独特の呼び出し音に使い慣れた戦術導力器を取り出す。これに連絡が来ることも珍しいが、通常の呼び出し音でない時点で相手はある程度絞れる。
 暫く左手に持ったまま見つめていたARCUSを開いて通話ボタンを押したのは三回目の呼び出し音が鳴り終わる直前だった。


『クロウ……?』


 数ヶ月振りに聞いた声はどことなく遠慮がちだった。そのことがまず引っ掛かったが、とりあえず普通に答えることにした。


「おう。久し振りだな」

『ああ、久し振り』

「そっちはもう落ち着いたのか? 暫くは大変だったらしいが」

『初めのうちは本校も分校も慌ただしかったけど、トワ先輩や本校の教官たちの協力もあって意外と早く元の生活に戻れたよ』


 あれだけのことがあったのだから当然、士官学院であるトールズにも決して少なくはない影響があった。それについては軽く話を聞いていたが、カリキュラムの変更などもあったものの今は本校も分校もそれぞれ授業を再開しているらしい。どうやら予定より少しずれた試験も無事に終わってひと段落が付いたところのようだ。


「試験とか懐かしいな。あんまいい思い出はねーけど」

『クロウは真面目にテストを受けなかっただけじゃないのか』

「俺ほど真面目にテストを受けてたヤツなんていないだろ」


 言えば、電話の向こうで溜め息を吐いたのが聞こえた。それなら留年しないと思うんだがと呆れた後輩には「留年はしてねえよ」と返しておいたが、かといって卒業もしていないからこれ以上この話題に触れることは止めた。


「それより、何か用事があったんじゃねぇのか?」


 そろそろ本題に入ろうと切り返すとまた一瞬、リィンは返答に間を要した。


『いや、大した用事はないんだ。ただちょっとクロウがどうしてるのか気になって』


 休み時間にトワ先輩と学生の頃の話になって、というのは本当だろう。嘘を吐く理由もないが嘘を言っているようにも聞こえない。もっとも、何もないようにも聞こえなかったけれど。


「こっちも変わらずにやってるぜ。この間のレースを外したのはちっと痛かったが」

『……ギャンブルは自由だけど、程々にな』


 分かってると答えてそのまま暫く話をした後、まだ仕事が残っているからとリィンが口にしたところでまたなと短い挨拶とともに通信を切った。
 ぱたんと閉じたARCUSをホルスターにしまったところで小さく息を吐く。何となしに見上げた空はまだ青色だったが、太陽の傾き具合からして時期に赤く染まっていくのだろう。


「どうしてるか気になった、か」


 暫く会っていない友人のことが気になって連絡を取ってみるというのはよくあることだ。わざわざ勘ぐるようなことではない。
 考えすぎか、と思いかけるがとてもそうは聞こえなかったよなと先程の通信を思い出す。気にしすぎだと言われたら否定はできない。しかし、何もかも忘れたわけではないのは多分同じなのだろう。特に、あいつの場合は。

 そのまま少し考えたクロウはくるりと踵を返して歩き始めた。














「これで全部か」


 最後の一枚となった書類にペンを走らせ、机の端に詰まれた山の一番上に置いたリィンは大きく伸びをした。これで今日の仕事は全て終わりだ。
 急ぎの仕事でもないのだから持ち帰ることもないと同僚であり先輩でもあるトワには止められたが、他にやることもないからと持ち帰った仕事も片付いてしまった。本当は他にやることがないのではなく、何かをやっていたかっただけなのだがおそらくトワは気付いていただろう。無理はしないでねと声を掛けてくれた彼女もまた、今朝鏡で見た自分と同じような顔をしていたから。


(クロウに知られたら呆れられそうだな)


 ちゃんとクロウはこの世界にいる。そう理解しているのにあの日、冷たくなっていく身体を支えた感覚が忘れられない。多分、それだけはこの先も忘れることはできない。
 消えそうになる彼を繋ぎ止めて、一度きりの奇跡によって生き残った友は近くにはいなくても帝国のどこかで元気にやっているはずだ。夕方、迷いながらも出なかったらそれでいいと掛けた通信で本人の声も聞いたからそこは間違いない。


「…………流石に出歩く時間じゃないか」


 ちらっと確認した時計はまだ日付を超えてはいなかった。今年最後の日ということもあっていつもより賑やかな夜ではあるが、そうした輪の中に入る気分ではない。かといってまだ寝る気にもなれず、どうしたものかと考える。
 すると突然、聞き慣れた音が机に置いたままになっていたARCUSから鳴り出した。この音は、と思いながらリィンは通話ボタンを押す。


『よ、夕方振りだな』

「クロウ!?」


 聞こえてきた声に驚いていると『まさかこんな時間まで仕事してたなんて言わねーよな?』とクロウは笑った。こちらの状況を知るはずがないのだから冗談を言ったのは分かっていたが、見事に言い当てられたことに苦笑いを浮かべたら『嘘だろおい』とARCUSの向こうで呆れられたのが分かった。


『今何時だと思ってんだよ……って、こんな時間に連絡する方もする方か』

「まだ寝るような時間でもないしそこは気にしなくていいけど、どうかしたのか?」


 夕方の通信で言い忘れたことでもあったのだろうか。けれどあれはクロウのことが気になってこちらから連絡をしただけで、お互い何か用事があったわけではなかったはずだ。
 だけど夕方に話をしたことで言いたいことができたという可能性はあるのか、と考えたところで機械越しにクロウの声が聞こえた。


『そうそう、第Ⅱの学生寮って本校みたいに抜け出せるようになってんのか?』

「……どうして抜け出す前提なんだ。でも何で急に」

『いやな、たまたま近くにいたからよ』


 え、と声を零したリィンは然程離れていない場所にある気配に気が付いて廊下へ飛び出した。逸る気持ちを抑えながら周りに迷惑にならないように階段を下り、扉を開けると。


「よう。三ヶ月振りくらいか」


 闇夜の中で一際目立つ白銀が揺れる。目が合った瞬間、細められた瞳にとくんと心臓が音を立てた。


「クロウ……」

「さっきまで仕事をしてたらしいが、元気そうだな」


 お前もトワも放っておくとすぐ仕事を増やすよなと言いながら片手でARCUSを閉じたクロウがこちらを見る。
 その何かを探るような視線にリィンはかつて同じ学院に通っていた先輩兼クラスメイトのことを思い出した。同時に改めて思い知る。この友人が人一倍、鋭いことを。


「リィン」


 呼ばれて、顔を上げると真剣な瞳とぶつかった。そして確信した。クロウがここに来た理由を。
 開きかけた口から結局言葉は出てこなかった。言いたいことがないわけじゃない。むしろ言いたいことも話したいことも山ほどある。だけど何を言ったらいいのか、何を言えばいいのか。迷って。


「今年ももう終わるが、最後に一つ。頼みを聞いてくれないか?」

「頼み?」


 不意に投げられた問いに首を傾げる。何だろう、と思いながらも特に聞き返すことはせずにこくりと頷く。クロウが自分に頼みたいことは分からなかったけれど、何か困っていることでもあるのなら友として力になりたい。


「一分間、何も言わずに俺の好きにさせてくれ」


 程なくしてクロウが告げた頼みの意味を理解するより早く、右手を引かれてバランスを崩した。


「わっ」


 思わず声が零れたが、その体は地面に倒れ込むことなくクロウの腕の中におさまった。そのままクロウはリィンの体を強く抱き締めた。

 クロウ、と呼ぶことができなかったのは顔が見えないせいか。それとも触れ合ったその場所からとくんと心臓の音が聞こえたからか。またはそのあたたかさに触れたせいだったのか。
 ――多分、全部正解だ。
 とくとくと聞こえてくる音に、伝わるぬくもりにほっとする。生きている、と当たり前のことを感じて泣きそうになる。当たり前、と誰もが普段は意識していないそれはとんでもない奇跡によってここにある。もう二度と、触れることは叶わないと。


「ありがとな」


 ぽつり。小さな声がリィンの耳に届く。


「色々あったが、俺はお前に出会えてよかったと思ってる」


 顔を横に向けてもやはりクロウの表情は見えない。でも、見えなくてよかったのかもしれない。じんわり熱くなる胸から色々なものが溢れそうになる。


「散々心配も迷惑もかけたけど、もう俺はどこにも行かねえよ。ずっと、お前の傍にいる」


 ――いや、いさせてくれ。
 そう言ったクロウの腕が僅かに強くなった。心なしか、鼓動が早く感じる。言葉に声、全身から伝わってくるそれは紛れもない友の本音だった。

 嘘偽りのない気持ちが胸に落ちて、心が満ちる。心配は、確かに何度もした。初めて敵対したあの内戦に相克の一件、記憶を失くしていた時も。
 だけど迷惑を掛けられたなんて思ったことはない。出会えてよかったと言いたいのは俺の方だ。一緒にいたいのだって俺の方で。


「…………俺は、ずっと前からクロウと一緒にいたいと思ってたよ」


 クロウの頼み事からどれくらいの時間が経ったのか。数えてはいなかったけど、あの一分という制約は解除されたと見てリィンはゆっくりと口を開く。


「来てくれてありがとう。呆れられると思うけど、本当はクロウに会いたくて連絡したんだ」


 正直に告白したら「呆れねぇよ」とクロウは即答した。そのことに自然と頬が緩んだ。
 会えなくてもせめて声が聞ければ、でも忙しくて通信が繋がらないなら諦めようと思いながら掛けたそれにクロウは出た。隠したつもりだったけれど、その通信を聞いてクロウはここへ来てくれたのだろう。
 そんなクロウに甘えている自覚はあるが、クロウもこっちを甘やかしてくれるのだ。昔からクロウは俺に対してそういうところがある。それは。


「……なあ、クロウ」


 勘違いかもしれない、とは不思議と思わなかった。クロウは隠し事が上手いけれど、何もかもを全て隠し通せるような人間でもない。
 でもそれは多分、人間なら誰だってそうだ。どんなに隠そうとしたって分かる人には分かってしまう。そういうものなのだ。だから、今度は俺の番だ。


「好きなんだ」


 告げた言葉にとくんと心臓の音が伝わった。だけど同じだけ、もしかしたらそれ以上にこっちの心臓の音も伝わっているのだろう。しかし、それこそが誤魔化しようのない気持ちだった。


「気付いたのは最近だけど、ずっと前から好きだったんだと思う」


 それこそ、五十ミラを貸したあの時から。
 大した金額ではないと言ったそれを返された時、求めた利子は冬の空の上できっちりと返してもらった。今度こそあの時の利子代わりに、と頼んだのは俺の方だ。
 けど、その利子を返すと言って友は力を貸してくれた。五十ミラの利子分なんてとっくに返してもらっていたというのに今度こそ返してみろと言って、繋ぎ止めた後も隣にいてくれた相棒を気が付いた時には好きになっていた。気が付いて、いつからと考えたら最初の出会いまで遡ってしまったくらいに。


「クロ――――」


 呼ぼうとした声が途切れる。瞬間、口を塞がれた。先程以上に熱が伝わり、混ざり合う。


「……まさか、先に言われるとはな」


 さらり、銀が揺れる。漸く見ることのできた赤紫の瞳は熱く、優しい。その眼差しにとくんとまた心臓が音を立てる。でもこれは仕方がないと思う。目は口ほどに物を言うとは正にこのことだろう。


「俺ばかりもらうのも違うだろ。それに、ちゃんと伝えておきたかったんだ」

「それは俺も同じだけどな」


 そのためにここまで来たのだと話すクロウにもう一度ありがとうと伝える。俺も会いたかったから礼を言われることじゃないと言いながら離れていく温もりに少しばかりの寂しさを覚えたところへ。


「リィン」


 聞き慣れた声が名前を呼んだ。そして。


「俺もお前が好きだ」


 はっきりと伝えられた言葉に幸せで胸がいっぱいになった。
 程なくして、世界はまた新たな年を迎える。辛いこともたくさんあったけれど、それ以上に楽しくて幸せだった日々の最後のページに新たな記憶が刻まれた。

 この記憶は来年も再来年も、絶対に忘れない。
 新しい思い出と大切な友はこれからもずっと、ここに在る。










fin