からん。
 グラスを傾けると中の氷が音を奏でる。からからと、揺れるワインをぼんやりと眺めていた紫の瞳が瞼の裏に消えた刹那、部屋がしんと静けさに包まれた。


「なあ」


 呼び掛ける声に反応して、別の紫が動く。


「ずっと前から好きだ、って言ったら。付き合ってくれるか?」


 からん。今度は他のグラスで音が響く。


「そうだな。それもいいかもしれない」


 自分とは違う紫を見つめてリィンが答える。どこまでも真っ直ぐなその瞳にクロウは微かに目を細めた。


「そんじゃあとりあえず式でも挙げるか」

「それは何段階か飛び越えてるだろ」

「なら手を繋ぐところから始めるか」


 段階を踏むというのはそういうことだろう。
 しかし、それを聞いたリィンはくすりと笑う。


「クロウにとって、付き合うってそういうことなんだな」


 普通だろう、は全ての人に共通して言えることではない。あくまでもそれは個人の主観だ。だがそれならとクロウは切り返す。


「お前はキスから始めんのか?」

「そうじゃないけど、可愛いところもあるなと思って」


 些か腑に落ちない発言にクロウは眉を顰めるが、目の前の友人はくすくすと笑っている。多分、お酒のせいもあるのだろう。


「だったらお前はどうやって段階を踏むんだ?」


 楽しそうに笑う想い人を見ているのは悪くないけれど、そう言うからにはリィンはどんな一歩から始めるつもりなのか。
 告白して、付き合うことになって。
 次に来るのが挙式というのは飛びすぎたかもしれないが、キスではないのなら何をするのか。前後に入るものはある程度絞られている上にリィンの性格を考えれば後者だとは考え難い。となれば、答えはほぼ決まっているようなものだ。


「そうだな。最初は手を繋ぐところからでいいんじゃないか?」


 案の定、リィンはクロウが想像した通りの答えを口にした。


「人のこと言えねぇじゃねーか」

「いきなり式を挙げるなんて言い出した後だから意外だったんだ」


 深い意味はないよ、と笑うリィンにまあそういうことにしておくかとクロウはあっさり引いた。何せ、重要なポイントは既にそこではなくなっていた。


「リィン」


 友――恋人の名前を呼んで隣をぽんぽんと叩けば、リィンは素直に向かいの席から隣に移動した。程なくして、青紫がクロウを見上げる。
 その柔らかな眼差しに小さく笑ったクロウはぎゅっと、近付いたその手を握った。


「それで、手を繋いだら次はどうするんだ?」


 きょとん、とリィンが呆けたのは一瞬。
 すぐにまた蕾が花開くように笑顔を咲かせたリィンはこちらの意図を理解して問い掛けた。


「クロウならどうするんだ?」

「それ、俺に聞いていいのか?」

「よくなかったら付き合わないさ」


 付き合うってそういうことだろう、と見つめる瞳の傍にそっと、もう片方の手を触れる。唇が触れ合ったのは間もなくのことだ。
 伝わる熱の高さはやはりお酒のせいもあるのだろう。触れて、離れた熱がさらに混ざりあったのは、空いていた残りの手が伸ばされたから。その熱がどちらのものか分からなくなった頃、今度こそその距離は広がった。


「意外だな」

「そうか?」


 次にくるのはキスではないか、と暗に伝えたのはクロウだ。だけど触れるだけの短いそれを深く求めたのはリィンだった。クロウはあえてそこまでは求めなかったというのに、リィンの方からその境界線を飛び越えた。


「次はこうかと思ったんだけど」

「まあ否定はしねーよ」


 より深い関係になれば、そうなっていくだろう。また一歩分、関係を進めたリィンの唇をもう一度だけ奪ったクロウは微かに熱を帯びた青紫を見つめた。


「んで、次は?」


 恋人になって手を繋いで、キスをして。更に求めた先にあるものは何なのか。
 少しだけ考えたリィンはふわりと優しい笑みを浮かべた。


「一緒に暮らすか」


 同じ屋根の下で、おはようからおやすみまで共にする。
 そろそろその一歩を踏み越えてもいいのではないか。そう話すリィンにクロウは口の端を持ち上げた。


「じゃあ式を挙げようぜ」

「だからこういうのは順序があるだろ」

「ここまできたらいいじゃねーか」

「よくない」


 そんなにこだわりがあるのかと、問うたら「クロウとのことを適当にはしたくない」と不満そうな瞳を向けられた。
 ――それは反則だろう。
 心の中で零して、お酒のせいでほんのりと頬を赤く染めている恋人を見る。適当にしたつもりはなかったが、そこまで言われたら最後まできちんと段階を踏むのもいいだろう。確かにまだ、重要なことは残っている。


「なら次はどうする?」

「さっきも俺が答えたけど、クロウはもうないのか?」

「俺は最後でいい。つーか、お前と一緒にいられるならそれで十分だ」


 手料理が食べたいとか、ベッドも一つでいいんじゃないかとか。細かいことも挙げようと思えば挙げられる。
 でも、当たり前のようにかわす挨拶が実は特別で、いつだって傍にいてくれる大切な人の存在がどれほど大きいか。ふとした瞬間に感じることがある、なんて。普段なら言わないけれど。


「…………それは、ずるくないか?」


 リィンの言葉にクロウは口元を緩める。


「さっきのお前の発言も大概だと思うぜ」

「俺だって、クロウがいてくれれば他に何もいらないよ」

「それはまた熱烈な告白だな」


 疑っているのかと聞かれたから「まさか」と繋がる手にぎゅっと力を込めた。


「本当はずっと、こうしたかった」


 惹かれたのは、夕焼けの中で深紅の制服を見つけたあの日から。手に入らない、手を伸ばしてはいけないと思っていたというのに、こっちが作った境界線を友は軽く飛び越えてきた。
 だから、クロウは今もここにいる。こんな風に触れることにも最初は躊躇ったが、触れたいと思ったのは十年以上も前の話になる。


「すればよかっただろ?」


 あっさりと、言うリィンにクロウは肩を竦める。


「それができたら苦労しねーよ」

「それはそうだな」


 俺もそうだった。
 微笑を浮かべたリィンにクロウは僅かに目を開いた。それからリィンは更に笑みを深めた。


「両想いだったんだな」


 もっと早く言っていればよかったと笑う恋人の手から微かな振動を感じる。
 触れ合った場所から伝わるのは相手のぬくもりだけではない。繋いだ手からリィンの心が伝わってくる。おそらくは、クロウの心も。


「クロウ」


 呼び掛けに視線を返したら想い人はふっと目を細めた。


「最後は何をするんだ?」


 一緒に暮らすようになって、式を挙げるよりも前にしたいこと。
 尋ねたということはリィンも他にやりたいことはなくなったのだろう。いや、最後にやりたいことは多分、同じだったんだ。
 絡み合った指を解き、指先が触れ合ったままその手を取る。優しく手を握り、顔を上げた先でぶつかったのは自分を映す愛しい色。


「これからもずっと、俺の隣にいてくれ」


 伝えた言葉に、頬を緩めたリィンが答える。


「一生、傍にいる」


 だから。
 その先の言葉は熱に溶けた。


「リィン。この命ある限りお前を愛し続けると誓う」

「俺も誓うよ、クロウ」


 愛してる、と言い合った二人はどちらともなく笑い合った。心がぽかぽかとあたたかくなり、幸せだなと素直な感情が胸の内に広がる。

 出会ってから十二年。友として、相棒として、生涯のパートナーとして。この先の未来も二人で共に歩き続けよう。
 胸いっぱいの幸せと、大切な人のぬくもりを感じながら再び指が絡んだ。










fin