「………………なあ」


 呼び掛ければすぐ後ろから「何だ?」と返答が来る。


「いつまでこの体勢なんだ?」


 くるりと頭だけを斜め後ろに傾けて尋ねると、赤紫の瞳も青紫を捉えてお前がその本を読み終わるまでだと答えた。
 本というのは今リィンが手元に広げているそれのことだ。リィンが本を読み始めてから十五分、そんなリィンをクロウが後ろから抱き締めて俺のことは気にせず読めよと言ったのが五分ほど前。気にしなくて良いと言われても気になってしまったリィンは先程の質問をしたわけだが、どうやらクロウはこの体勢を止めるつもりはないらしい。


「お前は読みたい本が読める、俺はお前とくっついていられる。何も悪いことなんてねぇだろ」

「普通に読みづらいんだが」

「別にちょっかいは出してねぇだろ」


 そういう問題ではないと言ったリィンは一つ溜め息を吐く。手を出していないのは本を読む邪魔をしないためらしいがそこは指摘していない。一応クロウなりに邪魔をしないようにはしているようだが、だから気にすることなんてないだろうと言われても無理だろうとリィンは内心で零す。


「せっかくの休日なんだからやりたいこととかないのか?」

「やりたいことならやってるぜ」

「……もっと他にあるだろ」


 遊撃士という仕事に休みという休みもないが、時には体を休めることも必要だ。そんなわけで二人は今日一日休みである。
 休みといっても急な依頼が入ればいつでも動くのだがそれはそれ。一通りの家事を終わらせたところでリィンは少し前に買った本の続きを広げ、リィンが本を読んでいたからクロウは大人しく彼を抱き締めておくだけにしたのだ。休日なんだからとリィンは言ったけれど、その休日を恋人と過ごせれば良いと思うのはおかしくないだろうとクロウは思う。


「リィン君が恋人をほったらかしにして本を読み始めたんだろ」


 それこそ休日なのだから本を読むのも自由だ。クロウも自分達は付き合っているのだから休みの日は当然恋人らしいことをしようなんて思っていない。読みたかった本を読むのも良いだろう。
 ただ、恋人なのだからこれくらいは許してくれても良いだろうとは思った。たったそれだけの話だからまあ続けろよと繰り返したのだが、リィンからすればああ分かったとも言えず。一応本人がそう言うからと読書を再開してみてもやはり後ろが気になってしまう。そんな恋人の気配にクロウは小さく笑みを零した。


「迷惑ならやめるぜ」

「いや、そこまでは言っていないけど」


 でも本が読みづらいって言ってたよなとは声に出さなかった。やめて欲しいという話ではなかったのかと思うクロウだが、リィンが頷かなかった理由はなんとなく分かったから。


「お前さ、随分俺に甘いよな」


 優しいのは悪いことではないけれど、そういうところを利用しようとする悪い人間もいるというのに。そう思ったクロウ自身がリィンのそれを利用したことがあるのだが、この場合は相手が俺だからっていうのもあんのかなとクロウは思う。恋人という関係は一方通行の気持ちだけでは成り得ない。リィンもクロウを好きだと思っているからこそ二人は今恋人なのだ。
 本は読みづらいけれど傍にいるのは構わないというのが先程リィンが言った言葉の意味だろう。今更俺相手に遠慮をするとも思えないし、こちらの思惑がバレたのかもしれないなと考えていたクロウを青紫が見る。


「クロウだって人のことは言えないだろ」

「まあ否定はしねーよ。どっちかっつーと俺はお前に甘えて欲しいんだけどな」

「……クロウには甘えてる方だと思うけど」

「もっと甘えて欲しいって言ってんだよ。恋人の特権だろ?」


 この真面目な後輩を甘やかしたいと昔からちょっかいをかけてきた。先輩、友人、その都度使えるものを使いながら。そうしてリィンもクロウに甘えるようになってきたもののもっと素直に甘えてきてくれても良いのになと恋人としては思ったりもする。恥ずかしがりやな恋人にはまだ難しいかもしれないけれど。


「昔、ハグをするとストレスが減るって話をしたよな?」


 尋ねればやはり肯定で返ってくる。キスをするとストレスが減ると話した時に覚えていたから覚えているだろうなとは思っていた。そのままそっちも覚えているかと聞いてみると「……まあ」と短い答えが返された。


「ストレス解消法ってのは人によって様々だよな。遊びに出掛けるとかメシを沢山食うとか」


 これまでにクロウが提案してきたストレス解消法もその一つといえるだろう。すぐに出来るストレス解消法とかそんな謳い文句で聞いた話だったかとクロウはいつだかの記憶を手繰る。声を出すとすっきりする、体を動かすのが気分転換になる。きっとみんながみんな違うストレス解消法を持っていることだろう。


「お前は体を動かしたいタイプか?」

「うーん……そうだな。体を動かすのも気分転換になるかな」


 ストレスを発散したい時に剣を取るかというとどうだろうと思うが、長いこと剣の道を歩いている身としては体を動かすのは気持ちが良い。いい運動になるのと同時にストレスも解消にも一役買っていそうだ。
 そんなリィンの回答はクロウの想像通り。このように人にはそれぞれ自分にとってのストレス解消法があり、当然クロウにも自分なりのストレス解消法があるわけだが。


「体を動かすのもハグでもキスでも良いけど、俺としては一番のストレス解消法はお前だな」


 クロウにとってのそれは今言った通り。赤紫を見る青紫に笑い掛け、そんな恋人にリィンは僅かに視線を逸らした。だがこの体勢では顔を背けたところで髪の合間から覗いている耳が赤くなっているのが丸見えだ。そんな恋人の反応に目を細めながらクロウは続ける。


「やっぱこうやって恋人といるのが一番のストレス解消法だと思うんだよな」


 家に帰ったらお帰りと迎えてくれる人がいる。好きな相手の顔を見たら疲れが吹っ飛ぶとかいうだろう。そしてまた明日も頑張ろうと思えたり、そういった小さな幸せはストレス解消の一因になっていることだろう。
 クロウにとってのその相手はリィンで、だからこそリィンがストレスを減らす一番の要因になる。ハグをしてもストレスが減るというけれど、今のこの体勢もどちらかといえば恋人の傍にいるという意味合いの方が大きい。疲れているのかといえばそういうわけでもないが、こっちは勝手に癒されているからそっちも自由にしてくれという最初のやり取りに繋がる。


「…………それだと本を読みづらいことに変わりはないんだが」


 一通り話を聞いてリィンもクロウの言いたいことは分かった。けれど本を読みづらいことは何一つ変わっていない状況にリィンは溜め息を一つ。
 それからぱたんと本を閉じると「クロウ」と恋人の名前を呼んだ。合わせて視線を向けられたクロウが腰に回していた腕を緩めると、リィンは体ごとクロウの方を向いた。


「本は良いのか?」

「クロウが言ったんだろ」


 ただ恋人と一緒に過ごしたいのだと。
 現在進行形で恋人と過ごしているともいえるけれど、それを今やりたいことだとまで言ってしまう恋人にリィンは向かい合う。このま読書を続けたところで集中は出来ないだろうし、元々はクロウを待っている間の時間潰しに始めた読書だ。洗濯物を片付けたクロウがそんなリィンを見て抱きつき、気にせず続けてくれと言ったから完全にタイミングを失ってしまったのだけれど。

 正面からぶつかる二つの紫。小さく笑ったクロウが二人の間の僅かな距離を縮めるのに合わせて自然と赤と青の紫は瞼の裏に隠れた。そして再び現れたその瞳を見てクロウは口角を持ち上げた。


「どうだ、ストレスは減ったか?」

「……まだ続けるのか?」

「いやな、体を動かすの“も”ストレス解消になるってことは他には何があんのかと思ってよ」

「………………分かってて聞いてるだろ」

「さあて、分からないから聞いてるんだぜ?」


 分かっていたら聞く必要がないと言うが、言わせたいから分からない振りをしているというのが正しいのではないだろうか。楽しげに返答を待つ様子からしても絶対に分かっているよなとリィンは思う。
 だが指摘したところで誤魔化されるのは分かりきっている。だから二回目のキスはリィンが自分からした。


「……言っておくけど、クロウとしかやらないから」


 ほんのりと顔を赤らめながら言った恋人をクロウは愛おしそうに見つめる。キスをするとストレスが減るといっても誰でも良いわけではなく、リィンのそれも相手はクロウに限るのだと。


「俺だっていくらストレスが減るっつっても好きなヤツとしかやらねーよ」


 えっ、と声を零したリィンはでもと言おうとして止めた。俺は学生の頃からお前が好きだったからなと言われたそれはもう答えだろう。


「さてと、このままこうやって過ごすのも悪くねえがどうする? たまには出掛けるか?」

「……良いんじゃないか。たまにはこういう休日も」


 リィンの返事にクロウは微笑むとじゃあ今日はのんびり過ごすかと目の前の恋人を抱き締めた。そんな恋人にリィンも小さく口元に笑みを浮かべるのだった。








其の三、好きな人と過ごすことでストレスが減る

「今日は一日たっぷりリィン君を補充しないとな」
「……クロウも俺のストレス解消に付き合ってくれるんだろ?」
「そりゃあ勿論。その分お前にも付き合ってもらうけどな」

これが俺達のストレス解消法