「なあ、知ってるか? 今日はキスの日なんだって」


 今朝テレビで言っていた、と幼馴染みは言った。それから海外映画の特集が始まったようだが、その内容は詳しくは覚えていないらしい。けれど、映画のタイトルを言われたところでリィンにも分からなかっただろう。
 そうなのかと相槌を打ったリィンを幼馴染みはくるっと振り向いた。


「だからさ、試してみようぜ」


 楽しそうに笑う幼馴染みにリィンは首を傾げる。この話の流れで何を試すというのだろうか。思ったままリィンは尋ねた。


「何を?」

「キス」


 たった二文字の返答にリィンの頭上には更に疑問符が増える。
 キス、というものは何となく知っている。もちろん経験はないが、リィンもテレビでそういった場面を見たことがある。
 もっとも、それはバラエティ番組で流れた宣伝で実際にドラマで見たわけではない。だけど、そんなリィンでも幼馴染みの発言がおかしいことは分かった。


「キスって、男の人と女の人がするものだろ?」

「決まってんの?」

「…………ちがうのか?」


 そういうものだと思っていたけれど、すぐに聞き返されると不安になってしまう。しかも相手はいつもリィンに色んなことを教えてくれる幼馴染みだ。その幼馴染みにこんな反応をされたら実際は違うのかもしれないという気持ちが生まれてくる。


「俺は大切な人とするものだって聞いたけど」


 男の人と女の人ではなく、大切な人と。そこに性別は関係ないということだろうか。考えるリィンをのぞき込むように幼馴染みが見つめた。


「嫌か?」


 キスが? 幼馴染みが?
 頭に浮かんだ疑問にリィンは自分の中で一つずつ答えを見つける。そうして首を横に振ったリィンに彼は笑った。


「なら試してみようぜ」


 だって今日はキスの日だから。

 それが十年前。
 リィンのファーストキスの思い出だった。














「リィン、帰ろうぜ」


 十年経ってもリィンの隣を歩くのは幼馴染みだった。
 同じ幼稚園、小学校、中学校。義務教育は学区が同じことから一緒の学校に通うことは必然だった。けれど、高校に進学してからもリィンはこの幼馴染みと同じ学校に通っている。
 もちろん彼が通っていることが理由ではないけれど、リィンが進学を考えた学校の中で一番身近に感じていた学校だったというのはある。

 そして、彼はいつしかそれだけの相手ではなくなった。

 ちら、と隣を見れば、風に靡く白銀は太陽の光を浴びて煌めいていた。その光景を綺麗だなと初めて思ったのはいつだったのか。もうとっくに忘れてしまったけれど、惹かれたのはきっと、自分にはないこの色を初めて見たその時だ。


『初めまして、隣に越してきた――』


 母たちが話をしている傍らでその影から顔を出したリィンは、廊下の向こうから顔を出した男の子とばちっと目が合った。


(あっ)


 父や母、妹とも違う色。見たこともない色にリィンは目を奪われた。
 とたとたとその色が近づいてきたのはそれからすぐのことで、彼はリィンの前までやってくるとにかっと笑った。


『おもしろいモン見せてやるよ!』

『え?』

『これ、クロウ。まずは挨拶をしなさい』


 祖父に言われてクロウが挨拶をすると、リィンも母に促されて自己紹介をした。それからクロウはリィンに魔法を見せてくれた。
 今となっては種も仕掛けも分かりきっているが、あの時のリィンにとっては本当に魔法のようだった。そうして出会った彼は毎日のようにリィンを遊びに誘い、リィンも彼と遊ぶことが楽しみだった。学校に入学し、世界が広がっていくにつれてその時間は減っていったが、それでもリィンはクロウと一番時間を共にしていた。今でもクロウと過ごす時間は家族の次に多い。

 昔は友達として一緒にいるのが楽しかった。でも今は、そこに恋人として一緒にいたいからという理由が加わった。告白をしてきたのはクロウからだった。


『好きだ』


 真っ直ぐに向けられた気持ちにリィンは最初、戸惑った。だけど、クロウが向けた想いはすとんと胸に落ちた。そこではじめて、リィンは恋というものを知った。
 自覚をして、返事をして。大切な幼馴染みは特別な恋人になった。
 今まで散々鈍いと言われてきたが、実際、リィンは恋愛経験が豊富ではない。そういう意味で人を好きになったのはクロウが初めて。自分がそういったことに疎いという自覚もある。

 だから恋人になってからも幼馴染みが変わらない距離でいてくれるのは、そんなリィンのことを考えてくれているからだと分かる。でも――。


「そういえばクロウ。今日が何の日か、知っているか?」


 話に区切りがついたところでリィンは隣を歩く幼馴染みに問い掛けた。
 黒板に書かれた文字を眺めながら頭に引っ掛かった数字。その意味をリィンはもう思い出していた。


「今日?」

「そう、五月二十三日だ」


 知らないはずはない。リィンはこの日を幼馴染みから教わったのだ。忘れている可能性はあるかもしれないけれど、クロウの記憶力がいいことはリィンもよく知っている。
 ちら、と。今度は赤紫がリィンを見る。その瞳をリィンは真っ直ぐに見つめた。そうすれば、クロウはちゃんと答えてくれると知っていた。


「……お前こそ、何の日か知ってて聞いてんのか?」


 やはり記憶力のいい彼は覚えていた。十年前、まだ幼馴染みという関係しかなかった頃に話したことを。
 はっきりと言わなかったのは、そこに恋人という関係が加わったからだろう。そして、あの頃はまともに理解していなかったキスの意味を高校生になった自分たちは知っていた。


「大切な人とキスをする日、だろ?」


 キスは大切な人とするもの。そこに性別は関係ない。
 あの時、幼馴染みが言っていたことは間違っていない。当時は親愛と恋愛の違いを理解していなかったけれど、恋人である今は何も気にする必要はないだろう。

 クロウがリィンを大切にしてくれていることは分かっている。ゆっくり、自分たちのペースで進めていけばいいと考えていることも知っている。
 でも、リィンだって好きな人の気持ちには応えたい。
 自分を見つめる優しい瞳に宿る、想い。リィンがそれに気がついたのはこういう関係になってからだ。もしかしたらもっと前から、クロウはそういう目を自分に向けていたのかもしれない。だけど彼は必ず、リィンを待ってくれた。それは今も変わらない。


「俺はクロウが好きだよ」


 友達や幼馴染みとしてではなく、そういう意味で。
 リィンが気持ちを伝えるとクロウの瞳に熱が灯った。それから少しだけ考えるように揺れた瞳は、けれどすぐに再びリィンを映した。


「俺も、ずっと前からお前が好きだ」


 そう言って伸ばされた手はそっと、リィンの頬を包み込むように触れた。
 ぶつかった瞳。それを見て静かに目を閉じる。唇に柔らかな感覚が訪れたのは間もなくのことだった。
 とくとくと心臓が音を立てる中、離れた熱に徐に瞼を持ち上げた。そこにあったクロウの瞳には自分の顔が映っていた。


「…………なあ、一つ訂正してもいいか」


 ぽつり。呟いたクロウにリィンは目で肯定した。


「キスは好きなヤツとするもの。だから俺はあの時、お前にキスをした」

「え?」


 想像していなかった発言に思わず声が零れる。
 だってあれはまだ小学生の時の話で……と、黒板の日付を見て思い出したあの時の出来事を脳裏で再生する。もし、それが本当なら。


「試してみようなんて嘘だった。俺はあの頃から本気でお前が好きだった」


 もちろん今も、と話す彼の目は真剣で。その言葉に嘘はないとすぐに理解できた。


「ファーストキス、だよな?」

「……当たり前だろ」


 そうか、とクロウは嬉しそうに微笑んだ。そんな恋人に「クロウは?」と尋ねると「お前」とシンプルな答えが返ってきた。だからまあいいかと思った。
 そもそもあの時だってリィンは自分で答えを出したのだ。頭の切れる幼馴染みが言葉巧みに誘導したのだとしても、あの頃からリィンがクロウを好きだったことは事実だ。当時はそういう意味だという自覚はなかったけれど、キスの日だからキスをしようと言われていたとしてもきっと、断らなかった。


「リィン」


 耳に馴染む、柔らかな音が呼ぶ。それからそっと、触れた指先。


「帰ろうぜ」


 そのあたたかな手のひらをリィンはぎゅっと、握り返した。そうして二人はどちらともなく歩き始めた。
 心臓の音はまだうるさかったけれど、彼の左手から伝わる熱はリィンの心をもあたたかくした。

 幼馴染みから恋人に変わっても、俺たちは長年の距離をなかなか変えられずにいた。
 でも、これから少しずつ。大切な人と一緒にこの距離を縮めていこう。










fin