と、リィンは笑う。その意味を理解するのに時間は要さなかった。


「……ああ、幸せにする」

「約束したからな」


 そう言って手を伸ばした恋人を引き寄せて、唇を重ねた。
 それはとても熱く、どこまでも深い、想い。


「……クロウ」


 熱が溶け合って、再びその瞳をこの目に映した時。優しい音がクロウを呼んだ。


「俺も欲しい」


 続いてリィンの手が触れたのは、クロウの左手。絡み合った指先から伝わるあたたかなものにクロウの頬は自然と緩んだ。


「じゃあ買いに行くか」


 誕生日プレゼントに、と言ったらそれは駄目だと即答された。それにもうもらっただろと話すリィンの目線は彼の手元に落ちる。その表情にクロウの心は幸せで満たされる。
 だからクロウの誕生日プレゼントだとリィンは言った。随分と早い誕生日プレゼントだなと呟けば今までの分だと笑う。
 その理屈ならこっちも他に贈り物をしても大丈夫だろう。そう考えたクロウは分かったと頷きながら今日一日の予定を頭の中で立て始めた。

 大切な人の誕生日は、まだはじまったばかりだ。
 今日一日、たくさんの幸せをお前に。










fin