「あちぃ……」


 じりじりとした熱は室内の気温をぐんと上げていた。最高気温は現在も尚更新中。額から流れる汗を拭ってもまたすぐに汗が吹き出てくる。


「夏なんだから仕方ないだろ」


 同居人の呟きを拾ったリィンもぱたぱたと団扇を扇ぎながら暑さを和らげる。今が夏である以上は暑くて当たり前、肝心なのはその暑さをいかにして過ごすかだ。冷房さえあればこの狭い部屋はすぐに快適な空間へ早変わりするのだろうが、生憎ここには扇風機の一つもない。暑さを凌ぐにはそこにある駅前で貰った団扇を使ってくれとしか言いようがないけれど。


「というか、暑いなら離れたら良いんじゃないか?」


 暑い暑い言いながらも先程からこの同居人はリィンの背中にぴったりとくっついている。どう考えてもその分余計に暑いだろう。
 暑いのが嫌ならばせめて離れれば良いというのに「それはまた別の問題だろ」と謎の主張をしてくるのだから困ったものだ。結局、リィンは自分を扇ぐついでに後ろにも風がいくように右手を動かす。それで多少はましになったのか、部屋には風鈴の音色だけが響くようになる。
 チリン、という音を聞くと少しだけ涼しいような気がするそれは一週間ほど前に後ろの友人が唐突に買ってきたものだ。


『クロウ!!』


 そう、五年もの間音信不通だったこの友人と再会したのは今より五ヶ月前のこと。
 あの日、リィンは全てを捨てた。



□ □ □



「よう、久し振りだな」


 声を掛けると一瞬だけ驚いた顔をしたクロウはすぐに何事もなかったかのようにそう言った。諸用で卒業したばかりの大学へ行った帰りの駅、そこでリィンは五年振りに目の前の友人との再会を果たした。
 ――五年、つまりこの友人との再会は彼が高校を卒業して以来となる。それまではほぼ毎日顔を合わせ、連絡もそれなりに取り合っていた。しかし、そんな彼との繋がりはその日を最後にぱたりと途切れたのだ。携帯は繋がらない、友人も誰も行方を知らない、何か聞いていないかと尋ねられた回数は両手でも余るほどだった。本当に突然、彼は自分達の前から姿を消した。


「久し振りじゃないだろ!? みんなどれだけ心配したと思って……」

「あー悪い。携帯水没してデータ全部飛ばしたんだよ」


 バックアップも取ってなかったから誰にも連絡が出来なかった。クロウが口にしたそれは有り得ない話ではなかった。だが、何故かこの時。リィンはクロウが嘘を吐いていると思った。理由はない、けれど違うと直感した。
 だからだろう。用があるからと早々に立ち去ろうとした友人の腕をリィンは反射的に掴んでいた。


「…………そういやお前ももう卒業か。四月からは社会人の仲間入りなんだな」


 引き止めたものの先が続かないリィンを見かねたクロウが口を開く。頑張れよ、という声は優しくありながらもどこか素っ気なさを感じさせた。
 そして理解した。今、ここでこの手を離したらまた目の前の友人は姿を消すと。


「……クロウは、今」


 何をしているんだ、と聞きたいけれど聞いて良いのか分からず言葉が止まる。突然姿を消した友人に気安く触れて良いことではない気がした。何かしらの事情があることは目に見えているのだ。
 でも、それなら何を言えば良い。自分は兎も角、先輩達――クロウと親しかった友人達にくらい連絡を入れたらと言うのも余計なお世話だろう。偶然再会したからといって自ら連絡を絶ったと思われる友人に連絡先を聞いて良いのかも分からない。あんなに近くにいたはずなのに、いつの間にこれほど遠くなってしまったのか。


「お前は」


 聞こえてきた声に顔を上げる。すると赤紫の瞳がリィンを映していた。


「お前は、俺のことなんて忘れて真っ直ぐ歩いていけば良い」


 クロウの言葉に息を飲む。
 何を言っているんだ、と言い終えるより先にそれがお前のためだと続けられた。今日のことも高校の頃の思い出も、全部忘れて昨日までの日常を明日からも過ごせば良いのだと。


「そんなこと、出来るわけないだろ」


 声が、震える。どうしてそんなことが言えるのか。別に無理難題は言っていないというけれど、それはこの友人が何も分かっていないだけだ。
 五年会わなかったのだから今更だなんて思えるわけがない。クロウは、リィンにとって大切な友人の一人なのだ。リィンだけではない。みんながクロウを心配していた。そのことを彼は何も分かっていない。


「クロウは、何も分かってない」

「……分かってないのはお前の方だ」


 違うと否定するより前に「全部忘れちまえ」と今まで聞いたことのないような冷たい声がリィンの胸を刺す。何もかも忘れて、もう関わるなと言外に訴えている。
 でも、リィンはここで引くわけにいかない。ここで引いてしまったら最後、本当にこの友人と会うのは最後になってしまうかもしれないのだ。最後になんて、させない。


「それは無理だって言ってるだろ。クロウは大事な友達だ」

「友達だから、だろ」


 赤紫に諦めのような色を浮かべてクロウは笑う。どうしてクロウがそんな顔をするのか、リィンには全く分からなかった。友だから忘れることなど出来ないと言っているのに、まるでこの友人は忘れなければ友でいられないとでもいう風に話すのだ。
 説明を求めてリィンは赤紫を見つめる。答えてくれるかは分からないけれどこれだけでは納得がいかなかった。もし、本当にクロウが自分との繋がりを絶つ気ならば当然答えは得られないだろう。これは一つの賭け――いや、クロウの気持ちを知る最後のチャンスだった。

 二人の間に沈黙が流れる。辺りはがやがやとした声に溢れ、時折構内のアナウンスが流れていたけれどその殆どは耳に入っていなかった。
 駅の一角で何やら話をしている自分達に時折怪訝そうな視線が向けられ、しかし皆すぐに視線を散らして早々に去って行った。所詮はそんなもの。何も知らない他人からしてみればその程度の。


「なら、何もかも捨てて俺と一緒に来るか?」


 長い沈黙を破ってクロウが問い掛けた。赤紫はじっとリィンを見つめている。それはおそらく、自分に対する友人からの最後の忠告――警告なのだろう。


「どうやっても過去になんて戻れない。あの頃のように、なんて無理な話なんだぜ」


 時が流れ、街は移り変わり。歳を重ねた分だけ人も変わり、その人を取り巻く環境だって変わっていく。昔のまま変わらずに在るものの方が少なくなっていく世界で過ぎ去った日々を求めることは不可能だ。リィンも、クロウも高校生だった頃とは様々なことが変わってしまった。
 そして、そんな自分達の前にある選択肢はこれだけらしい。全てを捨てるか、一つを捨てるか。極端ではあるがクロウがそう提示したということはそれしかないのだ。それが、今のクロウの。


「な? 俺のことなんてさっさと忘れて――」

「そうすれば、クロウはちゃんと話してくれるのか」


 尋ねると赤紫の瞳がまん丸くなった。何を言って、と驚愕の表情を浮かべるクロウに「一緒に来るかって聞いたのはクロウだろ」と答えるときゅっとその唇が結ばれた。


「……馬鹿なことを言うなよ。俺は冗談で言ってるわけじゃない」

「俺だって冗談なんて言ってない。クロウは大事な友達だって言ったはずだ」

「たかが一人のために全てを捨てるなんて馬鹿げてるだろ!」

「俺は! 俺は、クロウの力になりたい」


 ただの友達じゃない。大切な人なのだ。クロウの他にもリィンにとって大切な人達は沢山いる。その人達全てを捨てるなんてとクロウは言うけれど、そうしないとクロウの力になれないというのなら全てを捨てても良いと思った。
 ――否、全てを捨てても友の力になりたかった。全てを捨てるなんてそう簡単なことではないことは分かっていたし、分かっているなんて言葉以上にそれは重いことなのだろうけれど。


「……前に、クロウは俺のことを助けてくれただろ」


 あれはまだ自分達が同じ学校に通っていた頃、毎日のように顔を合わせていた輝かしい日々の中。当たり前だったはずのリィンの日常が崩れてしまう出来事があった。
 いつも通りに、何でもないと振る舞いながらも一度崩れた日常はすぐには戻らない。しかし誰に相談出来るわけでもなく、自分の中でも答えが見つからない中で力になってくれたのはクロウだった。本人は何もしていないと言うけれど、日常を取り戻してくれた友人にリィンはとても感謝していた。


「今度は俺がクロウの力になりたいんだ」


 だからまた、一緒にいさせて欲しい。
 そう伝えるとクロウの手から力が抜けるのを感じた。そこで思わず掴んでそのままになっていた手をリィンもそっと放す。徐にクロウが口を開いたのはそれから暫くしてのことだった。


「…………あれから色々あったのは事実だが、お前と距離を取ったのはそれだけが理由じゃない。何もなくてもお前とだけは距離を置くつもりだったんだ」


 その言葉にリィンが固まる。やはり何かしらの事情はあったようだが、何もなくても距離を取るつもりだったと言われるようなことをしていたのか。身に覚えはなくても何かしらの行動や発言がクロウにとってはそう思われるようなことだったのかもしれない。思い当たることがないかと問われれば――。


「……すまない」

「何でお前が謝るんだよ。いや、俺の言い方も悪かったか」


 とにかくお前の問題ではない。これは俺自身の問題だとクロウは訂正した。でも、それがリィンに関わることであるのは間違いないのだろう。
 それなら、と考えていたらはあと溜め息を吐くのが聞こえる。続けて「本当にお前のせいではねぇよ」と言って赤紫はリィンの視線から逃げた。こうもはっきりとクロウが言い辛そうにしているのは初めて見る。それほどのことがあるのだろうか。


「………………好きなんだよ」


 ぽつり。聞こえるか聞こえないか程度の声でクロウが呟く。え、とリィンが声を漏らしたのは殆ど反射だった。赤紫が一度瞼の下に隠れ、やはり目を合わすことはせずクロウは微かに笑みを浮かべた。


「言っておくがダチとしての好きじゃない。だから高校を卒業したら会わないって決めてた」

「なんで……」

「会ったら俺が駄目になる」


 虫のいい話ではあるが会わなければただの友達、普通の先輩と後輩でいられるだろうとクロウは自嘲するように笑った。今まで、高校を卒業する時までは上手く誤魔化してきたけれどこの先もずっと、リィンにとっても良い先輩でいられる自信がなかったから。卒業は体のいい理由だったのだと。


「ま、その後色々ありすぎて必然的にそうなったところもあるんだけどな」


 心配をかけたのは悪かったと素直に謝った。でもこれで分かっただろと赤紫は漸くリィンを映す。


「お前は俺のことを忘れる方が良い。……俺も、お前のことは」

「俺は忘れない」


 クロウの言葉を遮ってリィンが言うとその瞳が僅かに開かれた。そして「さっきの話を聞いてたのか?」と聞いてくるから「やっぱりクロウは何も分かってない」と幾らか前に言った台詞を繰り返した。何が、という問いの答えは謝罪をしたリィンが一つだけ思い当たった節にある。


「忘れるわけないだろ。この五年間、一度も忘れたことなんてない。……好きだから、忘れられるわけもない」


 好き。その単語にクロウの瞳は先程よりも大きく見開かれる。
 でも、嘘ではない。考える時間は五年もあったのだ。五年もあればどんなに周りから鈍いと評されているリィンだって気が付く。自分の気持ちが、どういうものだったのかを。
 当時は全く気付いていなかったけれどきっとあの頃から好きだった。だからそれが原因かもしれないとは思ったのだが、クロウの理由がそうであるなら余計に忘れるなんて出来ない。


「……クロウさえ良ければ、俺はクロウと一緒にいたい」


 ――たとえ、全てを捨てることになっても。
 二人の間に再び沈黙が落ちる。その間、リィンはずっとクロウの言葉を待った。


「…………本当に、それで良いのか」

「ああ」

「後悔しても責任は取れないからな」

「後悔したくないからクロウと一緒にいたいんだ」

「……良いのかよ。こっちの事情なんて知らないのに、そう簡単に決めちまって」

「それはこれから話してもらうよ」


 一人で抱えることはないと、昔そう話したのはクロウだろうと言えばとうとう目の前の友人は諦めたように溜め息を吐いた。


「物好きだな。お前も」

「そこはお互い様じゃないか」


 お前は高校生の頃もモテてただろと言いながらもどうせ気付いてなかったんだろうけどと付け足したクロウはやっと笑った。それを見てリィンの口元も緩む。

 それから「お前今時間あんの?」と聞かれて頷くと、なら少し付き合えと近くのファーストフードに場所を移した。そこでクロウは今どこで何をしているのか、卒業してからのことについても全部話してくれた。
 その上でどうすると改めて尋ねるのだから、結局それまでのやり取りは全部リィンを遠ざけるためのものだったのだろう。話を聞いた上で答えを変えなかったリィンに対しても「じゃあまた連絡するから」と言って今すぐにとは言わなかった。そういう人なのだ。



□ □ □



「なあ。今、何考えてる?」


 後ろから声を掛けられてリィンの意識は現実に引き戻される。そのまま首を後ろへと向けると赤紫の双眸とぶつかった。


「クロウがここに連れて来てくれた日のことかな」

「あー……今すぐ行きたいなんて大胆だよな、お前」

「最初にそう誘ってきたのはクロウだけどな」


 俺は準備とかあるだろうからまた連絡するって言っただろとあの時言ったことをクロウはそのまま口にした。でもその前に何もかも捨てて一緒に来るかと聞いて来たのはクロウだと、リィンもまたあの日クロウが言っていた言葉で返す。


「そりゃ、ああ言えばお前だって頷かないと思うだろ」

「分かってないのはクロウだっただろ?」

「お前だってあの時は、つーか俺が高校生の頃からお前を好きだったなんて知らなかったじゃねーか」


 それはその通りではあるが、知られないようにひた隠しにしてきたのもクロウだ。ついでに言えば、それを隠し続けるためにもう会わないつもりだったというのだからあの時は反射的に引き留めておいて本当に良かったと思う。
 あそこで別れていたら今も、この先もずっと。あの時のような偶然でもなければこの友人はリィンの前に姿を現さなかっただろう。取り戻せて良かった、と心から思う。この、大切な人と過ごせる日常を。


「今は知ってるよ」


 言えばきょとんとしたクロウは「そりゃそうだろうな」と嘆息しながら微笑んだ。
 知らないわけもない。あの日告白をされて以降、何度かその言葉を聞いている。言葉だけではなく、今こうしているのもクロウがリィンを好きだからに他ならない。
 間もなくしてそっと腕を放したクロウは「リィン」と呼んでくいっとその肩を引いた。唇が触れたのはそれからすぐだった。


「昼飯、暑いし面倒だから素麺で良いよな」

「良いけど……」


 作るのは暑くないかと尋ねると「どうせ何作っても暑い」とクロウは立ち上がった。料理当番ははっきりと決まっているわけではなく、先に家に帰っている方が作る程度の簡単なことしか決めていない。今日は二人共家にいるためにどちらが料理当番をするかは決まっておらず、それなら俺が作るよとリィンが言うとお前はそのまま座っとけという返事がガチャガチャと鍋を取り出す音とほぼ同時に聞こえてきた。


「……クロウ。俺、やっぱりクロウと一緒で良かったよ」


 その鍋に水を入れる音を聞きながらあの時の選択は間違いではなかったと思ったことをリィンは声に出した。楽な生活ではないけれど、二人だからお互いに支え合うことが出来る。
 クロウが無理をすることもなくなり――というのは本人に言えば否定されるのだが、最初はそんな生活をしていたらいつか体を壊すだろういう量を一人でこなしていたのだ。それを普通にこなせてしまっていたあたりは器用と言うべきなのか、逆に不器用と言うべきなのか。何とも言い難いが、何よりまたこうして一緒にいられるから。


「俺はあの日、お前に会わなかった方が良かったんじゃないかとも思うけどな」

「そうなのか?」


 いつもの口調で話すクロウが本当にそう思っているとは思えなくて聞き返したら、ちらっとこちらを見たクロウはふっと口の端を持ち上げて。


「駄目になっただろ」


 俺が、と言うからリィンは思わず笑ってしまった。


「俺は嬉しいよ」

「暑いなら離れろって言ったくせによ」

「暑いって言ってたのはクロウだろ。暑いから離れてくれとは言ってない」

「そういうこと言ってるとどんどん人を駄目にするぞ?」


 良いんじゃないかと言えば俺は良くないのだと言われる。その割には嫌そうではないけれど、人を甘えさせることならリィンよりもクロウの方が圧倒的に上手なのだ。人のことは言えないよなと思っていたところで「けど」と聞き慣れた音が耳に届く。


「お前がいる今の方が毎日楽しいのは確かだな」


 柔らかなその声にリィンの顔には自然と笑みが浮かんだ。それなら良かった、という優しい声に赤紫もまた細められた。








それでも、クロウがいればそれで良いと思えた
――全てを失っても、お前がいてくれたから救われた