「ここは……」
気が付くとそこは見慣れない場所だった。
――いや、見慣れない場所ではあるが見覚えはある。帝国随一の温泉郷ユミル、その先にある峡谷道だったか。
視界に映った景色から現在地を把握したクロウは次いで空を仰ぐ。青く澄んだ空はいつも通りだが、そもそも何故自分はこんな場所にいるのか。
(大体、ユミルなら俺より……)
そう思ったところで近くに人の気配を察知し、そのまますぐに魔獣の気配を探ったのは条件反射だった。しかし、どうやらそちらの心配なさそうだと分かってクロウは小さく息を吐く。こんな山奥まで来られるのならそれなりに武術の心得はあるのだろうが、旅行客なんかがうっかり迷い込んだ可能性もゼロではない。
どのみちここに留まっていたところで状況は変わらない。それなら様子を見るついでに動いてみるかとクロウは歩き始める。ざくざくと音を鳴らしながら進んだ先で見つけたものは。
(……夢か、現か)
普通に考えれば、何の前触れもなく突然鉄道でも半日以上掛かる場所にいたというのもおかしな話だ。その時点で普通ではないし、これは夢だと結論付けてしまってもいいかもしれない。
けれど、夢でなければ有り得ない状況でクロウは自分の視界に飛び込んできた小さな背中から目が離せなかった。その姿はどことなく見覚えがあるが、こんなにも小さな背中をクロウは知らない。つまりここでも現実でないことがはっきりしたわけだが、最早そんなことはどうでもいいかとまた一歩、足を進めた。
「よお。何してるんだ」
夢だろうと現実だろうと、今やるべきことは一つしかない。ゆっくりと近付いて小さな背中に声を掛けると、びくっと少年の肩が揺れた。気配は消していなかったのだが、他に人がいるとは思っていなかったのだろう。勢いよく振り返った青紫は大きく開かれていた。
見慣れた色にそっくりなその瞳に宿る、見慣れない色。でも、やはりそれはクロウの知っている青紫と同じ色をしていた。
「悪ィ、驚かせちまったか」
「あなたは……?」
「ただの通りすがりだ」
当たり障りのないように答えたつもりだが、こんな場所をたまたま通り掛かるというのは少々無理があったかもしれない。
とはいえ、これが非現実的な状況であることを考えればその程度は取るに足らないことだろう。早々に切り替えたクロウは困惑気味の少年にふっと優しく笑みを浮かべた。
「それよりどうした?」
「え?」
「ここで会ったのも何かの縁だろ。悩みがあるならお兄さんに言ってみろよ」
少年がこれだけで素直に答えるようなタイプではないことは知っている。だから見ず知らずの他人の方が話しやすいこともあるだろ、と付け加えたのだが彷徨う視線を見るにまだ言いかねているらしい。
けれどそれも当然の反応だ。見ず知らずの他人に警戒心を向けるのは当たり前のことである。警戒することはない、と口にしたところで怪しさが増すだけだろう。
ともあれ、まずはそれをどうにかするべきだ。何かいいものがないかとクロウはポケットに手を突っ込んでみる。そう都合良く何かがあるわけもないが、話のきっかけにでもなりそうなものがあれば十分だ。
そう思ってがさごそと手を動かしていると、こつんと指先が小さくて硬い何かにぶつかる。これは――と取り出してみたそれは、どこにでもある普通のコインだった。
(……つくづく縁があるな)
いつかは持ち合わせていなかった五十という数字の書かれたそれ。かつてはとある後輩から借りたそれが今はクロウのポケットの中にちゃんと入っていた。
これも何かの巡り会わせか。まあ丁度いいかとクロウは慣れた動作で手のひらのコインを親指と人差し指で挟んで持ち上げた。
「じゃあまずはお近づきの印に一つ手品を見せてやるよ」
数年前、という表現が今この場で正しいかは分からない。けれどクロウにとっては数年前のライノの花咲く季節にこうして簡単な手品を見せたことがあった。まだ右も左も知らないような、後に唯一無二の相手となる新入生の前で。
あの時と同じように青紫の視線は左手のコインへと注がれる。そのことに自然とクロウの頬は緩んでいた。
「よーく見とけよ?」
チャリンと高い音を鳴らしてコインが宙を舞う。その落下点で交差する両手。
「さて問題。右手と左手、どっちにコインがあると思う?」
かつて、深紅の制服に身を包んだ少年は左手だと答えた。しかし、これはどちらの手にコインが入っているのかを当てるゲームではない。
最初にも言ったが、クロウが少年に見せたのは手品だ。手の中に五十ミラがあったらそれはもう手品ではなくなってしまう。今日はバッグもないが一面を覆う白い海にその音は溶けた。
さて。じーっとコインの行方を追い掛けていた少年が出した答えは。
「左手、ですか?」
「……残念、ハズレだ」
同じ答えに辿り着いたのは偶然か必然か。だがよく見ていたのは確かだろう。
開いた手の中にコインがないことを確認した少年に次いで反対の手も見せる。もちろん、そこにコインはない。消えたコインにぱちぱちと瞬きを繰り返す少年につい笑みが零れた。
「どうだ。少しは元気になったか?」
「あ……」
問い掛けると、少し気恥ずかしそうにしながらも「ありがとうございます」と少年ははにかんだ。それを見てクロウは密かにほっと胸を撫で下ろす。
辛そうな顔はあまり見たくない――なんて言えるような立場ではないけれど、だからこそ余計にそう思う。再会した友にこっそりと立てた誓いは今もしっかりとクロウの胸の奥にしまってある。
二度と、こいつを悲しませない。
懐かしい温もりを腕に抱きながら誓ったあの日のことを忘れることはないだろう。下ろした瞼をゆっくりと持ち上げ、少年の表情が明るくなったのを認めたクロウはくしゃっと艶やかな黒髪を撫でて腰を落とす。
「いいか。どんなに大きな悩みがあってもお前は一人じゃない。だから何でも一人で抱えようとすんな」
この少年がこんな山奥に一人でいた理由は知らない。でも、クロウは少年によく似た友を知っていた。お人好しすぎるほどに優しくて、色んな人に頼られる反面で甘え方を知らない不器用な友人。
彼が何かと溜め込むタイプだからこの少年も同じだろうとクロウは考えた。確証はないけれど、この考えはおそらく間違っていない。そう思いながらクロウは続ける。
「お前が大切に思っている人たちはみんな、お前を大切に想ってるんだ」
迷惑だとか厄介だとか、そんなことを思う連中は少年の周りにいない。逆にどんどん頼るべきだと思われているだろう。周りに頼って、もっと甘えればいいと。
――誰よりもそう思っているのは、俺だろうけどな。
心の中でそう付け足したクロウは渓谷に流れた風の音を聞いて徐に立ち上がる。冬の突き刺さるような冷たい風、だけどそれだけじゃない。
そう感じた時、そのままなんとなく悟った。
唐突にやってきた夢か現実かも分からない、この世界の終わりを。
「…………あの」
記憶にあるより高い声に呼ばれたクロウは青紫を見る。いつの間にか、青紫の瞳は真っ直ぐにクロウを見上げていた。
「お兄さんは、いったい……?」
誰なのかと、再度少年が問う。初めに質問をした時とは僅かにその音を変えて。
二度目の質問にクロウはニッと口の端を持ち上げた。
「リィン君の未来の相棒」
え、と驚きに少年の瞳が開かれる。相棒で悪友、そして恋人でもあるとは流石に言っても信じてもらえないだろう。信じてくれ、とも言わないけれど。
「何があっても俺はお前の味方だぜ」
ふわり、淡い光が満ち始める。
これで本当にお別れだ。あまりに非現実的なことだが、やはりこの少年はクロウの知っている相手で間違いなかったようだ。
夢でも何でも、会えて良かった。願わくば、少しでもこの気持ちが伝わればいい。ちゃんとここにも、お前を想っている人はいるのだと。
「あの! 俺の相棒って……いつか、お兄さんにまた会えますか?」
「ああ。お前には沢山迷惑も心配も掛けちまうが、俺にとってお前は特別だからな」
特別、とその言葉を復唱する幼い友にクロウはそっと目を細める。
「とても大切な人、ってことだ」
赤みがかった紫と、青みがかった紫の二つがぶつかった時。淡い光が満ち溢れて雪に溶けた。
それは夢と現の狭間の、ほんの僅かな邂逅。
雪の中で見つけた姿