「……俺にすればいいのに」
それは、思わず零れた本音だった。幼馴染みがまた彼女と別れたなんて話をするから、お酒が入っていたこともあって一欠片の想いが溢れた。
声に出したつもりさえない、その程度の独り言のはずだった。
「言ったな」
「え?」
だから最初、幼馴染みが何を言ったのか分からなかった。手元のグラスに落としていた視線を上げると、クロウはにやりと笑ってこちらを見ていた。
(言った? 何を?)
ついさっきまでは幼馴染みの愚痴を聞きながら適当に相槌を打っていたけれど、途中から胸がもやもやとしてきて、それで……。
もしかして自分の薄暗い感情が声に出てしまったのだろうか。いくら相手が気心の知れた幼馴染みとはいえ、酷いことを言ってしまったかもしれないと血の気が引きそうになった時のことだ。
「なら付き合ってくれよ」
それが、俺たちが幼馴染みから恋人になった瞬間だった。
お付き合いを始めよう
「ほらよ」
ありがとう、と買ってきてくれた飲み物を受け取る。
休日の午後二時、お昼を過ぎたイートインコーナーはそれなりに空いていた。一通りの買い物を終えたところで「ちょっと寄ってくか」と言った幼馴染みはリィンに荷物番を任せてカウンターまで注文に行ってくれた。リィンの斜め前に置かれている荷物も「いいから寄越せ」と終始クロウが持っていてくれたものだ。
「やっぱりこの時間になると空いてるよな。まあ近くに新しくカフェがオープンしたからそっちに流れてんのかもしれねぇけど」
「ああ、先週オープンした?」
「そうそう。お前もああいうのに興味あるのか?」
「興味はあるけど、暫くは混んでそうだよな」
行くとしても少し落ち着いてからかなと言ったら「じゃあそれくらいに行ってみるか?」と幼馴染みが提案する。でも、と言い掛けたリィンより早く俺も興味はあるんだがなとクロウはジュースを口に運ぶ。
「ああいう場所って一人じゃ行きづらいだろ」
だからお前も気になってるなら丁度いいとクロウは話す。
確かにあのようなお店に男一人では入りづらいのかもしれないが、そのお店の目玉といえばふわふわのパンケーキだ。もちろん軽食なども扱っているとはいえ、パンケーキをはじめとした数々のスイーツがメインといえるだろう。
しかし、リィンはこの幼馴染みが甘いものが得意でないことを知っている。純粋に興味があるのも事実だろうけれど。
「……クロウは、他に行きたい場所とかないのか?」
そう尋ねたのは、今日も新刊を買うついでに買い物をすると話したリィンに俺も見たいものがあるとクロウが付き合ってくれたからだ。もちろんクロウも自分の買い物はしていたが、こちらにばかり付き合わせているような気がして不安になる。
「気になるから、今度行ってみるかって話だろ?」
だが、そんなリィンの問いにきょとんとした顔でクロウは聞き返す。
「それはそうなんだけど」
「ならいいだろ。考えすぎ」
それとも意識してんのか? と幼馴染みは口角を持ち上げた。その言葉に顔が熱くなるのを感じて思わず視線を逸らすと、クロウは笑いを堪えるように喉を震わせた。
別にクロウと出掛けるのはこれが初めてではない。それこそ昔から色んな場所へクロウと一緒に遊びに行った。
近所の公園、お祭りが開かれている神社。星を見に小高い丘へ向かい、海に行きたいと無計画に電車に乗ったことだってある。それらは全て友として、幼馴染みとしてだったけれど。
ちら、と正面を見ると幼馴染みは未だに笑っていた。今日だって自分も見たいものがあると付いてきた幼馴染みは楽しそうだった。
恋人というよりはやっぱり幼馴染みとの買い物という感覚だったが、時折見せたそれは恋人としてのものだってことくらいリィンにも分かった。付き合っているのだから当然といえば当然の、予想通りの恋人の姿にリィンが前々から抱いていた疑問は日に日に増していくばかり。
「……なあ、クロウ。一つ聞いてもいいか?」
言いたくなければ答えなくていいと前置きすると、赤紫が不思議そうにリィンを映した。
「今まで、どうして長続きしなかったんだ?」
誰と付き合ってもすぐに別れる幼馴染み。しかも決まって彼女の方から別れを切り出されるらしい。
人をからかうことも多いしすぐにギャンブルに持ち込もうとするけれど、周りをよく見ていて細やかな気遣いもできる。ついでに見た目も悪くない――どころか幼馴染であるリィンから見てもクロウはカッコいい。
実際、クロウから告白したことはないという話だ。そして、恋人として付き合ってもリィンのクロウへの印象は全く変わらなかった。それなのに何故、続かないのか。
「んー……何か想像と違うらしいぜ」
想像と違う、というのもリィンは感じたことがない。むしろ恋人になった幼馴染みは想像通りだ。もしかしたらそれは付き合いが長いからこそそう思えるのかもしれないけれど、クロウに告白をした女の子たちは何を想像していたのだろうか。
「あとは私のことを好きになってくれないとか」
え、と幼馴染みの発言に思わず聞き返す。勝手だよなと言いながらクロウはストローに口をつけた。
「……えっと、付き合ってたんだよな?」
「付き合ってたぜ。どうしてもって言われて」
何かがおかしい、と気付くのにそう時間は掛からなかった。思えば、この幼馴染みから聞くのは彼女と別れた時の愚痴だけ。それも彼女に関する話はまた向こうから別れを切り出された程度で、残りはまたフリーになったとかそんな話である。
付け加えるのなら、それも最初の三十分足らずで終わる。あとは他愛のない話をしながら二人で飲んでいるだけだ。もちろん成人する前は夕飯をともにするだけだったわけだが。
「好きなヤツがいるって知ってて付き合ってくれって言ったヤツが何言ってんだって話だろ」
更にクロウはとんでもないことを口にした。次々と出てくる衝撃的な事実にリィンの頭は理解が追い付かない。とにかく一度幼馴染を止めようとリィンはストップをかけた。
「ちょっと待ってくれ! クロウは、好きな相手がいるのか……?」
それでいて他の女性とお付き合いをしていたのかと、突っ込みどころは多いが何よりもまずはそこだろう。好きな人がいる、なんてリィンは聞いたことがない。
いや、幼馴染みといえどクロウがそこまでリィンに教える必要はない。でも、今まで付き合ってきた人たちはそれを承知の上だったのだとしたら。
「……まあ、一応な」
ちくり、胸に小さな痛みが走る。
知らなかった。クロウに好きな人がいることも、これまでの彼女はそれを承知で恋人関係になったことも。確かに自分たちはお酒の席でなんとなく付き合い始めてしまったからその話を聞くタイミングもなかったのかもしれないけれど。
じくじくと胸の痛みが広がり、それに伴うように気持ちが沈む。最初にきちんと確認しなかったのが悪いのだが、たとえ冗談だったとしても嬉しかったのだ。
クロウに――好きな人に、告白されたことが。
「…………ごめん」
他の子たちのように、無理に付き合わせていたのだろうか。好きな子がいてもいつものように付き合えばいいだけだと、嫌な思いをさせてしまったのか。そうだとしたら、冗談を真に受けて悪いことをしてしまった。
「は? 何でお前が謝るんだよ」
「だって俺、クロウに好きな人がいるなんて知らなかったから」
これまでの彼女のようにどうしてもと頼み込んだわけではない。だけど、クロウには好きな相手がいる。
たとえお酒の席で言ってしまったことだとしても、クロウなら責任を持つだろう。そんな幼馴染の性格をリィンはよく知っていた。そうやって今日まで付き合わせていたのなら――。
「待て待て! お前、何か勘違いしてるだろ」
リィンが考えていたところでクロウが慌てて声を上げる。
「勘違い……?」
「俺は好きなヤツにしか告白したことねぇよ」
クロウの言葉にリィンは首を傾げる。
普通、告白とはそういうものではないだろうか。好きでもない相手に告白なんて罰ゲームか何かでしかしないだろう。自分たちの場合は酔っていたから流れで付き合うことになったけれど。
そう思ったところで目の前の友人が大きく溜め息を吐いた。
「言っとくけど、俺は今まで自分からは二回しか告白してねぇからな」
「……そうなのか」
クロウが好きになった子はどんな子なんだろう。やっぱり女の子らしくて可愛くて、優しい子とかだろうか。
おそらく自分とは全く違う、素敵な女性を好きになって告白をした幼馴染。二回とも同じ子に告白したのか、別の子なのか。どちらにしてもクロウに告白されるなんて羨ましいなと――。
「だから!」
一際大きな声を出されて正面を見る。どことなく怒っているようにも見える幼馴染みは続けて言った。
「俺はお前以外に告白したことなんてないって言ってんだよ」
そして訪れる、暫しの沈黙。
クロウが何を言っているのか、リィンにはさっぱり分からなかった。
(告白? 誰が、誰に……?)
クロウの言葉の断片を頭の中で繰り返す。一瞬でリィンの頭は疑問符でいっぱいになった。
一つずつその問いの答えを探し、ゆっくりとクロウの言葉を理解しようとする。そうしてやっと、クロウがこれまでに二度ほど告白した相手が自分だと言われたことは理解したが。
「……告白、されたことなんてあったか?」
聞き返したのは、リィンの身に覚えがなかったからだ。もしもクロウに告白をされたことがあるのなら覚えているだろう。断る理由だってない。
しかし、幼馴染は暫し視線を彷徨わせるとそのまま下へ落とした。
「…………お前は俺のことを幼馴染みとしか見てなかったからな。告白だとは受け取ってもらえてねぇよ」
ちなみに高校生の時の話だと言われてもやはり記憶にない。けれど、ここでクロウが嘘を吐く理由はないだろう。何よりも嘘を吐いていないことは見るからに明らかだった。
鼓動がやけに早く感じる。幼馴染の言葉通りなら、告白されたことを覚えていないのではなくそれ以前の話ということになる。高校生の頃……と思い返しながら冷たい指先で掴んだカップの氷が音を鳴らした。
「それが、一回目?」
「そう。二回目は一ヶ月前、たとえ酒の席でも覚えてるならお前は付き合ってくれるだろ」
こっちが何も言わなければ酒が入っていたが故に出た戯れ言と流したかもしれない。でも、言えばそれが勢いで出た言葉だったとしてもリィンならなかったことにはしない。
リィンも幼馴染みの性格は分かっているが、クロウもまた幼馴染みの性格を理解していた。たとえ酒の席で出た話だとしても、この幼馴染みは適当に流すことはしないと。少し前にリィンも考えたそれをあの時、クロウは既に分かっていて告げたのだ。
「じゃあ、さっきの一応っていうのは……」
「だってお前、信じてないだろ」
俺がお前を好きだって話。
真剣な目でクロウがじっと見つめる。信じていない、ではなく信じられない気持ちなら確かにある。今だって心臓は五月蝿いくらいに鳴っていて、頭は理解が追い付いていないような状態だ。
「俺が好きなのは、昔からお前だけだぜ」
好きだ、と言われて同じ言葉を返したことはある。あれはまだ好きの意味が一つではないと知らなかった頃の話だ。
あれから十年以上の月日が流れ――と考えたところで脳裏に浮かんだ光景。
『俺と付き合わないか』
夕焼けの帰り道。生徒会の仕事もなく、たまたま玄関で幼馴染みと鉢合わせた紅葉が散り始めた季節のことだった。唐突に好きな相手も付き合っている人もいないかと確認されて……。
(そうだ、あの日)
その言葉にどこに付き合えばいいんだと聞き返したら幼馴染には深い溜め息を吐かれた。それからすぐのことだ。幼馴染が久し振りに好きだと告げたのは。
好きにも種類があると知ってから初めて言われたそれ。そんな幼馴染からの好意をリィンはこれまでと同じものだと受け取り、同じ言葉を返したのだ。だが、それがクロウの言う一回目だとすれば。
「クロウは、高校生の頃から好きだったのか……?」
問い掛けると、赤紫の瞳がリィンを映した。ワンテンポ遅れての質問におそらく幼馴染は悟ったのだろう。いや、と目を伏せてクロウは言う。
「俺がお前を好きになったのはもっと前。そういう好きだって自覚したのは中学ン時だけど、ずっと前から好きだった」
優しい声色で紡がれる。好き、の一言に込められた想いにとくんとリィンの心臓が鳴る。数分前までは沈んでいた心がクロウの言葉であっという間に満ちていく。単純だけど、リィンの気持ちはとっくに――。
「なあ、リィン」
幼馴染が呼び、真っ直ぐな赤紫がリィンを映す。
「今、好きだって言ったら。今度は信じてくれるか?」
一度目の告白は、昔と同じ幼馴染としての好きとしか受け取ってもらえなかった。二度目は酒の席の成り行きで、結果的に恋人という関係にはなったけれどちゃんとした言葉は伝えていない。伝える機会もなかったし、伝えて良いのかもお互い分からなかった。
でも、もうお互いに想い人の本当の気持ちを理解したから。一呼吸を置いた後にクロウは告げた。
「好きだ、リィン」
想いが、伝わる。幼馴染としてではない、特別な意味の、好き。
ずっとリィンが欲しかったそれは、長いことクロウが求めていたものだから。
「……俺も、クロウが好きだよ」
昔のように、けれど昔とは違う意味を込めてリィンも応えた。
込み上げる想いで胸が溢れそうだ。既に恋人ではあるけれど、今、本当の意味で恋人になれたような気がした。幼馴染ではなく、恋人でいいのだとやっと。
そう思ったところでガタッと椅子を引く音が近くで聞こえた。それからクロウに腕を掴まれたのは間もなくのことだった。
「あと他に寄りたいところはないんだったよな」
「え? あ、うん。俺はないけど……」
「なら帰るぞ」
あまりに唐突な恋人に困惑していると「まだ話したいことが色々あるんだよ」とクロウはちらと視線を動かした。すっかり忘れていたが、ここはショッピングモールのイートインコーナーだ。人もまばらな上にこれだけ賑やかなら自分たちの話など周りには聞こえていないだろう。とはいえ、込み入った話をする場でないことは間違いない。
クロウの言おうとしたことを理解したリィンは腕を引かれるままに立ち上がる。それを確認したクロウは腕を掴んでいた左手でそのままリィンの右手をぎゅっと握った。
「ク、クロウ……!」
「これならはぐれないだろ?」
明らかにそのためではないそれに「この年ではぐれるわけないだろ」と言い返しながらもリィンもその手を振り解こうとは思わなかった。
あたたかくて、大きな手。幼馴染のその手にはいつもリィンを安心させてくれた。大きくなるにつれてちょっぴり恥ずかしくもなったけれど、リィンはクロウと手を繋ぐのが好きだった。
(ああ、そうか)
絡まる指先を見つめ、今更ながらに思う。自覚したのは中学生の時だけどそれよりも前から好きだった、と言った幼馴染の言葉の意味をリィンもまた理解した。
あの頃は好きに種類があるなんてことは知らなかった。でもきっと、あの頃から自分はクロウが好きだったのだ。いつも隣にいて、いつだって自然と目で追いかけていた彼のことが。
揺れる銀糸を追って、自然と口元が緩んだ。そして思いのままにリィンは口を開く。
「クロウ、帰ったら俺の話も聞いて欲しいんだけど」
「何当たり前のこと言ってんだよ。つーかさ、お前いい加減ウチに住めよ」
え、と小さく声を上げたリィンに「大学まで俺のアパートのが近いだろ」と呟きながらクロウは振り返る。
「ま、その話も家に帰ってからな」
そう話す恋人はなんだかとても嬉しそうな顔をしていた。いきなり飛んだ話に驚きながら、けれどそんなクロウの顔を見たリィンは微かな熱を胸に手を引かれるまま歩いた。
家に帰ったら色々な話をしよう。これまでのこと、これからのこと。いっぱい二人で話そう。
そしてここからもう一度、始めよう。恋人としてのお付き合いを。
fin