「よう、邪魔するぜ」
「クロウ!?」
コンコンとノックをした後で返事を待たずにドアを開けては全くノックの意味がない。しかし、入ってきてしまったのだからもう遅い。
真ん丸の青紫がクロウを凝視する。まずい、どうしよう。何か言わなければとリィンの頭は半ば思考を停止しながらも指示を促す。けれど、あまりに唐突な出来事に何も言葉が浮かんでこない。自分に向けられる視線が、怖い。
「そういや今日は満月だな」
だが、焦るリィンに投げられた言葉は何とも呑気なものだった。あまりに予想外の発言に呆けるリィンを余所にクロウは一度窓の外を見た。それから赤紫は再びリィンを映す。ベッドの上で蹲るリィンを。
胸をぎゅっと押さえながらリィンは自分を映す赤紫を見る。鋭い友人に見つかった時はしまったと思ったけれど、まさか気付いていないのだろうか。気付かれていないのならそれで良いが、クロウに限ってそれはないだろう。気付かない振りをしてくれているのか、それとも――。
「……辛そうだな」
次いで出た言葉にリィンの体が強張る。やはり気付かれている。こんな状態を見られれば当たり前だ。でも何とか誤魔化さなければとリィンはまだ上手く動かない頭を必死に回転させる。
「いや、大丈夫だ。けどすまない。用事なら少し後にしてもらっても良いか……?」
この場を切り抜ける言葉を探したけれど、目の前の友人相手に隠し通せるだけの言葉は見つからなかった。だからせめて、見なかったことにして欲しいと願いを込めて尋ねた。
しかし、クロウから返ってきたのは衝撃的な一言だった。
「欲しいならくれてやろうか?」
血――と言ってクロウは左手でスルッとネクタイを緩めた。そのまま右肩のあたりを曝け出すようにシャツを開かれてリィンの目はこれ以上ないほど大きく開かれた。
「な、にを…………」
「辛いんだろ? 遠慮しなくても良いぜ」
「そうじゃなくて」
何故急にそんな話になるのか。体調が悪いのかと心配されるのならまだ分かる。けれど血が欲しいなんて何をどうしたらそうなるのかさっぱり分からない。
状況が飲み込めない様子のリィンにクロウはきょとんとした表情を浮かべた。
「何だ、お前気付いてなかったのか」
まあそうか、と独り言を呟くクロウを前にリィンの頭上には疑問符が幾つも浮かぶ。気付いていない、とは何のことだろうか。考えていると赤紫がリィンを捉えた。そのままゆるりと口角が持ち上げられる。
「俺もお前と同じ――つーか、俺は純血だから飲み過ぎるとお前にはちときついかもな?」
同じ。純血。クロウの言葉がリィンの頭で復唱される。それらの言葉がクロウの口から出てきたという事実には驚きが隠せないが、リィンはその意味が理解出来てしまった。何せ、リィンもそうなのだ。
――否、クロウの話が真実ならばむしろ。
「……クロウも、そうだったのか」
「今は古い伝承みたいなモンになっちまってるからバレねーけど、俺は見たまんまだろ」
遠い昔、この世界には吸血鬼と呼ばれる鬼がいた。彼等は文字通り人の血を吸い、命を奪う鬼だった。人のような姿をしながらも人ではない、悪魔のような存在である吸血鬼の大規模な狩りが行われた時代もあったという。
彼等の特徴として尖った犬歯や白い肌などが挙げられるが、尤も分かりやすい特徴といえば白銀の髪に紅色の瞳。今でこそ珍しくもなくなったそれはかつて、悪魔の象徴として人々に恐れられていたものでもある。
けれどそれも過去の話。今となってはただの伝承でしかない吸血鬼がこの世に存在していると思っている人間は殆どいない。時代が流れ、他の国との交友関係も広がれば銀髪や赤い目も珍しくなくなった。
しかし、その容姿にぴったりと重なるクロウは正真正銘の吸血鬼だった。そしてリィンのあの力もまた古くから伝わる鬼の欠片。ただリィンの場合は純血ではないために普段はその色が表に出ていないというだけの話だ。
「まあ俺も伝承にあるような太陽に弱いとかそういうのはねぇよ。純血ではあるが吸血鬼の血筋自体が時代の流れとともに薄くなってんだろ」
お前もそうだろうと聞かれてリィンは頷く。リィンの場合は純血ではないから余計にそうだろうなとクロウが呟いた通り、こういった症状が出ることも珍しい。
ついでにいうとそこまで強く血を欲したこともない。ただ時々、胸が苦しくなるのだ。同時に何かがリィンの中を巡る。駄目だ、と抑え込んだ衝動の正体は吸血鬼としての本能か。分からないけれど。
(そういえば士官学院に入ってから……)
血が騒ぐことが増えた気がする、と思ったリィンはクロウを見る。
「多分、お前の想像通りだぜ」
向けられた視線だけで意味を察したクロウが答える。そうか、だからとリィンも理解した。
「でもクロウが気にすることでもない」
暫くすれば治まるから、と同族であるが故に心配して訪ねて来たであろう友人にリィンは小さく笑みを作った。
リィンの血が以前よりざわめくことが増えたのは近くに純血の仲間がいたから。それに当てられた影響がこれなのだろう。そして、それらを全て知っていたクロウは返事を待てば部屋に入れてもらえないと考えて押し入ってきたのだろう。こう見えても普段は返事を待たずに部屋に入るといった無作法をするような相手ではない。漸くリィンの中で全てが繋がった。心配してくれただけで十分だ。
「……ったく、遠慮することなんてねぇだろ。早いとこ済ませる方がお前のためだぞ」
だが、リィンの言葉を聞いたクロウははあと大きな溜め息を吐いて呆れた顔を浮かべる。自分でも分かってんだろ、と。
「今日は満月だし俺も暫くはこっちの寮にいるんだ。その意味、分かるか?」
「それは…………」
「それにだ。お前がこの血のことをどこまで知ってるかは知らねーが、お前が探してるのは俺の血だって気付いてるか?」
「え?」
突然知らされたことにリィンは思わず聞き返す。そんなリィンに「やっぱり知らなかったのか」とクロウは零した。
「さっきも言ったが俺は純血なんだよ。お前に俺の血は強すぎるが、少し飲めば当分の間衝動が治まるはずだ」
そういうものなのか、とリィンは多少の疑問を抱きながらクロウの話を聞く。
正直なところ、リィンは吸血鬼について詳しいわけではない。自分の中にある不思議な力について様々な本を読んで辿り着いた可能性の一つがこれであり、それがほぼ確信であったためにある程度の知識は持っているがそれだけだ。
だからクロウに言われた時はやはりそうかという気持ちもあった。そして今、自分の体に流れる血についてクロウはリィンよりも詳しい。ここで嘘を吐く理由もないのだからこれらは間違いなく真実なのだろう。そうだとすれば、これもクロウの優しさであることは分かるが。
「遠慮することはねぇし、どうしても気になるならお前も俺に協力してくれれば助かる」
黙ったままのリィンを見兼ねたのだろう。どうだ、とクロウは協力を持ち掛ける。
しかし、これだけでは意味が掴めない。自分を気遣ってくれていることは分かってもそこまでしてもらうのはと躊躇ったリィンが「協力?」とそのまま疑問を返すと。
「俺もお前と同じってことだ」
そう言って赤紫が細められた。
深まる紅がリィンを真っ直ぐに捉える。瞬間、ぞくっと何かがリィンの中を走る。
「ま、俺の方も衝動が酷いわけじゃない。つーかお前よりはマシだろうな」
「……そう、なのか?」
一度下ろされた瞼が再び持ち上がった時、その赤紫に浮かぶ色は普段と変わらないものに戻っていた。そこにいるのはいつも通りのクラスメイトで、ふっと口元を緩めたクロウは「だからそんなに必要はねぇけど、これならお互い利害も一致してると思わねぇ?」と先程の協力について提案した。
「でも」
「ほら、さっさとしろ。じゃねーと、俺がお前を襲うことになるぜ?」
え、と驚きに固まりながらリィンはクロウを見る。すると「言っておくが俺はお前のためだけに言ってるんじゃねーぞ」と冷静な声が静かな部屋にはよく通った。半分は俺のためだと。
それだけで言葉の意味を察することは出来なかったが、リィンの状況にすぐに気が付いたクロウはまだ自分の知らない吸血鬼の何かを知っているのかもしれない。今まで誰かの血を吸ったことなどないし、ましてや友人にそんなことをするなど考えられない。暫くすればこの症状も治まることは分かっているのだからそこまでしてもらう必要はないと思っていたけれど。
「どうする、リィン」
じっ、と赤紫の眼差しが向けられる。その視線が熱い。
否、熱いのはこの血のせいか。どくんと心臓が鳴るのが自分でも分かった。同時にこの血が求めているものも本能的に悟った。それを抑えようと胸に当てた手に力がこもるが、抑えるどころか鼓動が高まるのはクロウの言っていたように――。
「…………クロウ」
ぎゅっと目を瞑ったリィンは絞り出すような声でその名を呼んだ。どうしたら良いのか分からない、けれどその答えはリィン以上にこの状況を理解しているであろう友人が既に教えてくれていた。
呼び掛けに応えるようにクロウはそっとリィンの体を抱き締めた。そのままぽんぽんとあやすように背中を撫でながら「大丈夫だ」と優しい声が耳元に落ちる。
「ゆっくり息を吐け。俺のことは気にしなくて良いが加減だけは間違えんなよ」
飲み過ぎてもお前の体には毒だからな、と言われてこくりと頷く。
人の血を吸ったことなんてないからどうやったら良いのかと考えたのは一瞬。やはり本能的なものなのか、一つ深呼吸をしてその肩口に顔を寄せたリィンはそのまま白い肌に歯を立てた。つぷり、尖った歯が目の前の肌を傷つける。そして流れ込んできた血にリィンはすぐ頭を離した。
「どうだ。落ち着いたか?」
リィンが吸った血の量はほんの僅かなものだっただろう。だが、その血が体内に入るとどくんとまた一つ、心臓が鳴って体の中の何か――おそらくリィンの持つ吸血鬼の血が反応を示した。反応して、徐々に鼓動が治まっていくにつれてさっきまでの衝動が消えていくのを感じた。
「……本当に、クロウの言う通りだったんだな」
「おいおい、疑ってたのか? 俺は最初からお前のためを思ってだな」
「分かってるよ。ありがとう」
疑っていたわけではない。けれどたったこれだけであれほどまでに燻っていた血が抑えられたことには驚きを隠せなかった。
リィンの吸血鬼としての本能が求めていたのはクロウの血だった。でもその血は毒にもなるという意味もこの数秒でリィンは理解した。確かにあれ以上は不味いのだと、それもまた本能で察したからリィンはすぐにクロウから離れたのだ。やはり純血であるクロウはリィンと同じでありながらも特別なのだろう。
ふと、考え事をしていたリィンは自分に注がれる視線に気が付いた。その赤い瞳の奥にある熱を見つけてしまったのは先程のクロウの発言と、これもまた本能だったのかもしれない。
「……クロウは、平気なのか?」
問い掛けると「何が?」とだけ返ってくる。リィンの衝動が治まったのを確認して体を離したクロウは一見いつも通りだけれど、彼の中にも人ではない鬼の血が流れているはず。何より、先に協力関係を提案してきたのは向こうなのだ。
言葉を探して暫し彷徨った視線をリィンは真っ直ぐに目の前の赤紫へと向けた。リィンほど酷くはないと言っていたけれど、クロウもその衝動がないとは言っていない。
「もし、クロウも辛いなら。俺の血で良ければ……」
「良いのか」
リィンの言葉を遮るように言ったクロウは真剣な顔をしていた。それから。
「俺はお前の毒にしかならない」
――と、そう続けた。
先に協力して欲しいと言ってきたのはクロウだろう。言えば「俺のはそこまで酷くないって言っただろ」と少し前の台詞をそのまま繰り返された。
「……それに、今は止めておいた方が良い」
零された最後の言葉はリィンに向けたものにしてはうっかり聞き逃してしまいそうなほどの小さな声だった。だが、それこそがリィンの問い掛けに対するクロウの本当の答えなのだろう。
クロウはリィンよりもこの血に詳しい。だからこそさっきはリィンのためにああ言って、今はリィンのためにこう言っているのだと察するのに時間は要らなかった。
けれど、それならリィンのやるべきことは決まった。人のことは言えないんじゃないかと思いながらジャケットのボタンを外し、それからしゅるっとネクタイを外す。おい、とクロウの声が聞こえたがリィンは気にせずそのままシャツの一番上にあるボタンにも手を掛けた。
「俺も大丈夫だから、遠慮はしなくて良い」
元々そういう話だっただろう、ともう一度リィンは言う。僅かに身を引いたクロウは躊躇うように視線を逸らし、けれどやがてその目は青紫を見て問うた。
「…………本当に良いのか」
リィンが頷くと、一歩。距離を詰めて数分振りに互いの距離がゼロに戻る。
どくん、と強い痛みが走ったと同時に跳ねる心臓。クロウの触れた場所から熱が広がり、体は痺れたように動かなくなった。頭も真っ白になって何も考えられなくなる。体が、おかしい。
「……甘い」
銀髪が揺れ、肩口に息が掛かる。力の抜けたリィンの体は倒れそうになるが、クロウが腕を背に回したまましっかりと支えてくれたお蔭でベッドに倒れ込むことにはならなかった。
はあはあと呼吸が乱れ、さっきとは違った形で呼吸が早まる。けれどリィンの衝動は治まったまま、クロウが離れたことで意識もゆっくりと現実に引き戻されていく。
「平気か?」
「……ああ」
おそらく、クロウはちゃんと加減をしてくれたのだろう。それは既にリィンが落ち着きを取り戻していることからも確かだといえる。クロウの、本物の吸血鬼の力がこれほどとは思わなかったけれど、これでクロウの熱も治まったのなら良かったと安心していたリィンの肩にまた重みが加わる。
「悪い」
「俺なら大丈夫だから気にしないでくれ」
「そうじゃない」
ぎゅ、と背中に回されていた腕に力がこもったような気がした。
しかし、クロウはそれ以上何も言わなかった。暫くして顔を上げたクロウは微かな笑みを浮かべた。
「ともかく、俺も助かった。また何かあった時は遠慮せずちゃんと言えよ」
お前の方が症状は酷いんだから、と言ったクロウはくるりと背を向けてドアの方へと歩く。何かを隠された、そんな気がした。隠されたのか、言わなかっただけなのか。どちらも大差はないけれど。
「クロウ」
呼ぶと一度足を止めたクロウはリィンを振り返った。
「俺もまた何かあった時は頼らせてもらう。だから、これは二人だけの秘密な?」
にっと笑ってクロウは今度こそ部屋を出る。じゃあまた明日なと手をひらひらさせて去っていくその姿はこの部屋で何度か見た光景だ。何となしに見た机の時計もカチカチと変わらぬ時を刻んでいる。
静かになった部屋でリィンは一人息を吐く。
(二人だけの秘密、か)
自分一人の秘密が明るみになったかと思ったら、そこには同じ秘密があった。言われるまでもなくこれは他人には決して言えない秘密だ。いくらこの寮にいるクラスメイト達が信頼出来るといってもとても話せることではない。でも。
一人の秘密が二人の秘密になり、少しだけ気持ちが楽になったような気がした。クロウはどうなのだろうか。クロウもそうだったら良いけれど、そう思いながら見上げた月は空に星々と一緒に輝いていた。
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