貴方の好きな音を奏でて
中学、高校共に運動部に所属している兄は、休日といえど練習があって家に居ないことが多い。今日はどこと練習試合があるからと言って、朝から家を出て行く姿を何度も見送った。
そんな兄にもオフの日は当然ある。殆どが部活の日々ではあるが、ちゃんと休息も必要なのだ。そして、オフの日はいつも決まった行動を取る。
「真ちゃん、何やってるの?」
大きくなるにつれて、親がそろそろ兄弟の部屋を分けようと話を持ちかけた。別にこのままでも良いと答えたのだが、やはり自分の部屋があった方が良いだろうということで自然と分かれる流れになった。それでも、二人が一緒に居ることはそれなりに多かった。課題があったり兄が部活で疲れている時は別だが、それ以外は部屋に訪ねていることが多いのだ。基本的に兄が弟の部屋に、である。
「宿題を終わらせていたところだ」
「へぇー。こんな問題やってるんだな」
高校生の和成からしてみれば、小学生の問題は簡単だ。どんな授業内容だったかは覚えていないのだが、弟の宿題を見てそういえばこういうのやったなと思い出す。今となっては懐かしい問題だ。
さくさくと解いていく様子を隣で眺める。邪魔をしている訳ではないから、真太郎も兄の好きにさせている。部活があるとあまり一緒に居られないことだし良いことにしているのだ。何か詰まったとしても聞けばすぐに教えてくれるのだから、居てくれて助かることもある。あまり勉強が出来るようには見られないらしいが、兄は成績優秀なのだ。部活でもPGというゲームメイクをするポジションについているだけのことはある。
「兄さんは一日オフなのか?」
「今日はな。明日はまた朝から練習だけど」
午前中から家に居る時点でオフなのだろうとは思っていたけれど、やはりその通りらしい。強豪校というだけあって練習は厳しいそうだ。それでも、今のチームでプレイするバスケは楽しいと言っている。まず、楽しくなければ強豪校でバスケをやろうとは思わないだろう。
真太郎もいつかは兄のような強豪でバスケをやってみたいと思っている。それを兄に話したところ「真ちゃんなら凄い選手になりそうだな」と言ってくれた。きっと自分よりも優秀なプレイヤーになるだろうと兄は話したけれど、兄が優秀なプレイヤーであることぐらいは真太郎も知っている。そうでなければ一年で強豪のスタメンになったりは出来ない。勿論、その裏でそれだけの努力をしているのだ。
「宿題は終わった?」
「あぁ」
「んじゃ、たまには一緒に遊ぶか」
そう言って何をするかを考えだす。二人がやることといえばまず挙げられるのはバスケだが、生憎今日は雨である。その時点でどこかに出掛けるという選択肢も消される。室内の場所に行くのなら問題ないが、わざわざ出歩こうとも思わない。すると、やれることは更に絞られて家で出来ることだけだ。
「あ、そうだ。久し振りに真ちゃんのピアノ聞きたい」
一緒にと言った割には、ピアノは基本的に一人で弾くものだ。ピアノには連弾というものもあるけれど、この言い方からして弾いているのを聞きたいのだろう。何より連弾をしようにもピアノを弾けるのは真太郎だけなのだ。やってみれば器用にこなすのだろうけれど、オレにはそんなに細かいのは無理だといって兄は手を付けたことはない。真太郎の方は、小さな頃から習っているから結構弾くことが出来る。その為、家にもピアノがあるのだ。
この天気なのだからどっちみちやることは室内に限られている。聞きたいと言うのなら、兄の為にピアノを弾くのも悪くない。分かったとだけ返せば、それは嬉しそうな笑みを見せた。こういう顔をされるから、いつだって兄の為にと動きたくなってしまうのだ。笑っている兄が好きだから、何をしている時でも部屋に迎え入れてしまう。本人には話したことがないけれど。
「何か聞きたい曲はあるのか?」
「曲って言われても、オレには分からないし。真ちゃんの好きなの弾いてよ」
ピアノのある部屋に移動してリクエストを聞いてみるが、いつも通りの反応が返ってくる。やっていなければ曲名なんて分からないものだ。真太郎は、適当に譜面を広げると鍵盤に指を乗せる。そのまま音符を奏でていけば、綺麗な音色が部屋中に響いていく。
一曲を弾き終わると、兄は必ずパチパチを拍手をしてくれる。わざわざしなくても良いと言っているのだが、それでも兄は止めない。兄曰く、こんなに綺麗な音を聞かせてくれたんだから当然ということらしい。数曲を弾いたところでピアノから手を下ろすと「真ちゃんは凄いな」と感嘆の声が聞こえてくる。
「兄さんもやれば出来ると思うのだよ」
「オレには向いてないから。それに、真ちゃんの音が好きだから自分で弾かなくても良いかなって」
真太郎がピアノを弾くと、兄はいつもそんな風に話すのだ。同じ曲を演奏しても、奏者によって奏でる音は変わってくる。和成は弟の奏でるその音が好きなのだ。弟が弾いている姿を見ながら、こんな風に弾けたら楽しいのかなとも思うけれど、それ以上にその音を聞いていたいたいと思う。だから、自分では弾いてみようと思わない。
「そういえば、真ちゃんが弾いてくれる曲ってさ」
全部前にオレが良いなって言った曲だよね。
そんなことをいきなり言われて驚いた。頭の良い兄が記憶力も良いことくらいは知っている。確かに、真太郎は兄の言ったように以前兄が好きだと言った曲を弾くようにしている。何でも良いというのなら、どうせなら好きな曲の方が良いだろう。そう思って曲を選んでいたのだが、気付かれていたらしい。
「時々知らない曲も弾くけど、オレの好みに合わせてくれてるでしょ?」
「……たまたまじゃないか」
これも正解なのだが、素直にうんと答えられるような性格ではないのだ。それでも兄には全部分かってしまっているけれど。その上で、全部好みの曲だったと言ってくれる。真ちゃんの弾く曲ならばどれも好きだけどな、と付け足して。
弟の些細な気遣いが和成は嬉しい。あまり態度には出さないけれど、ちゃんと自分のことを考えてくれているということが分かるから。表には出さない為に誤解されることもあるが、心は優しい弟だということくらい昔から知っているのだ。
「真ちゃん、他にも色んな曲弾いてよ。今日は時間も沢山あるし」
「ずっと聞いていたら飽きると思うのだよ」
「絶対ないって。真ちゃんが飽きたら終わりで良いからさ」
そう話せば弟はまたピアノに向き直って指を動かす。心地の良いメロディが流れ出す。やっぱり、この音が好きだなと和成はそんなことを思いながらピアノの音に耳を傾ける。
弟が奏でる音はいくら聞いても飽きない。だからいつまででも聞いていたいと思う。それに、こうしていれば今日一日一緒に居られる。なんてことも、実はこっそり心の中で思っていたりもする。
久し振りに兄弟で一緒に過ごせるこの時間を大切にしたい。そう思うのだ。
fin