「こら、あんま難しい顔して本読むな」
言われて顔を上げると「ほらよ」とテーブルの上にコーヒーが置かれた。ありがとうとお礼を言ったリィンは一旦本を閉じてコーヒーカップを手にする。
「本を読むのは良いけど、適度に休憩ぐらい挟めよ。どんどん視力が落ちるぞ」
「本を読むだけで視力は落ちないだろ」
「そういうことじゃねーだろ」
ジト目を向ければ「分かった、気を付けるよ」とリィンは頷いた。クロウが自分のことを気に掛けてくれるのは分かるが、そこまで気にしなくても良いのにとはリィンの心の声。
カップからはコーヒーの良い香りが漂う。コクンと一口、飲むと口の中にはあのほろ苦くも味わいのある風味が広がる。その温かさはリィンの胸もぽかぽかとさせた。
「………………」
リィンがコーヒーを飲む様子を眺めながら自分もコーヒーを飲んでいたクロウは不意にカップをテーブルに置き、そのまま前に手を伸ばす。
「あ、クロウ」
「やっぱこっちのが良いな」
クロウの手にはつい先程までリィンが掛けていた眼鏡がある。リィンとしてはいきなり何をするんだと言いたくなったが、今の一言で何となく理解してしまったので溜め息を吐くに留めた。
素顔なんていつも見てるだろうと呆れ混じりに零せばそういうことじゃないと言われる。何がそんなに不満なのか。全く分からない様子のリィンに今度はクロウが溜め息を吐いた。
「別にお前の素顔が見たかったわけじゃないぜ」
「……それなら何で取るんだ」
「そりゃあコイツが邪魔だったからだろ」
コイツ、というのは勿論眼鏡を指している。眼鏡が邪魔だったというのならつまりそういうことではないのかと考えるリィンの眉間には皺が寄り、それを見たクロウが「だからあんま難しい顔してんなよ」と指摘する。誰がさせたんだと呟くと全部これが悪いと責任は眼鏡に移された。だが眼鏡は何一つ悪くないだろう。というよりも眼鏡は何もしていないし何も出来ないのだからあまりに理不尽ではないだろうか。
「クロウは眼鏡が嫌いなのか?」
「嫌いじゃねーが今は邪魔だ」
「別に素顔が見たかったわけでもないんだろ」
それならどうして、というリィンの疑問にクロウは未だに答えてくれない。そろそろ教えてくれても良いだろうと赤紫を見ると「つまりさ」と目の前の友人は手に持っていた眼鏡を自分に掛けた。
「こういうことだって言えばお前にも分かるか?」
つーか意外と度が入ってんのなと零した友人には当たり前だろうと返しておいた。眼鏡なのだから度が入っていなければ意味がない。尤も最近はファッションとして度の入っていない眼鏡を掛ける人も増えているがリィンのそれは本来の目的のために作ったものだから当然である。
些か話が逸れてしまったが、それで何も思うところはないかとクロウが話を戻す。何かと言われてもと思いながらリィンは眼鏡を掛けている珍しい友人を眺める。
「……クロウは眼鏡も似合うな」
「そりゃどうも。って適当なこと言ってんなよ」
明らかに何も思い付かなかったから適当に答えただけじゃねーかというのは半分当たりで半分外れだ。眼鏡を掛けた時の感想以外に何を言えば良いのか分からなかったのと、眼鏡を掛けている姿はいつもと少しばかり違って見えたのも本音である。
だがどうやらクロウが言いたいのはそういうことではないらしい。それはそうかと思うが、一体クロウは眼鏡の何が不満だったのか。こうして眼鏡を掛けているクロウを見ていたところで答えが見つかるとは思えないんだが、と考えていたら不意に赤紫とぶつかった。
「あ」
「分かったか?」
リィンの声にクロウがすかさず投げ掛ける。
普段は眼鏡を掛けずに過ごしているリィンは眼鏡を掛けていることの方が珍しい。それなのに眼鏡が邪魔だと言われる意味が分からなかった。眼鏡をしていたところでクロウの邪魔にはならないはずなのに、とリィンも今さっきまでは思っていた。
「…………それは素顔が見たいっていうのとは違うのか?」
「結果的にはそうかもしれねーが、俺としては眼鏡のレンズが邪魔だと思っただけの話だからな」
レンズ越しに見る青紫はいつもとは少しばかり違って見える。眼鏡を掛けている姿もそれはそれで良いけれど、こうしてお茶をしている時にはあの青紫が見たい。
そう思ったままに手を伸ばしてクロウはリィンの眼鏡を外し、レンズがなくなったことで透き通るような青紫が現れた。そしてクロウの口から出たのが「やっぱこっちの方が良いな」という一言である。
クロウが眼鏡を掛けたことで見慣れているはずの赤紫がいつもと違って見え、それに気付いた時にはリィンもクロウの言おうとしたことを理解した。そういうことかと理解をして、何とも言い難い気持ちになってしまったのは仕方がないだろう。
そんなリィンを見て赤紫は優しく細められる。けれど違う、いや、邪魔だと思ってしまったリィンも結局はクロウと同じで。迷った末に手を伸ばせば案の定クロウには笑われてしまったがこれはもう開き直るしかない。
「クロウが言い出したんだろ」
「いやー分かって貰えて何よりだぜ。けど、リィン君も相当俺のことが好きだな?」
「……その言葉はそのままクロウ自身にも返らないか?」
「俺はお前が好きだぜ」
当たり前のように言う恋人にリィンの頬はほんのりと赤く染まる。そのまま僅かに視線を落としながらリィンが「俺も」と小さく口にするとクロウは愛おしそうな瞳で恋人を見つめながら「知ってる」と微笑む。
その顔はずるい、とリィンは思うがクロウに言わせればリィンだって同じようなものだ。といってもずるいとは思ったわけではないが、可愛いなとか好きだなという感情は自然と溢れてくる。
「リィン」
呼ばれて顔を上げるといつもの赤紫と目が合う。それだけでクロウの言おうとしたことを悟ったリィンは静かに目を閉じた。それから唇が触れ合ったのは間もなくのこと。
「勉強熱心なのは良いけど、何事もほどほどにな」
口付けを交わし、そのままクロウの左手はリィンの頬を撫でた。せっかくの休日なんだからゆっくり体を休めることも忘れんなよと言ったクロウは空になったカップを二つ持って立ち上がる。
キッチンへと向かった恋人の背を見つめながら暫し考え事をしたリィンは徐に腰を上げて自分もキッチンへ向かう。
「どうした?」
「片付けくらい俺がやるよ」
追い掛けてきたリィンの言葉にクロウは小さく笑って「なら二人で終わらせちまおうぜ」と返す。一人でも大して時間が掛からないそれにリィンも分かったと頷いた。
「…………クロウ」
「何だ?」
「食材も少なくなってきたし、後で買い物に行かないか」
「そうだな。ついでにたまには外食でもするか」
それも良いなと話しながら二人は並んで洗い物を片付ける。どうせならとそこに幾つか予定が追加されていく。休日は既に半分以上の時間が流れてしまったが、まだ十分に時間はある。
カップを片付けるくらい一人でも時間は掛からないし然程手間にもならない。たったそれだけのことをわざわざ二人でやる理由なんて決まっている。要するに隣にいる恋人のことが好きで、お互い相手をよく見ているという話である。
その瞳から伝わるモノ
自分とは違う色を持つそれに惹かれたのは随分と昔の話