さーっと風に揺られた木の葉が音を奏でる。それに合わせるように木漏れ日が動き、クロウの顔にも太陽の光が降り注ぐ。
 ざっざっと慣れた足取り歩く山道で行き交う人はいない。そもそもこんな何もない山の中にやって来る人など殆どいない。

 だが、クロウにとっては昔から馴染みのある場所だ。
 何もないといってもここにはたくさんの自然がある。形も様々な木の実、大きな葉っぱ、綺麗な花。それらは季節によって姿を変え、一年を通して飽きることなく楽しませてくれる。自宅のすぐ近くにあるこの山にクロウは小さい頃からよく足を運んでいた。


「こっちの方だと思ったんだが」


 道らしき細道を進んだ先にある開けた場所でクロウは一度立ち止まる。チュンチュンと小鳥の囀りが聞こえてきて顔を上げると、丁度すぐ傍の木の枝でスズメが羽休めをしていた。
 人の手が殆ど入っていないここにはまだ動物も多く生息している。辺りの樹木はどれも樹齢百年は優に越えているだろう。自然あふれるこの場所でクロウはぐるりと辺りを見回し、小さく息を吐いた。


「気のせい、じゃねぇよな……」


 多分、いや絶対にここに何かがあるはずだ。
 言い切ることはできるが根拠がないだけに説明をしろといわれたら正直困る。説明を求める相手もいないから問題はないとはいえ、こうも不発ばかりでは少なからず不安も生まれるというものだ。しかし、不安より確信が大きいためクロウはこうして山を歩き続けている。

 ぴゅう、と一つ。風が通り過ぎる。
 ばさばさと野鳥の羽音が重なり、一際大きな木漏れ日が大樹の下に日溜まりを作った。


「御神木……か?」


 その昔、ここにはお社があったらしい。今となっては影も形もないが、お社がなくなってしまったのとほぼ同時に起こった突然の天災に当時の人々は神様の怒りに触れたのだとそれは大騒ぎだったという。
 元々神様の領域とされていたこの山に立ち入る人間は少なかったが、それをきっかけに人々は更に山から遠退いた。周辺が少しずつ開発されていくのに対し、ここだけが取り残されているのもそれが由来のようだ。

 尤も最近ではそんなものは昔の話だと一部からは山の開発を進める声も上がっている。
 賛成派と反対派は最初こそ後者が多かったが、今では賛成意見が多くなっているのだから人間は現金な生き物だよなとクロウは思う。何せ賛成派が増えたのはリゾート計画による観光客の集客を主とした収益だけを考えた発言によるものだ。神様の怒りはどこにいったんだという話である。

 だけどこれも時代の流れではあるのだろう。かの災厄でお社が壊れた時にこの山からは神様もいなくなってしまったとされている。それならば気にする必要もないという意見が出るのも無理はないのかもしれない。
 そう思いながら昔はお社と一緒にあったであろう御神木の傍まで辿り着いたところでクロウは再び足を止めた。見上げてもてっぺんまでは見えないこの木はどれほどの高さなのだろうか。


(これを切り倒すつもりなら罰当たりにも程があるだろ)


 金のことしか考えていない人たちからすれば、この大樹もただの木にしか見えないのか。流石に邪魔な木とまでは考えていないと思いたいが、とクロウは視線を落とした。
 御神木だと思われるこの木の傍も特に変わったことはない――と思った時。ふと何かを感じてクロウはぐるっと反対側へ回った。
 すると、そこには一人の青年が大樹の根本に体を預けながら小さな呼吸を繰り返していた。


(……神様がいない、なんて誰が言い出したんだ)


 そもそもどうしてそんな話に――というのは先の天災が原因だろう。神様の拠り所だったお社が壊れたとあれば誤解が生まれるのも仕方がないのかもしれない。
 けれど、この国には八百万の神という言葉が残っているほどだ。神様はいる。そう、今クロウの目の前にも。


「………………ん」


 不意に聞こえた微かな音。間もなくして青年の瞼がゆっくりと上がる。
 そこから現れたのは透き通るような青紫色。出会った時から変わらない、クロウにとっては何よりも特別な、色。

 微睡んだ瞳を数度、瞬かせた青年はやがてクロウを真っ直ぐに捉えた。それからふっと口元を緩めたかと思うと優しい声が耳に届いた。


「おかえり、クロウ」

「……ああ、ただいま」


 手を伸ばせば、間もなくして唇が触れた。それと同時に流れ込む力。
 淡い光に包まれ、ふわっと透明な尾がクロウの背後で揺れた。


「長い間、待たせちまったな」


 光がクロウに溶け込むと白銀の尾が確かに動く。それを認めたリィンはゆるゆると首を横に振った。


「クロウは約束してくれただろ?」

「待たせたことには変わりねぇよ。……お前を、こんな場所に」


 ――たった一人で。
 静かに零れ落ちた音に含まれた感情を読み取ったリィンは柔らかな笑みを浮かべる。


「それもクロウが気にすることじゃない。俺がクロウと一緒にいたかったんだ」


 だから二百年前、この山奥に住んでいた神様と共に生きることを決めたのだと真っ直ぐな想いがクロウの胸に響く。続けて「それに」と口にしたリィンは蕾が花開くようにふわりと表情を和らげる。


「これからは一緒にいられる」


 それで十分だ、と。あの頃から変わらない、一切の穢れがない綺麗な心から伝わる。
 何も変わらない、変わらないでいてくれた大切な人。本当に敵わないなとクロウは一人胸の中で呟く。


「リィン」


 久し振りに口にした名前にまた、愛しさが込み上げる。ぶつかった瞳は間もなくして優しく細められた。そのまま交わした二度目の口付けは、お互いにただ愛しい人を求めただけの熱い想い。
 深く重ねた唇を離し、ゆっくりと目を開ける。じんわりと心に広がる熱を胸にクロウは徐に口を開いた。


「もう一度、俺と生きてくれ」

「ああ、喜んで」


 二百年前、ある青年は望んだ。この森に住む、神様と共に生きることを。
 そして、その神様も望んだ。青年と共に、これからは二人で生きていくことを。

 当然のように頷くリィンをそのままぎゅっと、抱きしめた腕はほんの少しだけ強くなってしまったかもしれない。でも、そこから伝わる体温がとても心地いい。
 やがてその腕を解いた時、二人はどちらともなく再び唇を重ねた。








いつまでもこの手を繋いで世界を歩もう