風に乗って運ばれてくる潮の香り。ここは……と辺りを見回してみると、そこには自分がさっきまでいたはずの場所とは全く違う景色が広がっていた。
あまり見慣れない場所――ではあったが、その景色はリィンの頭にある記憶と合致した。どうしてこの場所に自分がいるのだろうか、と思ったその時。きらり、視界の端で揺れた何かにリィンは反射的に振り向いた。
「君は…………」
思わず零れた声に反応するように銀糸が揺れる。それからリィンを映したのは赤紫の瞳だった。
「お兄さんもこの先に用事?」
ふっと口元を緩めて少年が問う。まだ幼さの残る顔で笑う少年につきり、小さな痛みがリィンの胸に走った。そのせいで一瞬、反応が遅れる。
「あ、ああ」
「そうですか。今日は晴れてよかったですね」
本当は用事なんてないけれど、何とか頷いたリィンを少年は特に疑うことはしなかった。今日は、という言い方に何気なく近くの木を見ると微かな水滴が葉に乗っていることに気が付く。どうやらこの辺りは昨日、雨が降ったらしい。
だから少年も今日、ここへ来たのだろうか。それ以上に気になることはあるのだが、流石に直球で聞くことはできない。そこでリィンは一先ず適当な話を振ることにした。
「ここにはよく来るのか?」
「俺はたまに。今日は話したいこともあったから」
雨も上がって丁度良かった、と少年が言う。
その表情にまた、僅かな痛みが胸を突く。何でもないような笑顔の裏に隠された感情。どうしてか、リィンにはそれがすぐに分かってしまった。
――いや、分かるだけの理由はちゃんとある。
そういう友人を知っているのだ。ポーカーフェイスが得意なその友人は様々な感情を隠し、背負って、一人で生きようとしていた。最初は気付くことができなくて、結果的に大切なその人を喪いかけたこともあった。
けれど、今はもうそんな友人の隠した本音にも気が付けるようになっていた。故に、少年が隠した感情にもリィンは気付いた。
「じゃあ俺はこれで」
「待ってくれ!」
そして、気が付いたのなら立ち去ろうとする少年をそのまま行かせることなどできなかった。
反射的に引き留めると、一瞬大きく開かれた赤紫が不思議そうにリィンを映した。だが、少し考えるような仕草を見せるた少年は徐に口を開いた。
「もしかして、俺に用事ですか?」
予想外の切り返しに「え」と驚きに声が零れる。
確かに、リィンが少年を呼び止めたのは彼とまだ話したいことがあったからだ。しかし、リィンは少年が言った言葉の意味を理解しかねた。
だが、そこで思い出した。かつて友人が話してくれた、この街のことを。
「――なんて。お兄さん、この先に用事があるっていうのは嘘でしょ? 道に迷ったなら街の入り口でよければ送りますよ」
打って変わって明るくなった少年の声。そこにはさっきほんの僅かだけ見せた雰囲気は何一つ残っていなかった。そのあまりに早い変化にリィンは戸惑う。
どうして、とは聞けない。それならば何が正解だろう。いつもは、思ったままに行動してみるのだけれど。
「…………クロウ」
こういう時、彼ならもっと上手くやるのかもしれない。
そう思いながら呼んだ名前に少年が固まった。丸くなった赤紫を見つめたままリィンはゆっくりとその場に腰を落とす。
「ここには俺しかいない。だから、無理しなくてもいい」
いつから、そうだったのだろう。リィンより二つ上の友人も昔はそうだったのか。それともやはり、これが昔の彼なのか。
何故、違う時間を生きている自分たちの時が交わったのかは分からない。もしかしたらこれは全部夢で、目の前の少年と彼は何も関係ないのかもしれない。けれど、リィンはこの少年が彼であると本能的に悟っていた。
「……何で、俺の名前を」
驚きと困惑。記憶より幾分か高い声とともに現れた幾つかの色。やっと、少年が他の表情を見せた。たったそれだけのことにリィンの頬は僅かに緩む。
「君が俺の大切な人にそっくりだから」
「だからって」
「いや、君が俺の大切な人だから」
言い直したリィンに少年――クロウは困ったような表情を浮かべたまま青紫を見つめた。そんな幼さの残る友人にリィンは小さく笑い掛けた。
「信じなくてもいい。でも君にとって俺は他人で、もう会うこともないなら建前もいらないだろ」
それ故にクロウも人当たりのいい顔をしていたのだろう。だが、それなら逆も有りなはずだ。そういうこと自体をあまり良しと思ってはいないだろうけれど、失礼なことをしたって一度きり。気にすることはない――なんてリィンだって普段は考えられない。
だけど、今だけは別だ。リィンがこの少年にできることは限られている。それでも放っておくことなんてできないし、放っておけるわけもない。どんなに小さなことでも力になりたかった。
赤紫の瞳が揺れ、動く。
その間、リィンはじっとクロウの行動を待った。待つべきだと、思った。それでも彼が隠すことを望むのなら、その時は謝って別れよう。けれど、もし。
「…………アンタ、お節介とか言われないか」
どれくらいの時間が経ったのか。唇を薄く開いて、閉じて。何度かそれを繰り返したクロウが漸く口を開いた。若干砕けた口調で尋ねられたそれにリィンはきょとんとして、首を傾げる。
「いや、あまり言われたことは――」
「じゃあお人好し」
――本当にお人好しだよな。
頭の中で再生された声。呆れたようにそう言われたのは一度や二度の話ではない。そういう彼も大概なところはあるのだが、否定が遅れたそれに「成程な」とクロウは呟く。
「別に無理はしてねーよ。ちゃんと、全部分かってる」
「……そうか」
「ま、ちょっと居づらくはあるけどな」
ジュライ市国――おそらく今はジュライ特区と呼ばれるこの場所で起こった様々な出来事。クロウが濁したそこは追求するべきではないなとリィンは相槌を打つだけに留めた。
「……さっき、アンタは俺のことを大切だって言ったよな」
やがて問い掛けられたそれに静かに頷く。クロウは大事な仲間で悪友。また同僚であり相棒であり、何者にも代えがたい大切な存在だ。
もちろんそこまでは言わないけれど、ゆらゆらと彷徨う赤紫は何を考えているのだろう。ただ、これが夢でも幻でも。もう間違いは犯したくない。だからリィンは何やら考え込んでいる様子の少年に徐に口を開いた。
「今の俺にできることは、こうして君の話を聞くことだけだ」
クロウが今、戸惑っている一番の理由はリィンにある。いきなり現れて突拍子のないことを言われたら誰だって怪しんだり疑ったりするだろう。
しかし、クロウはリィンに対して困惑はしても警戒心はあまり向けていない。それほど混乱しているのかもしれないが、一度下ろした瞼をゆっくりと持ち上げたリィンはまだ幼さの残る少年を真っ直ぐに映す。
「でももし、俺の話を聞いてくれるのなら。クロウは一人じゃないってことを忘れないでくれ」
大好きだったお祖父さんを喪って辛い気持ちは、リィンにも分かる。本当の意味で分かっているとはいえないかもしれないけれど、大切な人を喪いかけたことは確かにあるのだ。
そのことにどれだけの人たちが悲しんだか。今の彼はもう知っているが、ここにいる彼はまだ知らないだろうから伝えたい。クロウが捨てようとしたものは全部、クロウを捨てることなどできなかった。何より、本人だって捨てきれてなんかいなかったのだ。あの日、リィンがアイゼンガルド連峰から無事に故郷へ帰ることができたのは――。
ぴゅう、と潮風が肌を撫でる。その瞬間、リィンの周りには淡い光が満ち始めた。
風が運んできたこの光がタイムリミットであることをリィンは何となく理解した。また、それは目の前の少年も同じだったらしい。
「帰るのか?」
「そうみたいだ」
長々と引き留めてしまったことを謝罪すると「何でアンタが謝るんだよ」とクロウは呆れたように笑った。その表情にぱちぱちと瞬きをしたリィンは程なくしてふわっと頬を緩めた。
少しでも、何かを伝えることはできたのだろうか。それなら良かった、と思いながらリィンは続ける。
「立ち止まるのも悪いことじゃないと思う。だけど、たまには周りのことも思い出してくれると嬉しい」
「それ、アンタが言うのか?」
「え?」
「何でもねーよ」
先に逃げられて意味を聞くことは叶わなかったが、鋭い彼はこの短時間で何かに気が付いたのだろうか。クロウを知っているリィンが少年に気付いたのとはまた別の、何かを。
「なあ」
ふわふわと小さな光の玉が宙を舞う。溢れる光が徐々に大きくなっていく中で届いた声に顔を上げると、真っ直ぐな赤紫にぶつかった。
「お人好しもいいけど、あんま他人の心配なんかすんなよ」
「俺にとって、クロウは他人じゃないよ」
「なら要らない心配すんな」
要らない、と言い切ったクロウに一瞬心がざわつく。しかし、クロウの瞳に浮かぶ色は予想に反してあたたかかった。
そして思い出す。いや、とっくにそのことに気付いてはいた。だがこの時、それをより強く感じた。そう、この少年と彼が同一人物だと。
「アンタが傍にいてくれるんだろ?」
ふっと口角を持ち上げて少年が言う。
信じなくてもいい、と話したそれを少年はいつから信じていたのか。帰るのかと聞いてきた時にはもう、リィンが本来ここにいるべき存在でないことに気付いていたのだろう。
どうして信じてくれたのかと聞く時間は最早残されていない。だが、そのことにリィンの胸はじんわりと熱くなっていく。
「俺のことより、早く帰ってやれよ」
本当はもっと、目の前の少年に伝えたいことがある。これだけの時間では全然足りない。この限られた時間でリィンがクロウに伝えられることは。
「……ああ、そうだな。けど」
「言っただろ。分かってるから」
最初に言ったのとは意味を変えたその言葉にリィンは微笑みを浮かべて頷いた。そっと細められた瞳を見れば、少年の言おうとしたことを理解するには十分だった。
――ありがとう。
思いが重なった瞬間、一際大きくなった光に包まれて全ては泡沫のように消えていった。しかし、このあたたかさだけは消えることなく、優しい余韻を心に残した。
海の見える丘で出会った少年