「なあリィン、知ってるか?」


 夕食を済ませ、静かな夜を過ごしている最中のことだ。風呂から上がったところで疑問だけを投げられたリィンは椅子に座ったままこちらを見る赤紫に何のことかと聞き返す。知っているかとだけ聞かれてもさっぱり分からない。リィンの当然の疑問にクロウは緩く口角を持ち上げた。


「キスするとストレスが減るらしいぜ?」


 一体何が聞きたいのか。さっぱり分からなかったけれど、これはまた予想の斜め上の回答が出てきた。思わず「は?」と間抜けな声が出てしまったのも仕方がないだろう。相変わらずクロウは楽しそうに笑っている。


「だから、キスするとストレスが減るらしいんだよ。確か三分の一になるんだったか?」

「えっと……初めて聞いたけど」


 唐突な話題にどう反応すれば良いか困ったリィンは一先ず最初に聞かれていた疑問に答えることにした。知っているか否かでいえば知らない。
 またどうして急に、と思ったリィンだがそういえば以前にも同じようなことがあった気がした。あれはそう、まだ自分達が士官学院生だった頃。先輩だったはずの目の前の友人がクラスメイトになった頃のことだ。確かあの時は。


「……それって、ハグをするとストレスが減るって話じゃなかったか?」

「お、よく覚えてたな」

「じゃあ嘘なのか?」


 からかっただけなのかとそう尋ねるリィンにクロウは「いや、これもホント」と答えた。ハグをしてもストレスは減るけれど、キスをすることでも同じようにストレスが減るのだと。
 本当だと言われても疑わしいのは彼が今左手で傾けたお酒のせいだろう。それを悟ったのか、ちゃんとした根拠もあるんだぜとクロウは言う。その根拠の真偽についてはリィンには分からなかったが、この流れはと思ったリィンの予想は見事に的中する。


「つーわけだからキスしようぜ」


 やっぱり、とリィンは溜め息を吐く。どうしてそうなるのかは聞くまでもない。キスをすればストレスが減るからだ。だがハグと違ってこれは同性だろうと気安くうんとは言えない。あの時もリィンはうんとは言っていなかったが、そもそもキスというのは誰彼構わずするものではないだろう。


「……そういうのは好きな人とやるべきだろ」

「別にいーだろ。今ここには俺とお前しかいねーし」


 ほら、男友達はノーカンだろと言い出したこの友人は何を考えているのか。事故や罰ゲームを数えないというのなら分かるけれど、これは思いっきり本人達の意思ではないか。
 そう考えるリィンをよそに、クロウはそれだけでストレスが減るんだからお得だろうなんて言い始めた。これは得とかそういう話ではないだろうと思ったリィンは間違っていない。


「何だよ、リィン君は先輩のことが嫌いか?」

「そうじゃないけど、っていうかもう先輩じゃないだろ」

「細かいことは良いだろ。お前もストレスが減るんだし悪くない話じゃね?」

「それ以前の問題だ」


 お互いストレスが減るなら損することはないというのは違うだろう。損得以前に人としてどうかという話だ。
 というより、いくらお酒が入っているにしてもこんなことを言い出すものかと今更だがリィンは疑問を覚えた。クロウはお酒に弱いわけでもなかったはずだ。どれくらい飲んでいるかは知らないけれど、リィンが席を外していた時間と机にある瓶を見た感じでは酔うほど飲んでいるとは思えないが。


「……クロウはストレスが溜まっているのか?」


 先程、彼はお前“も”と言っていた。複数系であるそれは二人しかいないこの部屋では必然的に自分達のことになる。大体ストレスなんか溜まっていないと返そうとしたところで気が付いたリィンが尋ねると、クロウはきょとんとした後にふっと笑った。


「どうだろうな。でもまあ最近忙しかったし、知らずのうちに疲れやストレスが溜まってんじゃねーかなとは思ったけど」


 カランと氷がグラスにぶつかる。それはクロウ自身の話なのか、それともリィンのことを言っているのか。言い回しからしておそらくはリィンのことを言っているのだろう。前の時も知らずのうちにストレスは溜まるものだと言われたのだ。挙げ句、少々強引な形でハグをすることになったのだが、あれは嘘でもなさそうだったよなと心の中で呟く。
 カラカラと音を鳴らしながら赤紫は揺れる水面を眺めている。その心の内は見えないが、何でもないその姿が様になっているのはずるいよなとリィンは思う。同じ男であるリィンから見てもクロウはカッコいい。むしろ自分と違ってがたいが良いのは羨ましくもあるのだが。


「なあ、試してみねぇ?」


 リィンの視線に気が付いたのか、不意にこちらを見た赤紫はゆるく口の端を持ち上げた。
 酒が入っている為にほんのり朱が浮かぶ頬、優しげな瞳に甘い声。女の子だったら彼の誘いにうっかり頷いてしまうかもしれない。生憎リィンは女の子ではないから流されないけれど、これは。


「クロウ、酔ってるだろ」


 この程度でクロウが酔うとは思えなかったが、疲れている時は酒が回りやすいこともある。ああ言っていたけどもしかしたら本当にストレスも溜まっているのかもしれない。ポーカーフェイスが得意なクロウが顔に出すことは滅多にないけれど、ここのところは依頼が溜まっていたこともあって働き詰めだった。いくら体力があろうと疲れていないわけがない。それはリィンにしても同じだ。
 赤紫の双眸はリィンを見つめたまま、次の言葉を待っているようだ。本当に珍しいけれどクロウだって普通の人間なのだ。弱み、というほどではないがこういうところも見せても良いと思ってくれたのならそれは純粋に嬉しい。だから、だろう。


「…………一回だけだぞ」


 人に弱みを見せない友人が珍しくこんなことを言い出したから。一回だけなら付き合っても良いと思ってしまった理由はそれ以上でも以下でもない。
 たかがキスの一回なんて、とはリィンにはとても言えないけれどクロウ曰く男友達はノーカンらしい。酔った時の勢いで、というのも数えないだろうから一度くらいなら良いだろう。そう思ったリィンの言葉にクロウは笑う。


「じゃあ目瞑って」


 言われたままリィンは目を閉じる。数秒後、唇には柔らかなものが当たった。
 離れるまでの時間を含めて僅か数秒間の出来事。しかしその数秒がやけに長く感じた。唇が離れたタイミングでゆっくりと瞼を持ち上げると、見慣れた赤紫がすぐ傍でリィンを見つめていた。


「………………」


 暫しの沈黙。おそらくこれも数秒ほどの時間だったのだろう。赤と青の紫は互いに相手の色を見つめ、やがて再び距離を詰めようとしたクロウにリィンは漸く我に返った。


「一回だけだって言っただろ」


 クロウの唇に手を当ててリィンは二回目を制した。
 不満そうに一回も二回も変わらないだろうとクロウは言うがそんなことはないだろう。酔っているからそう言えるだけだろうと返すリィンに「ならお前も飲むか?」と瓶を持ち上げられたが今日のところは遠慮をした。ここで飲んでしまったらどうなるかは想像に難くない。


「ほら、お酒はそれくらいにして疲れてるならベットで休んでくれ」

「リィン君の意地悪」

「意地悪じゃない。後は俺が片付けるから」


 空になったグラスと瓶を持ってリィンはキッチンへ向かう。先に寝ていても良いということなのだろうが、クロウは椅子に座ったまま洗い物をするリィンを眺めていた。
 そんな相棒にリィンは小さく息を吐きながら洗い物を片付け、自分を待っているらしい相棒の元へと戻った。静かな夜はゆっくりと流れていく。








其の二、キスをするとストレスが減る

(お前のそういう優しいところも好きだけど)
(そこを付け込まれて悪いお兄さんに騙されないようにな?)