さー、と波が近付き、離れていく。小さな山のように連なりながら一定の間隔で押しては引き、押しては引きを繰り返す。
砂浜にはそんな波の通った跡がずっと向こうまで続いていた。ざっざっと音を鳴らし、濃茶色に変わった砂浜より少し外側にも長く続く足跡が増えていく。
だが不意に、その足跡がぴたりと止まった。
増え続けていた足跡を見つめるのを止めたリィンもまた足を止め、ゆっくりと顔を上げる。波が揺れるのに合わせて銀糸が揺れた。水面と同じく、太陽の光に照らされた白銀もきらきらと輝く。
「…………もう夏も終わりか」
静かな浜辺に零れ落ちた、音。赤紫はじっと海を見つめていたが、間もなくしてその瞳はリィンを映した。
「まさかこんな形で帰ることになるとは思わなかったが」
「俺も二年前ユミルに帰った時は同じような心境だったよ」
おそらく、あの時のリィン以上に思うところはあるだろう。でも、夏至祭での一件を終えて旧Ⅶ組をはじめとした協力者たちとともに赴くことになった小旅行が決まった時。この友人はリィンの誘いを断らなかった。
――いや、一度は断ろうとした。話を持ちかけた時は珍しく素直に驚いてもいた。けれどリィンができれば一緒に行きたいと話すと、少し悩みながらも最後には分かったと頷いてくれたのだ。帝国最北西にある経済特区、ジュライへの小旅行に。
「しかし、何でまた俺なんかをわざわざ誘ったのかねぇ」
他の連中はともかく、どう考えても場違いだろうと微かな笑みを浮かべる友にゆるくリィンは首を振る。
「クロウだってⅦ組の仲間だろ」
大切な、かけがえのない仲間のことをリィンをはじめ多くの者たちは今日まで忘れたことがない。先輩たちも、街の人たちも。どれほどの人が彼がいなくなってしまったことを悲しんだと思っているのか。リィンの言葉にクロウは眉を落として笑った。
「そんなことを言うのはお前等くらいだ」
「そう思っているのはクロウだけだよ」
リィンが指摘すれば、本当にお人好しの集団だよなと呆れたように言われる。けれど、内戦で敵対していた時でさえアイゼンガルド連邦に辿り着いていたリィンのことを密かに知らせてくれていたクロウも大概だろうとリィンは思う。
つまりはクロウの言う通り、自分たちがお人好しの集団というのも強ち間違ってはいないのかもしれない。だがリィンにしてもクロウにしても、お人好しというよりもただ大切な仲間のことを気に掛けていただけに過ぎない。だけ、というには含みが大きすぎるかもしれないけれど、これはたったそれだけの話。
「それに、俺がクロウと一緒に来たかったんだ」
かつての自由都市であり、クロウの故郷でもある、このジュライに。
そう言って笑うリィンを認め、赤紫は再びさざめく波を見つめた。
「……お前とこの景色が見られるとも思わなかったな」
旧ジュライ市国。クロウが生まれ、育った場所。
十年近く前、当時は十三歳だったクロウはここを去った。併合の裏で起きていたことはリィンもクロウから聞いている。それこそがクロウが故郷を出たきっかけであったことも。
でも、クロウは自分が育ったこの街をずっと大切にしていた。ブレードというジュライ発祥のカードゲームをトリスタで流行らせ、ジュライのソウルフードみたいなものだとフィッシュバーガーを振る舞ってくれたこともある。今だって、海を眺めるクロウの瞳は優しく細められている。
「何をやってるんだ、って祖父さんは呆れてるだろうな」
「でも、クロウがここに来たことを喜んでくれてもいるんじゃないか?」
「いや、どんだけ人に迷惑を掛けてるんだって怒ると思うぜ」
あの日から今日まで、空から自分を見守ってくれていたのなら。呆れて、怒って。
「……でも、最後にはおかえりって、言ってくれるのかもな」
クロウが悪いことをすればすぐに叱り、時には拳骨をもらったこともあった。けれど、きちんと謝った後は大きな手で頭を撫でてくれた祖父のことだ。こんな馬鹿な孫のことも最後は笑って迎え入れてくれるのかもしれない。
懐かしい顔を脳裏に浮かべたクロウは、そっと閉じていた瞼を持ち上げる。
「ま、全部俺の想像だけどな」
祖父は十年も前に亡くなっているのだ。本当の言葉はクロウにだって分からない。全てはクロウの中の記憶が作り出した祖父の姿。確かなことなんて何一つない。
けれど。
「……きっと、言ってくれると思うよ」
他の誰でもない。クロウがそう思うのなら、そうなのだろう。
思ったままに口にしたリィンをクロウが見る。その視線に「家族ってそういうものだろ?」とリィンが問い掛けると、小さく笑って「そうかもな」とクロウも頷いた。
二人が頭に描いたのは、あたたかな家族と過ごした日々。心の底に根付く、ふるさとの記憶。
「俺も、ずっとクロウに言いたかったんだ」
ライノの花が咲く頃出会い、悪友と呼べるほど親しくなった友との突然の別れ。取り戻すために追い掛けて、やっとのことで大事な仲間を取り戻したところで現れた災厄。共に戦い、自分たちの未来を切り開いてくれた友を喪った……あの日。
それでも前へと進み、そして出会った友の面影を持った男。再び追い掛けて、漸くこの手は届いた。今度こそ本当に、大切な友は、かけがえのない悪友は、やっと戻って来てくれた。
「おかえり、クロウ」
ずっと、言いたかった。記憶を失くした友を取り戻してから、ずっと。あの時は他にも色々な事件が重なり、結局今日まで言いそびれてしまったけれど。
溢れんばかりの想いを胸に、リィンは真っ直ぐにクロウを見た。
交わる視線から、想いが、伝わる。全てが伝わってくるから、こっちまで想いが溢れそうになる。柄ではないというのに。
「…………ただいま」
たったそれだけの短いやり取り。けれどそこに含まれる想いは簡単に言葉で言い表せないほどに深い。そして、それらは言葉にせずとも二人の心まで響いていた。
だから余計な言葉はいらない。言葉にしなくても、分かる。正反対のようでどこか似ているところもあると、仲間たちは二人をそう表現したことがあった。確かにそういうところもあるのかもしれない。だが、それ以上に。
どちらも互いに何も言わないまま、ただ時が流れる。
心地の良い波の音が幾度と耳に届き、そうしたままどれくらいの時間が経ったのだろうか。
「クロウ、俺――――」
「あ、いた! 教官!」
突如聞こえてきた元気の良い声に二人は振り向く。そこにいたのはリィンの教え子たち。
「やっぱり一緒にいたんだ」
「まあ二人がいない時点でそうじゃないかとは思っていたが」
――だけではなく、続けて旧Ⅶ組のメンバーも顔を出す。それから「邪魔しちゃったかな?」と姿を見せたのはかつてのクロウの同級生たちだった。
現れた面々はすぐ近くにあった階段を下りて砂浜を歩く。多くの足跡が砂浜に刻まれ、あっという間に静かだった浜辺が賑やかな空間へと変わる。
「えっと、みんなしてどうしたんだ?」
「そろそろ夕食の時間になりますが教官たちがいつまでも戻って来ないので探しに来ました」
アルティナの説明にもうそんな時間になっていたのかと思いながらリィンはごめんと素直に謝罪する。だが、夕食のことを知らせに来たにしては人数が多すぎるだろう。
ここでバーベキューでもするのかよ、と思わず突っ込んだクロウに「探しに行こうかって話になったらみんな協力してくれて」とトワは苦笑いを浮かべる。みんな、というのが今この場に集まった人々のことなのだろう。新Ⅶ組に旧Ⅶ組、他にも分校の生徒の姿がちらほらと見られる。
「相変わらず慕われてんだな」
呟くと、それを拾った友人にクロウのことも探していたのだと言われてクロウも悪かったと謝る。邪魔するのも悪いかと思ったけど時間も時間だったからと少し申し訳なさそうなトワの横で「放っておいたら良いんじゃないかとは言ったんだけどね」と口にした別の友人は口角を持ち上げてクロウを見ていた。
「夕暮れの海に二人きり、なんて絶好のシチュエーションだというのにねぇ」
「……お前は何の話をしてるんだよ」
はあ、と溜め息を吐きながらこっちもこっちで相変わらずだなとはクロウの心の中だけで呟かれた。向こうは向こうで騒がしくしているなと思っていたところで「クロウさん」と呼ばれたクロウは振り返る。
「スターク、お前まで来たのかよ。つーか、お前は実家に帰らなくて良いのか?」
「実家になら顔を出してきました。クロウさんこそ、良いんですか?」
俺は別に、と答えるのを止めたのは自分に向けられた幾つかの視線に気がついたからだ。どいつもこいつもと思いながら「後で行く」とだけ答えたのはクロウなりの譲歩だ。
お人好しというかお節介というか。そういう人が集まる法則でもあるのかと思いながら、そういえばとクロウは同郷の友人に気になっていたことを尋ねた。
「そういやお前、どうしてわざわざトールズに進学しようと思ったんだ?」
「俺ですか? リィン教官がトールズにいると聞いたので」
リィンが? と疑問を浮かべたまま動いた視線を受けて「ああ」とリィンも頷く。
「スタークには幼少期のクロウのことを教えてもらう約束をしたんだ」
「は?」
「それで俺は学生時代の話を聞かせてもらおうと思いまして」
「いや、待て待て! 何でそんな話になってるんだよ!?」
いきなり飛躍した話に理解が追い付かないクロウを余所に「え、なになに?」「昔のクロウ?」と聞きつけた周りは「小さい頃のクロウか、確かに気になるかな」「わたしもちょっと興味あるな」と次々に言い出す始末だ。
人のいないところで何て約束しているんだと言われてもこればかりは仕方ないだろう。適当に誤魔化した二人の言いたいことを察することはできても納得はできない。お前等俺のこと大好きかよ、と思わず突っ込んだクロウにきょとんとした二人は顔を見合わせ。
「今更何言ってるんですか」
故郷で自分を慕っていてくれた弟分がそう答えるのはまだ良い。けれど。
「好きに決まってるだろ」
ふわり。柔らかな笑みを浮かべてそう答えた学生時代に自分を慕ってくれた友人の言葉に込められた、友情以上の感情。そこには、二年前にはなかったはずの感情が溢れていた。
気付いてしまったのは、二年前の時点でクロウは同じものを胸の奥にしまっていたからだ。予想もしていなかった反応に言葉を失った友にリィンはくすりと笑った。
「もう夕食の時間だったな。待たせるのも悪いし、そろそろ戻ろうか」
そう言って先頭に立つ旧Ⅶ組の重心であり新Ⅶ組の教官の姿にクロウは小さく息を吐いた。あれから二年近く、あの朴念仁に何があったらああなるのか。
思ったクロウの傍で二年もあったのだからと元クラスメイトが微笑み、もう悲しませたら駄目だと友人は言う。その反応もそれでどうかと思うけれど、こっちは二年前から気付いていた人たちなのだろう。気が付いていなかったのは本人だけだったのだが。
仲間たちが歩き始めたところでふと、ぶつかる視線。海から遠ざかる足跡が増えていく中でリィンはじっとクロウを見つめていた。気を利かせたのか、周りも先に行って最後に残ったのは最初にここにいた二人。
「行こう、クロウ」
差し伸べられた手はなんてことはない、自然と出た動作の一つだったのだろう。
その手を掴んだクロウが強めの力で引くと「わっ」と声を漏らしたリィンの体が傾く。だが、傾いた体はすぐにクロウが体で受け止めた。
さーと近くで波が揺れる砂浜でクロウはぎゅっとリィンを抱き締めた。戸惑いがちに「クロウ?」と掛けられた声に腕の力が微かに強くなる。そして。
「……ありがとな」
そっと囁かれた、優しい声。それはクロウがリィンに伝えそびれていた言葉。
リィンが“おかえり”と言いたかったように、クロウもまた胸の内に抱えていたもう一つの言葉があった。それが漸く、本人に伝わる。
伝えられた言葉に、リィンも徐にその背に手を回して告げた。
「…………俺の方こそ、この小旅行にも付き合ってくれてありがとう」
「それこそ礼を言うのは俺の方なんだがな」
ゆっくりと離れる体。交わった紫にどちらともなく笑みが零れた。そして、想いも零れる。
「好きなんだ、クロウ」
「ああ。俺もお前が好きだ、リィン」
やっと、この想いも一つになる。しかし、本当は二年前からそうだったことを二人はまだ知らない。クロウは学生時代からリィンのことが好きだったが、この二年の間に自分の気持ちを理解したリィンもまた既にあの頃からそうだったのだと自覚して気が付いた。
五十ミラコインを使った手品を見せられたあの日から、いつの間にか惹かれていた。頼りになる先輩で、親しい友で、時に人をからかいながらいつも気に掛けてくれていた悪友に。
「さてと、そろそろ戻らないとあいつ等に文句言われそうだな」
わざわざ探しに行ったのにいつまでも何をしているのかと。言う人もいれば、もう放っておいて先に食べてしまえば良いと言いそうな者もいそうだが。
容易く想像できてしまった光景に「そうだな」とリィンも笑う。それから今度こそ二人も海を後にした。多くの仲間たちが待つ場所へと向かうために。
大切な人と共に
「なあ。あとでもう一ヶ所だけ付き合って欲しいところがあるんだけど、時間あるか?」
会いたい人がいるんだ、と話したクロウの言葉にリィンはすぐにピンときた。誘われたことに僅かに驚きながらも、会わせたいと思ってくれた友人にリィンは即答した。
「ああ。俺にも挨拶をさせてくれ」
「なら夕食を済ませたら行くか。他の奴には気付かれんなよ」
色々と面倒そうだしなと言うクロウに分かったとリィンも頷く。ついでに夜の街に遊びに出るかという話には程々にしてくれと一応返したけれど、これは単にいつも通りに続けられただけの言葉だろう。だからリィンもいつものように応えた。
夕焼けに照らされる海を眺めながら歩く浜辺。取り戻した平和な世界で、友と、その先にある未来へ。今度こそ共に歩いて行こう。今日、このジュライという街で新たな一歩を踏み出して。