うだるような暑さが和らぎ、徐々に過ごしやすい季節となってきた。少し前と比べると日が沈むのも早くなったと感じる。
 今日も一日の授業を終えたリィンは玄関を開けて「ただいま」と口にする。程なくして返される「おかえり」という言葉にいつも胸があたたかくなる。なんてことのない言葉だけれど、それが当たり前ではないことを自分たちは理解している。


「もうすぐできるから座ってていいぜ」

「ああ、ありがとう」


 高校を卒業したあと、リィンはクロウと一緒に大学へ進んだ。数えるほどしかないバスで通うのは現実的ではなく、大学の近くにアパートを借りて今は二人で暮らしている。
 基本的に家事は分担しており、夕飯に関しては先に帰った方が支度をすることになっている。テーブルに並ぶ料理を何気なく眺めたところでふと、真ん中に置かれていたそれに目が留まった。


「そういえば今日って……」

「中秋の名月、だろ?」


 言葉の先をクロウが引き継ぐ。
 確かに帰り道を歩きながら見上げた空には綺麗な月が浮かんでいた。


「本当は月見酒といきたいところなんだが」


 相変わらずな友人にリィンは小さく息を吐く。


「まだ未成年だろ」

「祖父さんと同じこと言うなよ」


 同じことというより当たり前のことを言っているだけなのだが、本気で飲むつもりもないのだろう。祖父の教育もあり、そういうところはちゃんとしているのだ。
 荷物を片づけたリィンは一足先にテーブルにつく。そこにはお団子の他にも旬の野菜を使った様々な料理が並んでいる。


「いつも思うけど、クロウは料理が上手いよな」


 何かしらの行事があれば、それに合わせた料理を振る舞ってくれる。こういう時に改めて彼の料理の腕を実感する。


「数こなしてるからそれなりにできるだけで上手くはねぇよ」

「そんなことはない」


 それだけクロウが努力を重ねてきたということだ。小さい頃から祖父の力になるために頑張っていたことはよく知っている。
 今はリィンも最低限の料理くらいはできるようになったが、同じだけ料理をしたところで自分が同じようになれるとは思えない。


「俺はお前が作ってくれる料理が一番好きだぜ」


 まるでこちらの考えを見透かしたかのようなタイミングで言われる。目が合うと彼はふっと優しく笑った。


「ま、とりあえず食おうぜ」


 そう言って飲み物を置いたクロウは腰を下ろす。
 せっかく準備してくれた料理が冷めてしまうのももったいない。そうだなと頷いて両手を合わせる。一口飲んだお味噌汁は体を中心からあたたかくしてくれた。


「そういやお前と出会ってからもうすぐで一年になるんだな」


 あっという間だなとクロウが呟く。
 目を閉じれば、あの日の光景が思い浮かぶ。毎年恒例の秋祭り。去年は神社の跡継ぎが十八歳を迎え、契約を結ぶ特別な年だった。


「あの日はやっとクロウに会えることが嬉しい反面、緊張もしていたな」

「そうだったのか?」

「気持ちを落ち着かせたかったというのもお参りをした理由のひとつだけど、まさかそこでクロウに会うことになるとは思いもしなかった」


 リィンが施していた術の影響でそれまで神や霊を見ることができなかったクロウ。その術があるからこそ、クロウと会うのは夜だと思っていたリィン。
 元々の霊力の大きさか、それとももっと別の何かが原因だったのかは分からない。けれど、あの瞬間にかちりと噛み合った歯車によって自分たちの出会いはほんの少しだけ早まった。


「驚いたのは俺も同じだな。まあ出会ったその時に惹かれたのは今も昔も変わらなかったが」


 予想外の言葉に思わず「え?」と聞き返す。
 こちらの反応にクロウは緩やかに口の端を持ち上げた。


「それが恋だと自覚したのはもっとあとだけどな。振り返って考えてみると、惹かれたのは今も昔も初めて会った日だった」


 確かに、クロウは出会った時から好きだと言っていた。そこについて詳しく聞いたことはなかったけれど、突如知らされた事実に顔が熱くなるのを感じた。


「……クロウは、いつ自覚したんだ?」


 リィンの質問にクロウはきょとんとした表情を浮かべた。
 程なくして、小さく笑みを零す。


「お前の笑ってる顔が見たいとか、お前と一緒にいたいとか。そういうことばかり考えるようになって、気づいた時には落ちてた」


 恋ってそういうもんだろと言ってすぐに「お前しか好きになったことねぇけどな」と笑った。なんとなく、リィンにもクロウの言おうとすることは分かる。
 長い時間、この地の守り神として人々を見守ってきた。自分自身の経験は少ないけれど、それでもこの気持ちが恋であることはもう自覚している。それこそ、きっかけは目の前にいる恋人だ。


「俺の世界を変えたのは、いつだってお前だぜ?」


 真っ直ぐに見つめる赤紫の瞳にとくんと心臓が音を立てる。
 クロウは自分よりも前に恋心を自覚していたはずだが、どうやってその気持ちを隠していたのだろうか。それとも、こちらが気づかなかっただけなのか。
 でも、それを言うのなら。


「俺の方こそ、クロウのお陰で世界が広がった」


 もしもあの時、出会っていなかったら――なんて考えられないくらい、リィンの生きてきた道にはクロウが関わっている。


「クロウと出会えてよかった」


 彼が手を引いてくれなければ森の外の世界を知らなかった。あの頃も今もクロウには多くのものをもらっている。
 だから自分も少しでも返せていたらいいと思うけれど、多分それは心配する必要のないことなんだろう。一緒にいればなんとなく分かる。だからきっと、これでいいんだと思う。お互いが大切で特別なことは、とっくに知っている。


「……本当、変わらないよな」


 優しく細められた瞳がこちらを映す。
 柔らかな声音にリィンもまた口元を緩める。


「クロウだって変わらないだろ?」

「変わったことも色々あるが、それを言ったらお前の方がよっぽどか」


 そういう意味での変化であれば確かに少なくはないかもしれない。クロウにしたって高校を卒業して大学生になった。リィン自身も今はクロウと一緒の大学に通っている。
 これから先もそういった変化は幾つもあるだろう。もっとも、クロウが言っているのは生きる世界が変わったリィンのことなのだろうけれど。


「俺は今、幸せだよ」


 元より承知の上で使った力。大したことではない、といったらクロウは否定するだろうけど後悔なんてない。それは千年前のクロウにしたって同じことがいえるのだろう。
 だからこそ、ちゃんと伝わっているとも思う。平和な世界で一緒にいられる今が幸せだという、この気持ちも。


「……なあ、いつか改めて約束させてくれ」


 今度は待たせないから、と続けられたそれが千年という年月のことを言っているのだとすぐに気がついた。


「待ってるよ、いつまでも」


 あの日から千年、待っていたのは間違いないけれど待たされたなんて思っていない。いつかくる未来を、彼との約束を信じていたから。
 今もその心に変わりはない。そう遠くない未来にその日はやってくるのだろうけれど、これもリィンの本心だ。


「ありがとう、クロウ」

「まだ何もしてないだろ」

「いや、クロウには色んなものをもらっているから」

「そこはお互いさまだろ。ま、気持ちは受け取っておく」


 こちらの気持ちを汲み取ってくれたことに「ありがとう」と口にしたら「ったく、お前は」と目の前の恋人は笑う。そんな彼につられるようにリィンの頬も緩む。

 彼といるとあたたかくて、幸せで、胸が満たされる。
 いつか、その日がきた時には自分も同じものを返せるようにしよう。そう密かに決意をしたのは、リィンにとってのクロウも唯一無二のかけがえのない人だから。








またひとつ、未来へと続く約束を交わす