ある日、突然赤い糸が見えるようになった。
 赤い糸というのは文字通り、赤色の糸だ。太さは毛糸ほど。誰かの小指に繋がった糸は別の誰かの小指に繋がっている。
 その二人が近くにいるとも限らなければ、糸が綺麗に真っ直ぐ繋がっているとも限らない。でも身近にその相手がいる人たちはとても幸せそうに笑っていた。だからきっと、複雑にこんがらがっている糸の先にも大切な誰かがいるのだろう。


(これも、どこかの誰かに繋がっているんだろうか)


 全ての人に繋がっている糸は、当然のようにリィンの小指にもちょこんと巻き付いていた。お伽噺では運命の赤い糸たるものが登場することがあるが、それが空想上のものではないのだとリィンはこの年になって初めて知った。
 だが、この指に巻かれている糸はどこまで続いているのだろう。気になって一度だけ自分の糸を手繰ってみたのだが、巻き取った糸が店先に並ぶ毛糸玉ほどの大きさになったところで諦めた。まだ会ったこともない人と繋がっているのか、それとも知っている誰かと繋がっているのか。分からないけれど、気になることといえば――。


「今日の依頼は終わったのか?」


 聞こえてきた声に顔を上げると「よお」と緑の制服に身を包んだ元クラスメイトが片手を上げた。


「ああ。さっきトワ会長に報告してきたところだ」

「そりゃあご苦労なこったな。しかし、いつもよくやるよな」

「会長ほどではないさ」

「いやいや、どっちもどっちだろ」


 たまには一日ぱーっと遊べばいいのによと言いながらクロウはリィンの隣に腰を掛ける。その小指にもやはり、赤い糸がある。
 今の二年生たちはアンゼリカに女子生徒を全部持っていかれたのだと以前聞いたことがあるが、そんなクロウにも赤い糸で結ばれている相手がいる。もちろん他の二年生にしてもそうだ。この終わりの見えない糸の先では、誰かがこの友人を待っている。そう言ったら、クロウは喜ぶのだろうか。


「何なら次の自由行動日は俺のオススメの場所に連れていってやろうか?」

「……競馬場じゃないなら考えるよ」

「お前は人を何だと思ってんだよ」


 違うのかと問い掛けたら偶々時間が空いたら仕方がないだろうと返された。目的をカモフラージュしているだけに聞こえるのは気のせいではないだろう。


「ならとっておきの場所に連れていってやるよ」


 こちらの疑念を感じ取ったのか。続いてクロウはそのような提案をした。


「とっておき?」

「それは当日になってからのお楽しみだ」


 とりあえず朝一で列車に乗るかと言い出した友人にどこまで行く気なんだと突っ込めば、それを今言ったらおもしろくないと楽しげに口角が持ち上げられた。
 どうだ、と尋ねるクロウのさりげない気遣いにじんわりと胸があたたかくなる。こういう優しさに、女性はきっと惹かれるのだろう。そう思うとほんの少しだけ、胸が苦しくなるけれど微かな痛みには気付かない振りをした。


「それじゃあ会長に相談してみるよ。依頼が多いようだったら別の日にお願いするかもしれないけど」

「おう。まあトワなら二つ返事で頷くと思うがな」


 確かにあの優しい会長に断られる光景は想像できない。仮に生徒会メンバーだけでは手が回らないほどの依頼があったとしても一日くらい平気だと送り出してくれそうだ。こっちのことは気にしないで、と笑顔で頷くトワの姿が脳裏に浮かぶ。
 そう考えると次の自由行動日の予定はこれで決まりかもしれない。何気に誰かとトリスタの外へ遊びに出掛けることも初めてで楽しみだが、それ以上にクロウと遊びに行くことが楽しみで仕方がない。


(今はまだ、想うことくらい許されるだろうか)


 だけど、嬉しい気持ちと同時にリィンの頭には小さな疑問が過る。視界の端にはちらっと例の赤い糸が映った。
 運命の糸の先には、運命の相手がいる。いずれ結ばれるべき誰かがこの友人にもいる。
 その邪魔はできないし、幸せの邪魔をするつもりもない。けれどこの気持ちを簡単に消すこともできないのが現実だ。だからせめて、この想いを胸に秘めることだけは許して欲しい。できればその相手が現れてからも。いつからか生まれたこの気持ちを忘れるなんてできそうにないから。


「なあ」


 朝より長くなった影へ落ちていた視線を上げると、銀色の髪が夕焼けに照らされて煌めいた。その眩しさに微かに目を細めて間もなく、聞き慣れた低音がリィンの耳に届いた。


「運命、って信じるか?」


 ぱちり。瞬きをして友の横顔を見つめる。程なくして赤紫の双眸に自分の顔が映った。


「……信じているってほどじゃないけど、そういうのもあるんじゃないか?」


 この糸が実在するくらいには。
 思って、それを振り払うようにリィンは同じ問いを本人にも投げ掛けた。


「クロウは信じてるのか?」

「いや、全然。何が運命だって思ってたぜ」


 全てが決められているとしたら、今ここで自分たちが話していることも女神が定めたことだというのか。そんなのやってられないだろ、とクロウは運命を否定した。
 流石にそこまでではないんじゃないかと苦笑いを浮かべるが、分からないだろうとすぐさま返された。ここまで言われるのはちょっと意外で、何か嫌なことでもあったのかとリィンの中で小さな疑問が生まれる。何か、で真っ先に賭け事が出てきてしまったのはこの友人がギャンブル好きだからだ。


「お前は運命が理不尽だと思ったことはねぇのか?」

「俺は別に……」


 そこまでのことはない、と言うまでに僅かな間があったことにクロウなら気が付いただろう。じっと見つめる赤紫から逃げるより早く、その瞳は空を映した。


「俺は思ったことあるけどな」

「え?」

「決められた運命なんて変えてやりたいって」


 空を見つめるクロウの横顔は、言葉とは対照的に澄んだように明るかった。
 違う。クロウは何か、もっと大切なことで運命を変えたいと思ったことがあるんだ。その内容まではやっぱり分からないけれど、抗いたいと思うほどの何かが――。

 かち、と瞳がぶつかった。それからふっと頬を緩めたクロウにとくんと心臓が鳴った。


「ま、今も運命に全てが決められてるなんて思ってねぇが、運命っていう考え方もそれはそれでありなのかもしれねーな?」


 語尾を少しだけ上げたクロウが手を伸ばして触れたのは、リィンの右手。持ち上げられた手と一緒に赤い糸が宙で揺れる。その糸の先、リィンの小指を掴んだクロウが優しく笑う。


「好きだ」


 どくん。一際大きな音が心臓から身体中に響いた。


「お前に運命の相手がいるとしても、その前に奪ってやるって思ってた」


 そこへ続けられた言葉に別の意味でも心臓が跳ねた。運命の相手、それは頭の中で自然とこの糸と結び付く。
 しかし、この糸は誰にでも見えているわけではない。リィン自身も見えるようになったのは最近だが、それとなくクラスメイトたちに聞いてみた結果は予想通りだった。


(そういえばあの時……)


 本来は一学年上なはずのこの友人はいなかった。けれどまさか、と思ったその時。リィンはこの場に起こったある変化に気が付いた。


「だが、運命は決められているんじゃなくて、その結果を運命っていう言葉に言い換えてるのかもな」


 ずっと見えなかった糸の先。どこまで続いているのか検討もつかなかったそれがいつの間にか見えるようになっていた。
 それも二つ同時に――いや、自分たちの間で揺れている一本の糸にリィンの目は釘付けになった。


「リィン」


 ゆっくりと、顔を上げると熱い瞳とかちあう。どくん、どくんと五月蝿いほどに心臓が鳴っている。でも、真っ直ぐに見つめる赤色から目が離せなかった。


「お前は?」


 正直、突然の出来事に信じられない気持ちは大きい。ついさっきまで、たとえ気持ちが通じなくともこの想いを抱くことだけは許して欲しいと願っていたのだ。自分に都合のよすぎる展開にこれは夢ではないかと錯覚しそうになる。
 だけど、何よりもクロウの目がこれは夢ではないのだと告げていた。赤い糸なんかよりずっと、はっきりとした想いの形がそこにあった。


「…………俺も」


 ゆらり、輪のようになった糸が風に靡く。緩やかに揺れる糸を横目に微かに手を動かすと、クロウは軽く手を開いた。そこへリィンは自分の指を絡める。
 ぎゅっと握った手は、あたたかい。そのあたたかさにまた、胸がいっぱいになった。けれどまずは、そう思ってゆっくり息を吸って、吐く。そして。


「俺も、クロウが好きだ」


 告げた想いを「そうか」と受け取ったクロウの手が少しだけ強まる。ああと答えたリィンの手も同じだけ、強くその手を握り返した。
 絡む指先から夕日を浴びて深みの増した赤が二人を繋いだ。







これが運命でもそうでなくても、俺たちはきっと惹かれていた

(だって、糸が見えるより前から俺は――)