夜空に星が煌めく。月が見守る大地はいつもより幾ばくか明るく、賑やかなものとなっていた。
これで全てが終わったわけではない。それでも数百年にも及ぶ裏の長い戦いは今日、確かに終わった。世界そのものを背負って戦い抜いた友は大勢の仲間に囲まれ、笑っている。本当によかった、と思ったのは嘘偽りのない気持ちだった。
「クロウ」
真ん丸の月を眺めながらグラスを傾けていたところで名前を呼ばれる。振り向いた先で懐かしくも見慣れた黒髪が風に揺られた。
「今日の主役がこんなとこに抜け出していいのか」
「別に主役じゃないんだが」
本人は否定してもここにいる大半の人間がそう思っていることだろう。誰かとの話が終わればまた別の誰かが、頃合いを見計らって次々にリィンへと声を掛ける。数分前は教え子に囲まれていたはずだが、ここに来たということは一段落ついたのだろう。
「……終わったんだよな」
それでもこいつと話したいヤツはまだ大勢いるだろうなと思っていたところへぽつり、静かに声が落ちる。隣に並んだリィンはくるりと回したワインを見つめていた。
「ああ、終わったな」
数時間前の出来事が嘘だったかのように、流れる時間はとても穏やかだ。望んでいた未来の先で酒を酌み交わす日が来ることなどないと思っていたが、本当に世の中は何が起こるか分からない。所詮、願いなど何一つ叶わないと知っていたはずなのに。
「クロウ」
青紫がこちらを向く。黙って隣を見れば、リィンは僅かに躊躇いを見せたもののすぐにもう一度目を合わせた。
「少しだけ、手を貸してくれないか?」
「手?」
まさかこんな時まで誰かの手伝いを引き受けたのかと。呆れそうになったが、その表情を見て開きかけた口を閉じた。
ことり。近くのテーブルにグラスを置く。それから差し出した手を同じようにグラスを置いたリィンの両手がそっと包んだ。
「…………あったかいな」
暫くしてリィンはたったぞれだけを口にした。青紫の瞳はじっと手元を見つめたまま動かない。
「お前の方があったかいだろ」
「そうだな、そうかもしれない」
触れ合った場所から感じる体温はリィンの方が上だった。それでもあたたかいとリィンは呟く。そのまま閉じられた瞼の裏で、友は何を考えているのか。
ぴゅう、と微かな音を立てて夜風が通り過ぎる。追い掛けるように見上げた夜空には月明かりが広がっている。月が綺麗だな、とぼんやり思ったところですぐ傍の友へと視線を戻す。
「なあ」
ゆっくりと、瞼の下から透き通るような瞳が再び現れる。真っ直ぐすぎるその瞳を眩しいと思うこともあった。だが、それを綺麗だと思ったこの気持ちもひた隠しにした本心の一つだった。
「いつか、お前の故郷を案内してくれないか」
前の時は慌ただしくしちまったしな、とついこの前のような遠い昔のような記憶を思い出す。結局ユミルに行ったのはその一度きり。温泉郷と有名なだけあって噂くらいは聞いたことがあるけれど訪れたことはないようなものだ。学生時代の小旅行をはじめ、数回の訪れたかもしれない機会は全部流れてしまったから。
もしその機会が流れることがなかったのなら、俺たちは今とは違う出会い方をしていたのだろうか。考えてみて、けれど巡り巡って士官学院で出会ったことが全てかと思い直した。
「そんでお前の話を聞かせてくれよ」
俺の知らない学生時代こと、教官になってからのこと。幼い頃の話から最近の話まで。どんなに些細なことでも大きなことでも、何でも構わないから噂の温泉にでも浸かってのんびりと話をしたい。
時間は幾らでもあるしな、と付け加えた一言に小さな力が左手に伝わった。
言葉には出さなくても最初からずっと気にされていたことくらい、分かっている。だからリィンが何を言いたいのかも途中で気が付いた。だがまあ、そこはお互い様というやつだろう。
「それならクロウの話も聞かせてくれ」
「俺の話は一回の温泉じゃ終わらないと思うぜ」
「何回でも入ればいいだろ」
「本当に好きだよな」
すかさず返すところからまた、リィンの温泉好きを感じる。放っておけば何回でも何時間でも、のぼせない程度に温泉を楽しむんだろう。といってもまさかあそこまでの温泉マニアだったとは思わなかったが。
「あ、いや」
ぱっと手を離したリィンの口から短い声が零れて、迷うように視線が動いた、気がした。
「ジュライにもあるんだろ? もしよかったらそっちも行ってみたいな、と思って」
そういやそんな話もしたな、と思い出す。
小さく笑ったリィンの表情から裏は感じない。気にならないわけじゃなかったが、今はいいかと誤魔化されてやることにした。それこそ、時間はたっぷりとあるのだから。
「スタークとの約束もあるしな。ついでに街も案内してやるよ」
「それは楽しみだな」
ふっと目を細めるリィンに自然と頬が緩む。そのついでにちょっと付き合ってくれと尋ねたなら、こいつは二つ返事で頷いてくれるんだろう。
むしろ言わなくてもそのことを言われそうな気さえする。下手したら俺以上に気にしているまであるかもしれない。この友人はそういう性格なのだ。そういうところもまた――。
「ほら、そろそろ戻ろうぜ。いい加減いつまでお前を独り占めしてるんだって怒られそうだ」
本音はもう少しくらい独り占めをしたいが流石にそういうわけにはいかないだろう。だからこそこっそり抜け出したというのに何故かこいつは見つけてしまったのだから諦めるしかない。
ぽんと軽く肩を叩くとすぐに青紫がこちらを見上げた。それに笑みを返して足を踏み出せば、隣のリィンも同じように一歩を踏み出した。そうして仲間たちの元へ戻ったところでふと、合った視線にどちらともなく微笑んだ。
月明かりの下で
感じたあたたかさに安堵して、交わした小さな約束に喜びを覚える
月の光に隠れたその光はけれど確かに、そこに在った