「よう、元気にしてたか?」


 聞こえてきた声に勢いよく振り向くと、夕焼けに照らされた銀糸がきらり、煌めいた。


「クロウ……!? こっちに来てたのか」

「ああ、ついさっきな」


 久し振り、とリィンはその距離を詰める。会うのは三ヶ月振りくらいになるだろうか。
 あの戦いを終えたあと、クロウは帝国を旅して回っている。今の俺に帝国がどう見えるのか知りたい。そう話した友は誰よりも早く旅立った。
 今はどこにいるんだろう、と彼のことを考えたのは今朝のことだったのだが、まさかリーヴスに来ているとは思いもしなかった。


「しかし、年末まで仕事かよ」


 呆れたように言ったクロウにリィンは苦笑いを浮かべる。


「ちょっと確認したいことがあっただけだよ」

「相変わらず真面目だな。実家には帰らねえの?」

「残っている生徒も多いからな」


 帰ったらどうかとは言ってもらったのだが、リィンにはリーヴスに残ってやりたいこともあった。だから生徒たちのことは任せてください、とトワを送り出したのは昨日のことだった。


「……ま、俺としてはお前がいてくれて助かったが」


 ぼそっと呟かれた一言にリィンは首を傾げる。


「俺に用事があったのか?」

「用事っつーか、ちっと頼みたいことがあってな」


 その言葉にリィンの疑問は更に深まる。
 改まってどうしたんだろうか。そう思いながら話の先を促すと、クロウは小さく笑みを浮かべて言った。


「今夜、お前の部屋に泊めてくれねえか?」


 これが八年前、リーヴスを訪ねた友人の頼みだった。












「そうそう、ケルディックの大市でいいワインが手に入ったんだ」


 ほら、と差し出された紙袋をありがとうと受け取る。

 あれから八年。今や遊撃士になった友人は帝国に留まらず、大陸各地を飛び回るようになった。そして、年の瀬には手土産を持って頼みごとにやってくるのもお決まりだ。三年目でこれが偶然でないことには気がついたけれど、この友人は今日のために仕事を調節しているのだから困ったものだ。
 でも、わざわざ理由を作ってくれるクロウの優しさに甘えているのはリィンだ。本当は理由なんてなくてもいいのに、俺たちは毎年この日に理由をつけている。


「ケルディックか。そういえば久しく行ってないな」

「ここからあまり遠くねえだろ。たまには自由行動日に遊びに行ったらどうだ」


 トリスタで暮らしていた学生時代は、自由行動日に出掛ける場所として帝都とケルディックの名前がよく挙がっていた。
 東部にあるケルディックはここからだと少し距離があるが、やはり大陸各地のものが集まる大市は魅力的なのだろう。トリスタにいた頃ほどではないとはいえ、ケルディックに遊びに行く生徒は少なくない。この前も駅前で会った生徒たちはケルディックの大市に行くのだと楽しそうに話してくれた。リィンにとっては初めての特別実習地として思い出深い地でもある。


「何なら一緒に遊びに行くか?」

「そうだな」

「お、乗り気か? だったら善は急げっつーことで、明日にでも行ってみるか」

「クロウは行ったばかりなんだろ? それならケルディックはまたにして他の場所にしないか」


 適当なおつまみを並べてテーブルの上のグラスにワインを注ぐ。この日に合わせて買い物をするようになったのは、もしかしたらと思った三年目から。お酒はクロウが見繕ってくれるためリィンが用意するのは軽食だ。別に決めたわけではないのだが、流れる年月とともに自然とそうなっていた。
 今年もお疲れさま、と持ち上げたグラスを傾けるとさっぱりとしたフルーツの味わいが口の中に広がった。


「どっか行きたい場所でもあるのか?」


 ことりとグラスを置いたクロウは、付け合わせで安くしてくれたというチーズに手を伸ばす。


「初日の出を見に行くのもいいと思うけど」

「それ、場所によっては今から出発だぜ?」


 ワインを一口味わったリィンもチーズをもらう。このワインに合うとおすすめされたというチーズも店主が自ら各地を渡り歩いて探したものらしい。優しく溶けるようなチーズは店主が太鼓判を押すのも納得の味だった。


「クロウは今度、オルディスに行くんだよな」


 レグラムとバリアハートでの仕事を終え、次はオルディスに行く。だから途中にあるリーヴスに立ち寄った、というのが今回クロウが用意した理由だ。
 確認するように問うたリィンにぐいっとワインを煽ったクロウはああと肯定した。だが、とまたすぐに口を開く。


「俺に合わせることはねえよ。こっちは急ぎでもねーし、日帰りならもっと近場の方がいいだろ」

「今年はトワ先輩も残ってるから泊まりでも平気だよ」

「なんだ、忙しかったのか?」

「いや、トワ先輩には個人的なことで少し相談に乗ってもらっていたんだ」


 リィンの返答にクロウはぱちりと目を瞬かせた。おそらく珍しいと思われたのだろう。
 ――だけど、丁度よかった。


「実は、そのことでクロウにも相談があるんだけど」

「俺に?」


 聞き返されてこくりと頷く。いつ切り出そうかと考えていたのだが、今がそのタイミングだろう。そう思ったリィンは緩やかに息を吐く。


「俺、遊撃士になりたいんだ」


 紡いだ言葉にクロウは僅かに目を開いた。
 けれど友は黙ったまま、じっとリィンを見つめた。その視線にリィンは話を続けた。


「学生の頃、トヴァルさんに誘われた時から興味はあったんだ。だけど俺は自分のやるべきこと、やりたいことを考えて教官になることを選んだ」


 卒業前、進路を決めるまでは色々なところから声を掛けられた。帝国軍はもちろん、皆が英雄の存在を求めた。
 正直、英雄なんて過ぎた評価だったが、それが力を持った者の責任だった。自分の力に向き合い、俺が俺として前に進むことのできる道。軍属を強く奨められる中で転がり込んできた第Ⅱ分校の話は、当時のリィンに残された唯一の道でもあった。


「初めは慣れないことも多かったけど教官という仕事はやりがいがある。生徒から教えられることもあって、俺自身もたくさん成長させてもらった」

「実際、お前には合ってるよな」

「この仕事が好きなことは確かだよ」


 これからも一人の教官として、帝国の未来を担う子どもたちの成長を近くで見守りたい気持ちもある。きっと、それも一つの選択肢だろう。


「でも」


 瞼の裏に浮かぶ、数多の記憶。
 生徒たちと挨拶を交わす何気ない日常、教卓から眺める教室。リーヴスの街に、特務活動で見て歩いた各地の思い出。連なるように呼び起こされるのは特別実習の記憶とトリスタの街。仲間たちと過ごしたかけがえのない時間。

 士官学院という場所はリィンに多くの縁を作ってくれた。
 教官として八年、生徒として二年。あの日からもう、十年の年月が流れた。

 ゆっくりと開いた目に映る、赤紫。その瞳をもう一度見たいと焦がれた日はとうに過ぎ去った。大切な友は今、ここにいる。


「俺もこの世界でできることをやりたいんだ」


 今でも帝国の英雄として名が知られているリィンにも向き合いたい過去がある。また、向き合いたい現実もある。それは今だからこそ言える、リィンのわがままだ。


「そのために、クロウの力を貸して欲しい」


 かつて、遊撃士になったばかりの頃にクロウは言った。俺が帝国のためにできることをやるには遊撃士が丁度よかったんだ、と。それは彼が自分の罪と向き合い、前に進むために選んだ道だった。


「……なら、一つゲームといこうぜ」


 ちくたくと時計が時を刻む中、クロウが徐に口を開く。それから友は見覚えのある一枚のコインを取り出した。
 その時点でリィンはクロウの言おうとすることが理解できた。当時はたった一枚のコインがこんなに大事なものになるとは思わなかったけれど、それはクロウにしても同じだろう。
 だけど、これが俺たちにとってのはじまり。


「お前が勝ったら手を貸してやるよ。その代わり俺が勝ったらお前が俺の頼みを聞く、でどうだ?」

「ああ、分かった」


 決まりだな、と口角を持ち上げたクロウは左手でコインを弾いた。
 宙を舞うコインを追いかけ、最高点を通過したところでクロウの手が交錯する。普通に考えれば、どちらかの手にコインが握られているのだろう。それがゲームというものだ。


「……そういえば、ゲームの前に一つ確認しておきたいんだが」

「何だ?」

「コインはどちらか片方の手にしかないんだよな?」


 こちらの問い掛けにきょとんとした表情を浮かべクロウは、間もなくしてククっと喉を震わせた。そして、赤紫がリィンを映す。


「まいった、俺の負けだ」


 ゆっくりと開かれた両の手。リィンの予想通り、五十ミラコインはクロウの両手に乗っていた。


「よく分かったな」

「分かるに決まってるだろ」


 何年付き合っていると思っているんだと言えば、小さく笑ったクロウは「違いねえな」とコインをテーブルに置いた。
 あの時と違ってクロウはこれを手品ではなくゲームだと言った。ゲームというからにはコインは必ずある。だけどクロウを見れば断る気がないことは明らか、となれば答えは簡単だ。これはゲーム好きな友人が持ちかけたただの遊び。最初から勝敗はどちらでもよかったのだ。


「んで、お前の頼みは?」

「俺が遊撃士になるために力を貸して欲しい」

「他には?」


 当たり前のように聞かれるが頼み事は一つではなかったのか。思ったままに疑問をぶつけると今回は完璧に見破られたからだと返ってきた。
 しかし、他と言われても頼み事なんてなかなか思いつくものではない。今も二人でお酒を酌み交わしているし、明日もクロウは一緒にいてくれる。どこかに出掛けるのも付き合ってくれるとまで言われているのに、これ以上クロウに頼みたいことはあるだろうか。


「もし思いつかないなら考えておけよ。それまでずっと、一緒にいる」


 静かな部屋の中で耳に届いた一言にリィンの思考は急速に引き戻された。そのまま勢いよく顔を上げた瞬間、自分を真っ直ぐに見つめる瞳とかちあった。


「準遊撃士になっても、正遊撃士になっても。……まあ俺が一緒にいたいだけなんだが、俺たちにできないことはないだろ?」


 なあ、相棒。

 そう言ってそっと細められた瞳にリィンの心臓がとくんと音を立てる。同時に、体の中心からじんわりと熱が広がる。
 目元から想いが零れそうになってしまったのは年のせいだろうか。いや、間違いなく目の前の友人のせいだろう。この八年間、たまたま近くに来たからという理由しか口にしたことなどなかったというのに――でも、今日までそれ以上のことに触れなかったのはリィンも同じだ。


「……そうだな。頼りになる相棒がいたら、頼みたいことなんて余計に思いつかなくなるかもしれないが」

「そん時はどこに行きたいとか何を買って欲しいとか言えばいいだろ」


 その程度のことは頼み事にすることではない気がしたけれど、リィンはそうだなと素直に頷いた。どんなに小さな頼みでもクロウはきっと聞いてくれるし、この頼み事をしたところで離れる理由にはならないと思ったから。
 それはリィンが遊撃士の知り合いの中で他の誰でもなく、クロウに頼んだのと同じ理由だ。そのくらいのことはもう、十年という月日の中でお互いに分かるようになってしまった。


「クロウ、やっぱり明日は初日の出を見に行かないか?」


 わざわざ遠くに行かなくていいから、と言うよりも早く「いいぜ」とクロウは即答する。続けて「どこまで行くんだ?」と尋ねてくる友人にリィンの頬は自然に緩んだ。
 やはり頼み事にする必要はなさそうだなと思いながらリィンは軽く首を横に振った。


「遠出をするのは今後の楽しみにしておくよ。初日の出は分校の屋上からも見えるから明日はリーヴスで過ごさないか?」

「それは構わねえが、部外者が分校に入ってもいいのかよ」

「クロウはトールズの関係者だから部外者ではないだろ」


 気になるのならトワにも確認してみようかと提案してみると「お前と同じ答えしか返ってくる気がしねえ」とクロウはグラスを傾けた。
 つまりそういうことだろうと言えばクロウは眉尻を下げて笑った。わーったよ、と答えた声の柔らかさにリィンの顔には微笑みが浮かぶ。


「ついでに少し付き合ってもらってもいいか?」

「次の仕事は四日後にここを出れば十分間に合う。好きなだけ付き合ってやるよ」


 ほら、と促されてリィンは自分のグラスを持ち上げた。とくとくと注がれたワインがいっぱいになったところで交代し、今度はリィンがクロウのグラスにワインを注いだ。


 お酒を酌み交わしながら過ごす時間はいつでも、いつまでもゆったりと流れていく。
 目の前で笑っている友とこれからも共に歩んでいく。それが八年前の今日から変わらない、俺たちの言葉のない約束。
 これからは確かな言葉とともに、永遠に。それが俺たちの選ぶ道。










fin