『今日は飲み会があるから遅くなる』
朝食を食べている最中にクロウから伝えられた内容にリィンは分かったと頷いた。だから今日は仕事を終えて帰宅した後、一人分の夕飯を作った。
一人分のご飯を炊くのももったいないかと食パンにサラダ、スープとメニューが若干手抜きになってしまったがたまにはこんな夕飯もいいだろう。夕飯を終えた後は先にお風呂を済ませることにした。明日は休みだから洗濯機を回すのは朝でいいだろう。
そうしてリビングに戻ったリィンはぱち、と電気のスイッチを押した。明かりに照らされて見えるようになった室内はいつもと何ら変わりはない。
だけど、どうしてだろう。今日は部屋がやけに広く感じた。
別にクロウの帰りが遅いことは珍しいことではない。お互い飲み会は多くないが、残業で遅くなることは時々ある。そういう時は先に帰った方が夕飯やお風呂を済ませて相手の帰りを待っている。今日だって同じはずだった。
「……まだ、当分帰ってこないよな」
壁に掛けられた時計の時刻はまだ九時にもなっていない。金曜日だから飲み会が長引く可能性は十分に考えられる。二次会まで付き合うつもりはないが先に寝ていていいと言っていたくらいだからクロウも簡単に帰れるとは思っていないのだろう。
はあ、と溜め息を吐いたリィンの視界にテーブルに置きっぱなしにしていた携帯が映る。少し考えてから携帯を手に取ったリィンはそのままソファに腰を掛けた。
(――クロウ)
か行の中に見つけた名前を見て、操作していた手を止める。
遅くなるなら帰りは気を付けてくれ、なんて成人男性にわざわざ送ることでもないだろう。いつも送っているならまだしも突然そんな内容のメールが届いたら不審に思われるだけだ。
ぱたんと携帯を閉じたリィンはぼんやりと天井を見上げる。
(一言でいいから、声が聞きたい)
今、無性にそんな気分だった。そこに理由なんてない。本当にただクロウの声が聞きたいと思っただけだ。
でもきっと、クロウならこの気持ちを分かってくれる気がした。
「…………」
そこまで考えたリィンは再び自分の手を見た。そこにあるのは先程閉じたばかりの携帯だ。
突然メールをしたら、クロウは不思議に思うだろう。電話なんて何かあったのではないかと心配されるかもしれない。クロウは優しいから電話をしたところで怒らないと思うけれど、迷惑は掛けたくない。でも、会えないなら声だけでも聞きたい。
あと数時間もすればクロウはここに帰ってくるのになんてわがままなんだろうとリィンは自分に呆れた。だけどそういう気分の時が確かにあるのだ。クロウのことが、好きだから。
迷った末にリィンは携帯を開いた。そしてボタンを一つ、押す。
耳に当てた携帯から聞こえてくるのは無機質な電子音。飲み会の席では着信に気づかない可能性が高いけどそれでいい。
三回だけ待って、飲み会が終わって折り返してくれたクロウに謝ろう。それから素直に声が聞きたくなったんだと話せば、クロウは許してくれるだろう。
一回、二回、三回。
最後のコールが鳴り始めたところでリィンの指は電源ボタンに触れた。
「リィン?」
だが、そのボタンを押すよりも早く、耳元でよく知った声が聞こえてきた。そのことにリィンはひどく驚いた。
「ク、ロウ……?」
「どうした? 何かあったのか?」
たった三回。飲み会の最中なら気づかないと思っていたし、もし気づいてもすぐに抜け出せないと思った。大事な用なら三回で切るわけもないから折を見て掛け直してくれたら嬉しい、くらいの気持ちだったのに。
「おい、リィン。大丈夫か? もしかして何かあった――」
「あ、違う! まさかクロウが電話に出ると思わなかったから、少し驚いて」
「俺の携帯に掛けたんだから出るだろ?」
「それは、そうだけど……」
不思議そうな声で言ったクロウの後ろからがやがやと賑やかな音が聞こえてくる。分かっていたことだが、クロウは居酒屋かどこかにいるところなのだろう。
「飲み会の途中にすまない。本当に何もないんだ」
「……飲み会のことはいい。それより」
「その、ちょっとだけクロウの声が聞きたくなったんだ」
本当にそれだけだから、と言ってリィンはもう一度ごめんと謝った。
「それじゃあ、俺は寝るから。帰りは気を付けてくれ」
「あ、おい!」
そして、そのまま電話を切った。
電話を終えると再び部屋は静寂に包まれた。ふぅ、と小さく息を吐いたリィンは閉じた携帯を今度こそテーブルの上に置いた。
(クロウに悪いことをしたな……)
でも声が聞けて嬉しかった、と思ってしまう自分がいた。
やっぱりクロウには心配もさせてしまったようだったが、それらは全部クロウが帰ってきてからちゃんと謝ろう。明日は休みだから今日のお詫びに家事は全部引き受けて、クロウの頼みも聞こう。
ご飯もクロウの好きなものがいいよな、と立ち上がったリィンは本棚から料理本を取り出した。
電話を切る口実に寝ると言ってしまったもののまだ寝るつもりはない。のんびりメニューを考えながらクロウの帰りを待つことにしようとリィンは本のページを捲った。
だが、それは思っていた以上に早く終了した。
「ただいま」
ガチャ、と音がしたような気がしたが気のせいだろうと思った。まだ九時半、クロウが帰ってくるには早すぎる。
しかし、続いて聞こえてきた声にリィンは慌てて玄関へ向かった。
「クロウ……!?」
「おう」
「飲み会はどうし――」
話の途中で口を塞がれたせいでリィンは最後まで言い切ることができなかった。
重なった唇からお互いの熱が混ざり合う。クロウだ、と頭の奥でぼんやりと思う。たったそれだけのことに心はあつくなる。
二つの熱が一つになった頃、クロウはゆっくりとリィンを離した。
「急用ができたって抜けてきた」
「え」
予想外の発言にリィンは思わず間抜けな声を出してしまった。だが、それはあの電話が原因だとすぐに思い至った。
そのことに気が付いてたリィンは勢いよく頭を下げた。
「すまない、クロウ。俺が」
「俺が、お前に会いたくなったんだ」
謝ろうとしたリィンの言葉を遮った恋人はそっと、赤紫の瞳を細めた。そのあたたかな眼差しにとくん、と心臓が音を立てた。
――クロウは、ずるい。
胸の内でリィンは零す。そういうことを言われたら甘えたくなってしまう。甘えればいい、とクロウは言うのだろう。だからこそ帰ってきてくれたのだ。だけど多分、会いたくなったというのもクロウの本心だ。
「ただいま、リィン」
「…………おかえり、クロウ」
言いそびれていた言葉を口にして、今度はリィンからその手を伸ばした。クロウは笑ってそれを受け入れてくれた。
やっぱり好きだなと思ってしまうのは、仕方がない。同じだけの好きの気持ちは、触れ合ったその場所からじんわりと伝わってくる。
「飲み会、抜けてきたなら何か食べるか? お風呂は沸いてるから入ってる間に作っておくよ」
「なら少し付き合わねえか?」
そう言ってクロウは置いてあった鞄と一緒にビニール袋を持ち上げた。そこには缶ビールが数本入っているようだった。
それを見たリィンは小さく笑う。
「じゃあ適当につまめるものを作っておくよ」
「おう、よろしく」
差し出されたビニール袋を受け取るとクロウはお風呂場へ、そしてリィンは台所へ向かった。
その途中、先程まで読んでいた料理本を片付ける。酒のつまみを作るだけならいつも通りでいいだろう。凝った料理はまた別の機会にしよう。
台所に立ったリィンはふと、考える。
今日は甘えさせてくれるというのなら、明日はどこかに出掛けないかと誘ってみようか。いや、お酒を飲むのなら一日家でゆっくりするのもいいだろう。
どちらにしてもクロウが一緒ならそれでいいか、と冷蔵庫を開けた。
好きだから
不意に声が聞きたくなってしまったけれど
(そのために帰ってきてくれたことがすごく、嬉しかった)
『今日の二人はなにしてる』という診断メーカーをお借りしました。
結果は『急に寂しくなって飲み会中の相手に電話をする。声が聞きたかっただけなのに急いで帰ってきてくれて、ちょっとの罪悪感と優越感』でした。