「ここにいたのか」


 聞こえてきた声にリィンは振り向いて「おかえり」と言う。するとすぐに「ただいま」と返ってきた。
 何てことはない。一緒に暮らすようになってから当たり前のやり取りだ。でもその何でもないやりとりに心はぽかっと温かくなる。


「休講になった授業があって、早く帰ったついでに掃除をしてたんだ」


 おそらくクロウが聞きたいと思われることにリィンは答える。へえ、と相槌を打ったクロウは部屋に入るとリィンの横に腰を下ろした。
 掃除をしていたというだけあってそこにはリィンの私物が幾つか並んでいる。殆ど片付け終えたところなのか、床に広がっているものはあまり多くない。ファイルが何冊か増えているところを見ると大学で使っているノートやプリントの整理を主にしていたのかもしれない。そのついでにこの辺りのものを片付けていたといったところだろう。


「けどお前、高校の教科書やノートまで持ってきてたのか?」


 色々なものがある中で目に留まった一冊のノート。表紙に書かれている文字からそれは明らかに高校時代のものだ。捨てないにしても実家に置いておけば良いだろうと言う恋人にリィンは小さく笑う。


「持ってきたのはこれだけだよ」

「ふーん?」

「このノートは特別だから」


 他の教科書やノートは実家の押し入れに纏めて片付けてある。そう話すリィンはそのノートの表紙を大切そうにそっと撫でた。

 リィンが特別だと言ったノートはどこにでもある普通の大学ノート。よくスーパーなんかで五冊セットになって売られているものだ。実際、リィンもそうやって纏め売りされていたものを購入して使っていた。これもその内の一冊である。
 薄汚れた表紙は長いこと使っていた証であり、時々膨らんでいるページには授業で配られたプリントが貼り付けられている。それはごく普通の高校生のノートだ。


「……そんなに大切なのか?」

「ああ」


 即答したリィンにクロウの視線はノートへ落ちる。リィンの字で書かれたクラスと名前、そして教科名。それらを暫し眺めたクロウの瞳は再び恋人を映す。


「それはつまり、お前が俺との思い出を大切にしてくれてるってことで良いんだよな?」


 理科と書かれたそのノートにはクロウも思い当たることがあった。あれは数年前、移動教室の時に座った席でクロウは偶然それを見つけたのだ。それが幼馴染のものであると気が付いたクロウはこっそりとそこへある言葉を書いた。ある、告白の言葉を。
 あえて名前を書かなかったそれにリィンが気付き、クロウの気持ちを知り。その出来事がきっかけで自分達はただの幼馴染から恋人になった。そして今はルームシェアという名目で一緒に暮らしている。

 リィンが二人で暮らすこの部屋にそのノートを持ってきたのは今クロウが言った通りの理由だ。だがリィンはそんな幼馴染の言葉にきょとんとした顔をした。
 別にクロウの言ったことは間違っていない。けれど、と思ったリィンは幼馴染の言葉を訂正するべく口を開いた。


「クロウとの思い出に大切じゃないものなんてないよ」


 そう、リィンはクロウとの思い出を大切にしている。しかしそれはこのノートに限った話ではない。
 出会った時からこれまで、二人の間には沢山の思い出がある。それらはどれもリィンにとって大切な記憶であり、このノートも勿論その一つではあるがこれ以外にも大切にしている思い出は数えきれないほどある。クロウの言ったように幼馴染との思い出を大切にしているのは確かだけれど、これだけではないから念のために訂正しておく。


「その中でもこれは少し特別ではあるけどな」


 その上でそう付け加えたリィンにクロウは少しの間呆けていた。それからはあ、と息を吐いた恋人は「本当にお前は……」と零す。それに首を傾げると。


「……愛されてんな」


 不意にそう呟かれてリィンは口元に緩く笑みを浮かべた。


「クロウほどじゃないよ」


 リィン自身も恋人を想う気持ちは負けていないと思っているけれど、日常の様々な場面で愛されているのだと実感することが本当に多い。それは高校生の時でもそうだったが、同じ屋根の下で暮らすようになってからは更に増えた。その度にやっぱり好きだな、幸せだなと実感する毎日を送っている。
 しかし、それはリィンだけに言えることではないとクロウも心の中で思っていた。クロウに言わせれば全く逆なのだ。一緒に生活をしていく中で今と同じような気持ちを抱くことは決して少なくない。

 要するに、あれから付き合い始めた自分達は大学生になった今も上手くやっているわけだ。


「……なあ。キスがしたいって言ったら、怒るか?」


 静かに問い掛けたクロウは隣を見る。赤紫に見つめられたリィンはほんのりと頬を赤く染めた。
 恥ずかしさから僅かに視線を落としたリィンの瞳に映ったのは数センチほどの距離にある彼の左手。少しだけ考えたリィンはやがて、戸惑いがちにそっと自分の右手をクロウの手に重ねた。


「…………俺も、したい」


 そう答えて青紫には恋人の姿が映る。一瞬だけ驚いたような顔をしたクロウは、けれどすぐに「じゃあ目瞑って」と優しい声で言った。
 言われるままに目を閉じると、間もなくして唇に柔らかな何かが触れた。何か、ではなくそれは間違いなくクロウの唇。おそらく実際には数秒でしかないそれはもっと長く感じ、離れていく温もりに幾らかの寂しさを覚える。だが心はとても満たされていた。


「あのさ、リィン」


 ドキドキと鳴る心臓の音を聞きながらゆっくりと目を開ける。自分とは違う紫の瞳とぶつかったまま暫く時が流れ、一度目を閉じたクロウは徐に恋人の名前を呼んだ。呼ばれたリィンはじっとその瞳を見つめる。
 けれど、待ってもクロウはなかなか次の言葉を言わない。どうしたんだろう、と思ったところで「そういや今度の休みって空いてるか?」と唐突に話題を切り出された。


「えっと……空いてるけど?」

「なら三駅先に出来たショッピングモールに行ってみねぇか?」


 それは良いけどと答えれば「なら決まりだな」と幼馴染は新しく出来たその場所のことを話し始めた。何か別のことを言おうとしていなかったかと気になったリィンが「クロウ」と呼ぶとぽんと頭に手が乗った。


「悪い、やっぱり今はまだ言えない」


 けど、いつかちゃんと言うから。それまで待っていてくれと話す恋人が何を言おうとしたのかはリィンには分からない。でもリィンは恋人の顔を見て「うん」と頷いた。同時にトクンとまた心臓が音を鳴らす。
 リィンの返事に小さく笑った恋人は「それじゃあ俺は夕飯の支度するから」と言って立ち上がった。お前はそれ片付けちまえよと言ってくれる幼馴染にああと返し、いつも通りの日常が戻って来る。数十分後には美味しそうな香りがキッチンから漂ってくるのだ。

 この当たり前の生活はこれからも続いていく。いつまでも、ずっと。
 でもそのためには――そこから先の言葉をクロウは言わなかった。今はまだ。

 けれど、その約束を果たす日は遠くない未来に。








小さな箱に詰まった思い出の数々
大切な人とのそれは全て大切にこの中に