「これ、クロウだよな?」
リィンが鞄から取り出したのは一冊のノート。表紙には理科という文字とリィンの名前が書かれており、当たり前だがこれはリィンのノートである。
「何のことだ?」
それはお前のノートだろうと話すクロウは間違っていない。だがリィンが言いたいのはそこではなかった。
惚けるつもりならと次いでリィンが見せたのは今日の授業で使った最後のページ。そこには授業で書き込んだものの他に一つ、授業とは関係のない文字が二言並んでいた。
「へぇ、リィンちゃんは人気者だな」
好きです。付き合ってください。
ノートの端にはそのような言葉が書かれていた。当然リィンが書いたものでもなければ、書いた本人の名前もない。どうしてリィンのノートに別の誰かが書き込んでいるのかというと、理科で実験室に行った際にこのノートを忘れてしまったからだ。
授業の終わりに先生の手伝いをし、机の中に入れてあったこのノートを忘れたことに気が付いたのは帰り支度をしていた時のことだ。先生に鍵を借りて実験室に向かい、見つけたノートに新たに加えられていた文字。それがこれだ。
「……これ、書いたのクロウだろ」
ノートを見せるだけでは分かってくれなかった幼馴染みにそのページを見せながら再度問う。最早それは疑問形ですらなく、リィンは確信を持って尋ねている。
最初にこれを見た時はリィンも驚いた。一体誰が、という疑問は普通ならそのまま分からずじまいだっただろう。しかし「あれ、この文字どこかで……」と考えて気が付いた。そして彼ならこういうこともするだろうと思い至ったリィンは家に帰る途中でこの幼馴染みの自宅を訪ねたのだ。
「どうしてそう思うんだ?」
「どうしても何も、クロウの字だろ」
「俺の字だっていえる根拠は?」
「クロウが今ここで同じように字を書いてくれればはっきりする」
そもそもこのような返答が来る時点で黒だろう。本当に身に覚えがなかったら最初に違うと否定するはずだ。仮に違うと否定されたところでこの反応ならば黒であることに変わりはない。この程度の幼馴染みの嘘ならば見抜くことは容易い。
はあ、と零れた溜め息が一区切りとなったのだろう。よく分かったなと先程までとは正反対のことをクロウが口にする。
「逆に何で分からないと思ったんだ」
「普通は気付かねえと思うけど?」
「……じゃあクロウは気付かないのか」
今日クロウがしたように、リィンが名乗らずに手紙をしたためたとして。送り主は不明のまま終わってしまうのか。
リィンの問い掛けに「お前は別」だとこの幼馴染みは即答した。それなら同じことだろうとリィンは呆れる。リィンだってクロウ以外の誰かがやったことであれば気が付けなかった。分かったのは付き合いの長い幼馴染みの仕業だったからこそだ。
「というか、俺以外にもやるのか?」
こういうことを。クロウの性格ならないだろうけれどと思った通り、彼は「お前以外にやるわけねーだろ」と答えた。
気の知れた幼馴染みだからこそ出来るのであって見ず知らずの相手にはしない。こう見えて案外ちゃんとするところはちゃんとしている幼馴染みに不思議とほっとする。あれ、とリィンが思った時のことだ。
「つーかさ、好きでもない相手に告白はねーだろ」
そのように言われて一瞬だけ思考が停止した。だがすぐにリィンは「そうだな。それじゃあ俺は帰るよ」と言って立ち上がった。この幼馴染の発言は何でも真に受けてはいけない。
長い付き合いの上でそう知っているリィンはまたいつものかと片付けて帰ることにしたのだが、そんなリィンをクロウは引き止める。
「待て待て、お前ちゃんと分かってねーだろ」
「分かってるよ。でも別に怒ってないし」
一応確かめておきたかったからこうしてクロウの元を訪ねたのであって悪戯について怒ったりはしない。そして用が済んだのだから家に帰るのは当然だろう。ここに長居する理由もない。
だからと切り上げようとするリィンを「やっぱり何も分かってねえ」と赤紫がじっと見つめる。何だって言うんだ。疑問をそのまま声に出せばお前が分かっていないのに分かってる風だからだろうなどと返される。
「お前さ、俺の話を聞いてたか?」
「この悪戯はクロウがしたって話だろ」
「誰が悪戯だって言ったよ」
クロウの言葉にリィンは首を傾げる。この期に及んで自分がやったのではないとは言わないだろうけれど、悪戯でなければ――。
「…………嫌がらせ?」
「なワケねーだろ」
この幼馴染みに嫌われるようなことや怒らせるようなことをした覚えはなかったが、知らずのうちに何かをしてしまった可能性は零とは言えない。そう考えて口にしたそれは被さるほどの勢いで否定された。
僅かに浮かんだ可能性が否定されたことにほっとし、けれどそれなら何だろうとリィンの頭上に疑問符が増える。それを見た幼馴染みははあと大きく溜め息を吐いた。
「好きでもない相手に告白なんかしない、って言ったよな?」
「俺もクロウのことは好きだよ?」
「……まさかとは思うが、どこに付き合えば良いんだって聞くつもりじゃねぇだろうな」
それを聞いた時、最初は何を言っているんだと思ってしまった。クロウが何の話をしているのか一瞬分からなくなったのだ。
だが数秒の後にクロウが言っているのはノートに書かれていたあれのことかと理解したリィンはクロウに問う。
「そういう意味で書いたのか?」
「お前の言うそういう意味が今俺の言ったままの意味じゃないってことだけは先に言っておくぞ」
付き合って欲しい、と書いたのは何か付き合って欲しいことがあるからではない。そのように言われて他に何があるんだと考えてしまったことは声に出さなかった。
何せあれはただの悪戯――ではないと先程からクロウには否定されているけれど、それなら何に付き合って欲しいというのか。どこかに付き合って欲しいという話は本当だった、のではないのなら。クロウは何を……と考えたリィンがはっとした表情で赤紫を見ると「やっとか」と幼馴染が呟いた。
「いや、でもクロウは――――」
「幼馴染だから? まあそこは否定しねーが、その幼馴染を好きになるのは変か?」
「変ではないけど……」
でも、あまりにも突然知らされたことに頭が追い付かない。クロウが幼馴染として以上の好きという気持ちを自分に抱いていたなんて。
「……ごめん、急すぎて何て答えたら良いのか分からない」
クロウのことは好きだ。幼馴染として。
そこに友達として以上の何かがあるのかは今のリィンには分からなかった。それが他の友達に対する好きと違うことは分かっているが、それはクロウが幼馴染だからだろうと思っていた。けど。
「なあ、リィン。俺のことは嫌いじゃないってさっき言ってたよな?」
混乱するリィンにクロウは優しく問い掛ける。自分の好きが幼馴染としてのそれなのか、それともそれ以上の何かがあるのかまでは答えが出せない。しかし、どちらにしてもそのことは間違いないからリィンはこくんと頷く。
「なら今はそれで良い。突然こんなこと言われたらお前が驚くのも無理はねーしな」
ただの幼馴染だと思っていた相手に告白されるなんて考えもしなかっただろう。そのように話すクロウはやはりリィンの考えていることが分かっているのだろう。先程の謝罪も今すぐに告白の答えを出せないという意味であることは伝わっているはずだ。
だからこそクロウがこう言ってくれたのだということもリィンには分かった。それは幼馴染としての付き合いが長いからだが、こんな状態でもそれは分かるのにと数分前の幼馴染の言葉を頭の中で繰り返す。全く考えたことのなかったそれはクロウに言われて初めて有り得るのだと気が付いた。
「引き留めて悪かったな」
ぽんぽんと頭を撫でたクロウはゆっくりと腰を上げる。玄関まで送るつもりなのだろう。先に部屋を出たクロウに続いてリィンも部屋を出る。
「……あの、クロウ」
「おう」
「その…………」
未だに整理が出来ていない頭で必死に言葉を探す。それを見たクロウはふっと口元を緩めて「あんま難しく考えんなよ」と笑う。
「いつも通りで良いんだよ。別に今までと何も変わってねーしな」
そう言ってクロウは「また明日な」といつもと同じように別れの言葉を口にした。自分を見つめる赤紫の瞳は昔から見ているそれと変わらない色をしていて。
「……うん、また明日」
だからリィンもいつもと同じようにそう言ってクロウの家を出た。目の前に広がるのはここへ来た時と何ら変わりのない景色。小さい頃から何度も見ている景色がそのままそこにある。
ただ一つ、違うのはリィンが幼馴染の気持ちを知ったこと。
(俺もクロウのことは好きだ。けど)
ただの友達ではない。昔から一緒にいるのが当たり前の一つ上の幼馴染。優しくてカッコよくて、頼りになる彼のことが昔から好きだ。でもその好きの意味を深く考えたことはなかった。
好きか嫌いかなら間違いなく好きだと答える。嫌いだと思ったことは一度だってない。そういう意味で好きなのかまでは分からないけれど、ドキドキと心臓が鳴りやまないのはそういうことなのだろうか。考えながらもリィンはすぐそこの家に向かって歩き始めた。
好きの意味
それが一つだけではないと今更気が付いた
(だから、もうちょっとだけ)
(ちゃんと考えたいから、待って欲しい)