放課後。生徒会室に顔を出したリィンは「それじゃあ少しだけ」とトワに頼まれた仕事を手伝っていた。それを終えていざ帰ろうとした時、何気なしに確認した鞄を見てノートを教室に忘れてしまったことに気が付く。普段であれば一日くらい学校に置きっ放しでも明日持ち帰れば良いかと思うところだが、今日は課題をこなすのにそのノートが必要だった。
 大人しく取りに戻ることにしたリィンは来た道を引き返して本校舎へ。誰もいない教室で真っ直ぐに自分の机へ向かい、そこで見つけたノートをしっかりと鞄に仕舞う。そして今度こそ帰ろうとリィンが教室を出て間もなくのことだった。


(ピアノの音……?)


 聞こえてきたその音に階段の手前で足を止める。別に放課後に楽器の音が聞こえること自体は珍しいことではない。ピアノにバイオリン、フルートなどの音色は吹奏楽部が活動している日には学校中に響いている。
 しかし今日は部活がないのだとエリオットが話していた。そうなるとこれは誰が弾いているのだろう。吹奏楽部の誰かが活動日ではないけれど練習に残っているのかもしれない。そう思いながらもなんとなく気になったリィンの足は音楽室へと向かった。


「失礼します」


 ピアノの音が聞こえたということは誰かがいるのは間違いない。一言そう言ってからリィンは音楽室に入る。すると、予想外の声が聞こえてきた。


「よう、どうした。また生徒会の手伝いか?」

「クロウ……!?」


 驚くリィンに「何だよその反応は」とクロウはじと目を向ける。それに対して「いや、クロウがいるとは思わなかったから」と素直に答えれば「まあいいけど」とだけ返された。どうやら本人はあまり気にしていないらしい。
 確かこの友人はリィンが生徒会室に行く時にはまだ教室にいたはずだ。その後で音楽室にやってきたのだろうか。でも音楽室に用なんてあるのかとリィンは些か失礼なことを考える。


「学院祭のステージのことを考えてたんだよ」


 そんなリィンの考えを読んだのか、クロウは音楽室にいる理由を教えてくれた。成程と思いながらそうだったのかと答えたリィンの視線は音楽室をぐるりと一周する。


「ところで、ここにはクロウ一人か?」

「は? そりゃ見ての通りだけど」


 いきなり何を言い出すんだとでも言いたげな赤紫の視線が刺さる。だがすぐに「もしかして生徒会の手伝いで誰かを探してんのか?」と聞き返された。どうやらリィンが音楽室にやってきた目的をクロウはそう解釈したようだ。そういえば音楽室に訪れた時に聞かれたそれにはまだ答えていなかった。俺は生徒会に行ってみるつもりだと教室に残っていたクロウと話したからそう思われるのは当然かもしれない。
 けれどリィンがここへ来たのは生徒会の手伝いが理由ではない。手伝いならさっき終わったところだと言えばへえと相槌を打たれ、次いで「それなら何しに来たんだ?」と新たな疑問をぶつけられる。しかしそれはリィンが音楽室にいたクロウを不思議に思ったのと同じだろう。


「ピアノの音が聞こえてきたから気になったんだ」

「あーそれで他に誰かいないのかなんて聞いたのか」

「でもクロウ一人なんだよな?」


 もう一度尋ねてみるがクロウの答えは変わらない。実際クロウ以外に誰もいないことはリィンもこの目で見て分かっている。今この音楽室にいるのは自分達だけだ。
 それは分かったもののそうなるとさっきのピアノの音はどこから聞こえたのだろうか。レコードというわけでもなさそうだったけれど、と考えていたリィンの視線はピアノのすぐ後ろにある窓へと背中を預けているクラスメイトへと向かう。


「……クロウって導力ギターが弾けるんだよな?」


 学院祭の出し物を考えていた時にトワから見せてもらった映像。その中で彼は導力ギターと呼ばれる楽器を演奏していた。そのことを思い出して問えば「まあな」と肯定が返される。


「もしかして他にも楽器を弾けるのか?」


 自分達しかいない音楽室。そこから聞こえてきたピアノの音。ピアノのすぐ傍にいるクロウ。
 これらの事柄から導き出されたのはそんな答えだった。というより、リィンが来るまでクロウしかいなかったのならもうそれしか考えられない。尋ねるリィンにクロウは口の端を持ち上げた。


「正解。つってもピアノはちっとしか弾けねーけどな」


 意外だったかと聞かれたリィンは素直に頷いた。そんなことはないと否定したところでそれなら先程までの反応は何だという話しになる。
 ピアノが弾けたのか。いや、ピアノも弾けたのか。この友人は本当に何でも出来るんだなとリィンは心の中で思う。言ったなら何でもは出来ないと否定されるかそりゃあお前より長く生きてるからなと肯定されるか。長く生きているといってもたかが二年、しかも今は同輩なのだから威張れることではない。だがそんなクロウには色々と助けられているのもまた事実だ。


「今日は吹奏楽部の活動もねーしな。お前も弾くか?」

「いや、俺は全然弾けないから」

「まあいいからこっちこいよ」


 本当にピアノに触ったことはないから弾けと言われても困るのだが、呼ばれたリィンは一先ずクロウの方へと歩く。それを見たクロウもまた窓から背を離すとピアノの横に立った。
 念のために俺は弾けないともう一度言ったところ、それなら触ってみる良い機会じゃないかと返される。こういう時じゃないとピアノに触る機会なんてないだろうと。確かにそれはそうかもしれない。でもと言うリィンの話を華麗にスルーしたクロウはとりあえず座れと椅子を叩く。結局溜め息を吐いたリィンはその椅子に座った。


「ここがド、そこから順にドレミファソラシド――っていうのは分かるか」

「それくらいなら」


 ドから次のドまで弾く時には指を潜らせる必要があるというのも指が五本であることに対して鍵盤の方が多いことを考えれば納得だ。だが実際に弾く時にはその限りではないらしいのだけれど、まあそれは良いだろうとクロウは説明を省いた。代わりに左手の場合は指を潜らせるのではなく、指の上を跨いで弾くのだと教えてくれた。


「……ピアノって難しいんだな」

「他の楽器にしたって最初は似たようなモンだろ。指だってある程度どれを使うか決まっているとはいえ絶対でもねーしな」


 導力端末を使うのと同じだと言われてなんとなくリィンも理解する。あれも一応どの指でどのキーを押すべきかは決まっているというがやり易いようにやれば良いと教えられた。手の大きさだって人によって違うのだから押しやすい指が変わるのも当然だとクロウは補足する。


「で、一通りピアノの音階は分かったと思うんだけどよ」

「いや、だから俺は何も弾けないって言っただろ」

「でもお前リュートは弾けるんだろ? なら知ってる曲もあるんじゃねーの?」


 そう言われるとリィンも返答に迷う。確かにリュートでなら暗譜をしている曲もあるのだが、それでもやはりピアノとは勝手が違うだろう。リュートは弦楽器、ピアノは鍵盤楽器。その時点で既に違っている。
 別に誰に聞かせるわけでもないんだから気にしなくて良いだろうとクロウは言うがクロウはいる。そう指摘すると「俺のことは気にするな」と返されるがそれは無理な話だろう。


「俺のことより、クロウが弾いてくれないか」

「俺だって大して弾けるわけじゃねぇって言ったと思うんだけどな」

「でも俺と違ってクロウは弾けるだろ」


 さっきも廊下で少しだけ聞いたけれどちゃんと聞いてみたい。言えば「まあ弾くのは良いけど」と話しながら何かを思い付いたような表情を浮かべたクロウは続ける。


「じゃあその代わり、いつかお前のリュートも聞かせてくれよ」


 クロウの口から出た予想外の言葉にリィンはきょとんとする。それなら良いだろとクロウはこちらの返事を待つ。
 リュートにしてもそこまで弾けるわけではないのだが、それを言うのならおそらくクロウのピアノもそうなのだろう。それでも聞いてみたいと思う理由はただ純粋に気になるからだ。彼が奏でる音がどんなものなのか。


「……分かった。いつか機会があった時に」

「その約束、忘れんなよ?」


 ああと頷くとクロウは小さく笑みを浮かべた。それから交代するかと言われて椅子を譲る。
 間もなくして音楽室に響くのはピアノの優しい音。白と黒の鍵盤の上を細長い指が流れるように移動する。どこか物悲しくも聞こえるそれは美しい音色だった。







Quarter rest

それは穏やかに流れる世界の一時の休息