薄々そんな感じはしていた。けれどまあ大丈夫だろうと思いながらいつも通りに過ごし、多少の違和感には気付かない振りをして今日も一日を終えた。ただ念のためにと家に帰ってから体温計を使ってみたら案の定の結果がそこに表示されてああやっぱりなと思ったのも事実である。


「クロウ、ちょっといいか?」


 こんこんとノックをした後に声を掛けられて「おう、どうした」と普通に返した。とりあえず体温計は一旦机の引き出しへと片付けたところで部屋のドアが開かれる。


「今度の課題のことで少し聞きたいことがあるんだけど、後で見てもらってもいいかな?」

「ああ。つーか別に今でも良いぜ?」

「ありがとう。でも今は夕飯の支度をしているところだから」


 家事は基本的に分担制。夕飯の支度は先に帰った方がすることになっているから今日は既にリィンが準備をしてくれているらしい。そういうことなら後でと言ったのも納得だ。
 分かったと頷いてそれじゃあ後でなと話を切り上げようとしたクロウだが、リィンの視線は赤紫を見つめたまま動かない。まだ何かあるのかと聞くより先にリィンが口を開いた。


「クロウ、もしかして具合が悪いのか?」


 すると予想外の問い掛けをされてクロウは思わずきょとんとした顔を浮かべた。何だよ急に、と思ったままに返せば「そんな気がしたんだけど」と曖昧な返事が来る。


「気のせいだろ。ほら、俺のことは良いから――」

「クロウ」


 じぃと青紫が見つめる。真っ直ぐにこちらを見据える瞳。先程よりも少しだけ強めに呼ばれた名前。
 ああ、これはバレてるな。思った後でどうして分かっちまったのかと考えようとしたがそれは自分達が幼馴染だからという以上の理由は要らないかもしれない。顔に出したつもりはないけれど俺自身が感じた違和感をリィンも感じてしまったのだろう。そう思えたのはクロウ自身もリィンの小さな変化には割と気が付くからだ。そうなるとさっきのも疑問形で聞いておきながらほぼ確信を持って言っていたのだろう。


「……ちょっと風邪っぽいかもしれねーなって思っただけだ」

「熱は?」

「なかったから多分引き始めだろ。そんなに心配されるほどのことじゃねーよ」


 嘘は言っていない。冒頭に“世間一般的には”と付くけれど、どっちにしたってそこまで高いわけでもないし引き始めなのも確かだ。だから心配するほどのことでないというのも思ったままの言葉である。
 しかし何故かリィンは未だに青紫をこちらに向けたまま。これは明らかに疑われているのだろう。日頃の行いは悪くないと思うのだが、幼馴染というのは時に厄介だと感じることもある。おそらくそれはリィンにしても同じだろう。だがその何倍も幼馴染で良かったと思うことがある。幼馴染だから、なかなか気付いてもらえないこともあったもののこの関係が嫌だと思ったことは一度もない。


「飯作ってる途中なんだろ? 自分のことくらい自分で出来るからあんま気にすんなよ」


 実際、大人しく体を休めればすぐに治るだろう。まだ引き始めの段階なのだからここから無茶なことをしない限りは悪化もしないだろう。何よりお人好しの幼馴染に移してしまう方が悪い。動くのも辛いほどの高熱でもないのだからそこまで気にする必要がないのも本当だ。


「……熱、測ったのか?」


 だがリィンは疑いを解いてはくれない。ここで測っていないと答えたところで測るように言われるのは分かりきっている。ここまできて嘘を吐く理由もないだろうと素直に答えれば何度だったのかと続けて尋ねられたのでそれも素直に答える。
 三十六度六分。まあ平熱といえば平熱、これで風邪だと言っても熱はまだ出ていないんだなで片付けられるのが普通だ。けれど、どうやらこの幼馴染は普通ではなかったらしい。僅かに青紫を見開くとなんだか怒ったような表情を浮かべた。


「クロウ、さっき熱はないって言わなかったか」

「言ったけど実際熱はなかっただろ」

「それ、本気で言っているのか?」


 リィンの視線が外れない。当たり前だろうと言っても黙ってこちらを見ている。
 誰がどう聞いてもこれは熱とはいえないだろう。それなのに何でこうも食い下がるのか、と考えて思い当たることなんて一つしかない。いやまさかとは思った。でも、ここまでリィンが引かないところを見るとこいつはそんな昔の話を覚えているのか。


「確かクロウって平熱が低かったよな?」


 あ、やっぱり。どうしていつしたかも覚えていないような昔の話をこいつは覚えているのか。多分そういう話をしたのは十年以上も前、幼稚園児だか小学生だかのプールの時だろう。
 プールの日は必ず検温してカードにその日の体温を記入するわけだが、そのどこかでリィンが俺のカードを見たんだか逆だったか。どっちだったかは忘れたもののお互いの体温の話をしたことがあったような覚えはある。どうしてたった一度のそれをこいつは覚えているのか、と思ってしまう俺も大概なんだろうが。


「よく覚えてんな。リィン君って昔から俺のことが好きだった?」

「……好きだったとは思うけど、クロウにだけは言われたくない」


 何のことだと問えばそのままの意味だと返される。惚けておいたが正直身に覚えはありすぎる。というよりもリィンとの思い出ほど俺の記憶の中で大切なものはないから幼馴染の主張は間違っていないだろう。溜め息を零しているあたりリィンには分かっているのだろうけれど。


「それより、熱があるんだからクロウは大人しく休んでいてくれ」

「平熱が低いのは認めるがこのくらいなら割と大丈夫っていうのも嘘じゃないんだけどな」

「俺が熱を出した時は後のことは全部やるから寝てろって言うだろ」

「そりゃあ辛そうにしてるお前に家事をやらせようとは思わねぇしな」


 今度は何一つ嘘を吐いていないのだがリィンはとにかく寝ていろと俺の手を引く。平熱が低いことを考えれば熱があるといっても世間一般的には熱とはいえない体温、これくらいなら気にせず活動してしまうことも少なくないから本当に大丈夫なんだがたまには素直に言うことに従うべきか。
 正直に言えば、いくら平熱が低いと知っていてもこの体温で熱と捉える人はあまり多くない。だから普通に過ごしてしまうというのも俺の中では当たり前になっていて、この程度の熱で休めと言われるのには慣れない。だけど、今一緒に暮らしている幼馴染はそれにちゃんと気付く上に見逃してくれない。それが変な感じもするけれど。


「なあ、リィン」


 人をベッドの横まで連れて行ったそいつはお粥を作ってくるからと背を向けようとしたところだった。呼べばすぐに「何だ?」と青紫がこちらを振り返る。それからやっぱり辛いのかとか聞いてくるあたりがこの幼馴染らしい。
 温かいな、と思う。小さな怪我でも心配してくるところは心配し過ぎな気もするけれど、多分言ったら先程と同じように返ってくるのだろう。こいつの隣は昔から居心地がいい。


「課題、期限が先なら今度でも良いか?」


 俺は今でも良いけれどリィンは絶対に許してくれないだろうからこう聞いた。言われたリィンは呆れたような顔で「俺のことより今は自分のことを優先してくれ」と言うけれど、微かに笑みを浮かべると「でもよければまた今度見て欲しい」と続けた。


「だけど今日は寝てないと駄目だからな」

「へいへい、分かってますよ」


 大袈裟だなとは思うだけに留めた。そこまで心配されるほどの風邪ではないというのに、でもそれもありがたいことかとリィンが出て行った扉を眺めながら思う。







それに気付いてしまうのはそれだけ付き合いが長いから
(またはよく見ているから、かもな)
“お互いに”