一日を終え、お風呂から上がったリィンは寝室に戻った。そこには一足先にお風呂を済ませたクロウがいることは分かっていたが、そのクロウがベッドに腰を掛けたまま、何やら考え事に没頭しているとは思っていなかった。
「クロウ……?」
気配は消していなかったものの一応、控えめに声を掛ける。
程なくして、顔を上げたクロウの瞳は真っ直ぐ、リィンを捉えた。瞬間、とくんと心臓が一際大きな音を立てた。
「ええと……」
とくとくと鼓動が早まるのを感じながらリィンは言葉を探す。今更、緊張するような相手ではない。だけどリィンはすぐに次の言葉を見つけることができなかった。どことなくいつもと違う雰囲気の友人に戸惑ったのだ。
だが、そんなリィンの耳にぷっとクロウが吹き出す声が聞こえた。
「なに突っ立ってんだよ。早く入ってこい」
「え、ああ」
そう言って小さく笑ったクロウの空気はいつもと変わらなかった。そのことにどこかほっとしながらリィンは開けっ放しになっていたドアを閉める。
それからクロウはぽんぽんと手元を叩いた。その意味を理解したリィンは自分のベッドを通り過ぎる。ふわり、腰を下ろす最中に漂ってきたのはリィンと同じシャンプーの香りだった。
「しかし」
すっと伸ばされた手がリィンの髪の間を通る。そのまま髪を梳くようにクロウの手が何度かリィンの髪を行き来した。
「お前も三十か。正直、全然見えないよな」
「……クロウだって実年齢より若く見られるだろ」
若く見られる方が嬉しいという人は多いだろうが、若く見られ過ぎるのは幼いと言われているようであまり嬉しくない。お前ほどじゃねーよと答えたクロウも実年齢より下に見られることはあるもののリィンほどではない。この前もまた随分下に見られたことがあったが「学生として潜入任務もこなせそうだよな」と笑った相棒には「当然先輩も付き合ってくれるんですよね?」と切り返しておいた。
どうやったら年相応に見てもらえるようになるのか。思わず溜め息を零すと、先程まで髪をいじっていたクロウの手がリィンの頬に触れた。
「だが、確実に年を取ってるんだからあまり無茶はすんなよ」
言いながらクロウは親指でリィンの目元を優しくこすった。おそらく、この一週間泊まり込みで仕事をしていた影響が顔に出ていたのだろう。
そこまで酷い顔はしていないはずだが、一昨日から昨日にかけて夜通しで張り込んでいた疲れはそう簡単に取れない年齢になってきたこともまた事実だ。もっとも、それは二つしか違わない目の前の友人に対しても言えることなのだが。
「クロウこそ、年なんだから無理はしないでくれ」
「ま、そこはお互い様ってヤツだな」
ぱっと手を離したクロウは最後にリィンの頭を軽く撫でた。
人のことは言えないけれど、クロウも自分に対しては大概ではないだろうか。心の中だけでそう呟いたリィンはふと、自身に向けられている視線に気が付いた。
「誕生日おめでとう」
優しい声で告げられたのは、目が合って間もなくのことだった。
「ありがとう。もう何度も聞いたけどな」
「いいだろ。俺が言いたいだけだ」
日付が変わった瞬間、朝目が覚めて挨拶をしたあと、夕食をふるまってくれた時、そして今。繰り返される祝いの言葉はこれで四回目になるだろうか。
一昨年までは通信で一言、祝いの言葉を贈ってくれることが多かった。だけど、一緒にいた去年はやはり今年と同じように何度かその言葉を伝えられた。
でも、そうやって何度でも言いたくなる気持ちも分かるからリィンはクロウの好きなようにさせている。頭を撫でることにしても嫌ではないから何も言わない。同じだけクロウもリィンの好きなようにさせてくれるから不満もない。
クロウが何も言わないのもそういうことだろう。それが、今の俺たちの――。
「リィン」
とくん、と心臓が鳴る。
聞き慣れた柔らかな音の中に、確かな重みを感じた。
「聞いて欲しいことがある」
真剣な目がリィンをじっと、見据える。その空気には覚えがあった。そうか、だからとリィンは部屋に戻った時のことを思い出す。
そっと、リィンの手にクロウの手が重なる。
そこではじめて、リィンは知らずのうちに手のひらを握っていたことに気がついた。力のこもっていた拳を開いたクロウの手は、心なしか冷たく感じた。
「お前は、俺がこれまで何をしてきたか。全部知ってるだろ」
落ち着いた声でゆっくり、クロウが言葉を紡ぐ。それは、大切な人と大事な故郷を想っていたクロウが十三の時に選んだ道。
「俺が今こうして好きに生きていけるのは、お前やトワ。皇子殿下をはじめ、多くの人たちの口添えがあったからだ」
「……俺は大したことはしていないよ。その殆どは黄昏におけるクロウ自身の功績だろ?」
「だとしたら、なおさらお前のお陰だ。お前が俺を諦めなかったから俺は今もここにいる」
内戦の時も、相克の時も。
ジークフリードだった時もお前は俺を信じて疑わなかった。そう話すクロウにリィンは緩く首を振った。
「俺はただ、クロウに戻ってきて欲しかっただけだ」
諦めなかったというよりも諦めたくなかった。クロウが嘘だったと切り捨てたものを信じたかった。お調子者だけど頼りになる先輩を、いつだって力になってくれたクラスメイトを、どんなことも言い合えるようになった悪友を。
リィンが言うと、クロウは小さく笑みを零した。
「だから、ありがとう。それと悪かった」
僅かな振動が重なった手から伝わる。今まで礼も謝罪もまともにしたことがなかっただろとクロウは目を伏せた。
どうして急にそんな話をしようと思ったのか。
今度は自分でも手に力が入るのが分かった。でも、そんなリィンの手にクロウは指を絡めた。されるがままに開かれた手に視線を落としたリィンが再び顔を上げると、赤紫の瞳に自分の顔が映った。
「お前が何も聞かなかったから言わなかったが、俺はずっと。お前と一緒にいたかった」
あ、と思わず声が漏れる。それは一昨年の冬、クロウが初めて口にした本音。
リーヴスにやってくるクロウに仕事とは別の理由があることは明白だったが、それまでリィンはあえてそこに踏み込むことはしなかった。いや、踏み込む必要がなかった。その日が何の日なのか、自分たちが忘れることは一生ないから。
「俺は自分の選んだ道を後悔はしていない。だけどあの日、あの時のお前の顔を思い出して、お前に会いたくなった」
それが初めてリーヴスを訪ねてきた時のことだとクロウは言った。そのためにさっさと依頼を片付けて会いに行った、と続けられたところであの時は近くにきたと言っていなかったかと尋ねるとあれは嘘だとあっさり告白された。
「翌年からは事前に仕事を調整したが、最初はただの思いつきだった。だからお前がリーヴスにいてくれて助かった」
「……俺もクロウがきてくれて嬉しかったよ」
何もない仕事の代わりに調べものをして時間を潰したのは全部、余計なことを考えないようにするため。
頭では理解していても脳裏に焼き付いた記憶は簡単に消すこともできず、帝国のどこかで頑張っている友人に会いたくなる気持ちを抑えていたら本人が現れた。あの時の衝撃と喜びはこの先もきっと、忘れることはない。
「そんなお前と、俺はこれからもこのままダチとして一緒にいられたらって思ってた」
――お前が遊撃士になりたいと言うまでは。
クロウの言葉に微笑を返しながらリィンはその先を引き継ぐ。
「二年前にも言ったけど、俺もこの世界で自分にできることをしたいと思ったんだ。でも、またクロウの隣に並びたいって気持ちがあったのも確かだ」
毎年、クロウがリーヴスにくるのを楽しみにしていたのはリィンも同じ。一緒にいられることが嬉しくて、これからもこの関係を続けられたらいい。そう思っていたのは嘘ではない。
だけど本当にそれでいいのかと考えた時、リィンは迷った。
迷って、考えて。リィンは遊撃士になることを決めた。その根本にはクロウと一緒にいたいという想いがあったことも否定しない。
「多分、クロウは気付いていたと思うけれど」
「それを言うならお前だってそうだろ?」
問い掛けられたリィンはやがて、静かに頷く。俺たちはそれに気付いた上でお互いに知らない振りをしていた。
「リィン」
出会った頃よりも幾分か低くなった声。見慣れた赤紫の瞳に銀の髪。リィンよりも色素の薄い手は武人らしく硬く、大きく……何よりも、あたたかい。
とくとくと鼓動が脈打つ音が心臓と、繋いだ手から伝わってきた。
その手を持ち上げたクロウは、くるりとリィンの手のひらを上に向けた。
「これからもずっと、傍にいてくれ」
そして、チェーンの通されたシルバーリングを乗せた。
「俺は、お前と一緒にいたい」
僅かに震える手に、クロウでも緊張するんだなとリィンはぼんやり思う。だけど、緊張するのはそれだけリィンを想っているからこそだろう。二年前、遊撃士になりたいとクロウに話した時のリィンもすごく緊張した。
だが、今のクロウはきっとあの時のリィン以上に緊張しているのだろう。それほどまでに想われていることにリィンの頬は自然と緩んだ。
リィンの手を包むように握るクロウの手に空いていた手を重ねたリィンは、そっと、告げる。
「ありがとう、クロウ。俺もクロウと一緒に生きたい」
長年抱いていた想いを言葉に乗せて伝えると、短く息を吐いたクロウは目を細めた。その表情につられるようにリィンの顔も綻ぶ。
じんわりと、満ちた心から幸せがあふれる。
一見なんてことのないような当たり前がとんでもない奇跡で、本当はそれだけでも十分幸せだった。しかし、手の届くところにあるそれにリィンは手を伸ばしたくなった。
そんなリィンの手をクロウは迷うことなく取った。だからクロウがその手を引くというのなら引き寄せられるまま、その胸に体を預ける。それがリィンの――俺たちの答えだ。
「……なあ、クロウ。これって」
「ああ、ほらよ」
顔を上げたリィンが言い終わるよりも早く、蒼耀石のついたリングは紅耀石のものとすり替えられた。
蒼耀石と紅耀石。
やっぱりペアリングだったかと思っている間にリィンは左手を取られる。視線を落とすと、自分を見つめる瞳とぶつかった。
(…………ああ)
既にチェーンを外して指輪を持っていたクロウにこくり、頷く。数秒後、リィンの左手の薬指で蒼色が光った。
暫くリィンの手を見つめていたクロウはやがて、自分の手をリィンの前に差し出した。その左手にリィンもまた、紅耀石のリングをはめる。
互いの指元できらりと輝く指輪。
特別な意味を持つそれを見つめていたリィンの手が引かれたのは、間もなくのことだった。
「……もう、逃がしてやれねえから」
ぎゅっと手を握ったまま、耳元でぽつりと言われた一言にリィンは思わず笑った。そんなことは言われるまでもない。
「俺だって逃げられたら困る」
何せ、想っているのは自分だけではない。
それをはっきりと口にしたリィンは「クロウ」と呼びながら指先で軽く手の甲を叩く。緩められた手と、少しだけ広がった距離。視界に赤紫の瞳を捉えたリィンは徐に口を開いた。
「好きだよ」
ずっと言えなかった言葉を、長い年月を経て漸く伝える。たったそれだけのことで胸がいっぱいになる。
けれど、この幸せは想像していたよりも深く、どこまでもあふれていた。
「俺も。お前が好きだ、リィン」
赤と青は交差し、紫は瞼の奥へ。
重なり合った想いは次の瞬間、熱に溶けた。
ともに在る未未へ
紅と蒼の七耀石の欠片を胸に歩いていこう