「クロウさん」
人気の少ない屋上でのんびりと過ごしていたところで名前を呼ばれた。遠い記憶より幾らか低くなった声は故郷を離れていた時間を実感する。
「もう戻ってきたのか? たまの帰郷くらいゆっくりしてくりゃあいいのによ」
「十分休んできましたよ。クロウさんこそ、たまには帰ったらどうですか?」
「教官がみんな出払うわけにはいかないからな」
一年が終わり、新たな年を迎える年末年始。基本的に休みのない士官学院でもこの一週間は帰郷が認められており、現在は大半の生徒がこのリーヴスを離れている。
しかし全員が全員、実家に帰るわけではない。そのため教官たちは皆リーヴスに残っていた。尤も分校長からはそなたらも好きにするといいと言われていたのだが、残っている生徒もいるからと結局誰一人として故郷に戻らなかった。
実家が近いトワはまだしも、リィンはいいのかとトワも含めて尋ねたが本人の意見は変わらなかった。クロウといたいんだ、というのは後で二人になった時に聞いた話だ。寂しそうな笑顔を浮かべた友の頭を撫で、二人で過ごした年越しは記憶に新しい。
「それはそうですけど、言い訳にはしないでくださいね」
言われて顔を上げると、琥珀の瞳がこちらを見つめていた。どうやら今はもう、適当に流させてはくれないらしい。だがそんな弟分の言葉にはこちらへの気遣いも含まれているのを感じた。
「ま、落ち着いたらそのうちな」
帰れない絶対的な理由はない。だが帰りづらい理由はある。
あの日、もう戻ってくることはないだろうと振り返った故郷は帝国に併合されたことで随分と変わった。偶然にも帰郷することになった特別実習は懐かしくもあったが、どこか後ろめたい気持ちもあったことは否定できない。変わってしまってもジュライが平和であることに変わりはない。誰よりもこの街を愛していた祖父は、ここが戦火に巻き込まれることを望まない。それだけは分かっていたから。
「クロウさんのこと、心配している人も多いですよ」
「俺がジュライを出たのなんてもう九年前だろ。元市長の孫なんてみんな忘れちまってるよ」
「忘れていたら俺はトールズに入学していなかったと思いますよ」
「……本当、お前は物好きだよな」
忘れちまえばよかったのに、と呟くと忘れられるわけがないと返される。しかし「今までどれだけ巻き上げられたと思ってるんですか」と言えるようになったあたりは成長しているのだろう。
当然こちらは「何のことだろうな」と知らない振りをする。実際、ミラを寄越せと巻き上げた覚えはない。軽く溜め息を吐いたスタークも今更それを取り立てる気はないのだろう。というより、具体的な額は互いに覚えていない。今となってはそれも遠い過去の思い出だ。
「でも、クロウさんを探している人がいるのは本当ですよ」
さらっと言われたそれに肩を竦める。
「それもお前だろ」
「俺だけじゃないですよ」
ダチや知り合いも多かった、といっても全て九年も前の話だ。九年も会わなければ忘れているヤツの方が多いだろう。あっても何かの拍子にふと、そういえば昔そんなヤツもいたなと思い出す程度だ。
そう思ったのだが、スタークはポケットから何かを取り出すとそれをこちらに差し出した。
「クロウさんに渡して欲しい、って頼まれたものです」
見たところそれは、どこにでも売っているようなごく普通の封筒だった。「俺に?」と疑問を口にしながらも差し出されたそれを受け取って引っくり返してみるが、宛名と同様に差出人の名前もなし。だが、スタークを通して手紙を届けさせたということは自分たちのことを知っている誰かからのものだろう。
ちら、とスタークに目をやるがどうやらそれ以上言うつもりはないらしい。不思議に思いながらも封を開け、取り出した手紙を広げる。そして、目に飛び込んで来た字に思わずこれを届けた本人を見た。
「お前、これ……!」
達筆で、けれどどことなく癖のあるこの字をいつも傍で見ていた。こんな風に書けるように、何度もペンを握って紙と向かい合ったこともあった。
「九年前、クロウさんのお祖父さんが預けていた手紙だそうです」
一目見て気が付いた差出人。けれど有り得ないはずのそれはスタークの一言で解決した。それから再び手に持っていた手紙へと視線を落とす。
確かに、読んでみるとそれは未来の俺に向けて書かれている手紙であることが分かった。元気にしているかという挨拶から始まり、これを読むころには私はクロウの傍にはいないのだろうと続けられた手紙には謝罪と、それ以上に自分のことを気遣うメッセージが綴られていた。
自分一人で抱えようとしないこと、無茶なことはしてはいけない。時には人に頼ってもよいのだと、唯一の身内はしっかりと俺のことを理解していた。
ずっと一緒に暮らしていたのだから当然といえば当然だが、まるで全て見透かしているかのような内容に正直驚いた。
「クロウさんが二十歳になった時に渡して欲しい、って頼まれていたそうです」
「…………そうか」
誰よりもジュライを愛していた祖父。その祖父と、祖父が愛する故郷が好きだった。同じだけ、いやそれ以上に祖父も俺のことを可愛がってくれていた。
あの日、祖父さんは言っていた。心配を掛けないように強がった俺に無理はしないようにと。そんな俺が大丈夫という言葉ほど信用できないものだと実感するようになったのは、それから数年後。士官学院で二年目の春を迎えてからのことだ。
「これ、お前の両親が預かっててくれたのか?」
「いえ。近所にあった宿酒場のこと、覚えてますか? そこに顔を出した時に昔クロウさんとよく遊んでたよなって話になって」
あの店主も変わっていないんだなと思いながら聞いた話は、想像以上に大きな話だった。俺に内緒でこの手紙を用意した祖父は、俺もよく知っている秘書の女性にこの手紙を預けたらしい。最後まで祖父についてきてくれたその人を祖父も信頼していたんだろう。彼女は祖父に頼まれて九年もの間、ずっと手紙を保管してくれていたそうだ。
本来なら俺が二十歳になる時、つまり去年この手紙を渡したかったが十三の時に故郷を出た俺の居場所は分からなくなっていた。誰にも言わず故郷を出たのだから当たり前だが、それでも彼女は前市長との約束だからと俺の居場所を探してくれたという。そうした中でスタークが俺と仲が良かったという話になり、そのスタークが帰郷した時に話を聞いていた宿酒場の店主が俺の居場所を知らないかと尋ねた。
「みんな、クロウさんのことを心配してましたよ」
スタークに聞いたのも駄目元だったらしいが、色々あった末に分校の教官を勤めることになったことを分校生であるスタークは知っていた。そこからあれよあれよという間に話が進み、彼女から手紙を受け取ることになったそうだ。
どうやらその時に俺のことを色々と聞かれたらしいが、要領のいい弟分のことだからその辺は上手いことやってくれただろう。
「今度顔を出せって、伝言も預かってきました」
「それ、絶対って言われたんじゃねーよな」
「絶対、って言ってましたよ」
なんとなくそんな気はしていたが予想通りらしい。こっちにも都合があるなんて言っても元市長に顔を見せに来るくらいしろと言われそうなものだ。
「じゃあ今度行った時は秘蔵の酒でも出してもらうとするか」
「クロウさんも変わりませんね」
故郷に戻ったらこの九年のことをあれこれ聞かれそうだが、それについては仕方がないだろう。全てを正直に話すことはできないけれど、元市長を今でも忘れずにいてくれる人たちに元市長の孫としての礼儀は通す必要がある。それがこの手紙を俺まで届けようとしてくれた人たちに対する最低限の礼儀だ。
「何だったらリィン教官と一緒に行ったらどうですか?」
そう考えていたところへ不意に挙がった名前に「唐突だな」と言えば「そうですか?」と弟分は笑う。リィン教官なら喜んで付き合ってくれると思うという意見には同意できるが。
「……俺とあいつはただの同僚だぞ?」
「分かってますよ」
本当に分かっているのか、とは突っ込まない方がいいのだろう。実際はただの同僚というわけでもない。藪蛇はつつくべきではない。
そう判断した俺は手紙を封筒へと戻し、上着のポケットにしまった。
「ありがとな。ここまで届けてくれて」
まさか今になって祖父さんから手紙を受け取るなんて思いもしなかったが、祖父さんらしいなとも思う。茶目っ気があって、みんなに慕われていた元市長。そんな祖父さんが最後に残していた悪戯。
あれから九年が経ったというのに俺はまだまだ祖父さんには敵わないようだ。なんだか一生敵わないような気もしてくるが、そこは弟子として乗り越えなければならないところだろう。実に大きな壁だが、そうでなくてはおもしろくない。
手摺りから背を離して歩き始めると「クロウさん」とスタークが呼ぶ。
「俺ともまた、一緒に行きましょうね」
「ああ、そのうちな」
いつか、故郷に帰ろうと思える日が来るのか。そう思ってたんだけどな、と故郷と変わらない空を背に片手をひらりと振って屋上を後にした。
こんなものを受け取ったら帰らないわけにもいかない。祖父さんに手紙の返事を伝えに行く必要もある。呆れられたり怒られたりしそうなものだが、それでも聞いて欲しい。それが、俺の選んだ道だから。
その時には友や弟分と一緒に故郷を歩くのも悪くない。多分どっちも誘えば付き合ってくれるだろう。だからいつか、そう遠くないうちに故郷を訪ねよう。
(その前に、あいつには話すか)
リィンならきっと、話を聞いてくれるだろう。何かと人のことを気にするあいつのことだ。それこそ、ジュライに行こうと誘われるかもしれない。
もしリィンと一緒にジュライに行くことになったら色んなところに連れて行ってやりたいな、と考えたら自然と頬が緩んだ。そして、いつまでも自分を想ってくれる祖父に胸の内でそっと感謝の言葉を述べた。
海風の便り
それは懐かしい故郷の香り