「全く、どうしてお前は毎回補習を受けているのだよ」

「それは真ちゃんが補習をするからでしょ」


 補習さえやらないでくれれば受けることもない、なんて意見が通じるわけがない。
 そもそも補習を受けさせなければならないような点数を取るなという緑間の主張の方が正しいだろう。緑間だって好きで補習をしているのではない。それほどまでに悪い点数を取っているから仕方なく、だ。


「補習をしても成績が上がらない生徒がいなければオレも残らなくて済むのだが」


 正論すぎるその言葉に高尾はぐっと言葉に詰まる。けれど高尾とて好きで悪い点を取っているわけでもないのだ。この教科が苦手だから悪い点を取ってしまっているだけで他の教科も全部赤点という悲惨な状態ではない――といっても、決して良いとはいえない成績でもあるのだが。赤点でないから一先ず良いということにしておこう。
 それとその呼び方をやめろと注意しながら緑間はプリントの間違っている部分を指摘する。これを繰り返しながら最後はきちんと解答欄を埋めるもののテストでは結果に繋がらない。誰にでも苦手なものがあるとはいえ、どの教科でも赤点くらいは取らないように勉強をして欲しいというのが教師の本音である。


「言っておくが期末でも悪い点を取ったら夏休み返上で補習を受けてもらうからな」

「うわ、マジで? 夏休み返上とか先生も大変じゃね?」

「……そう思うのなら赤点を取るな」


 どのみち教師は生徒が長期休暇だろと同じように休暇はないけれど、それでも補習があるのとないのとでは違う。高尾に限らず成績の悪い生徒に長期休みを利用して補習が行われるのは恒例だ。
 そうなりたくないのなら、大変だと思ってくれるのなら。赤点を取らないでくれれば良いだけの話だが言うほど簡単なことでもないのが現実だ。誰だって補習に残りたくなんてない。勉強した分だけ結果には繋がるだろうが、赤点を回避するためにはそれなりの努力も必要だろう。


「取るなって言われてもオレだって取りたくて取ってるわけじゃないっすよ」

「開き直るな」


 こうして補習の様子を見ている限りでは、解けない問題もあれどそこまで酷いというほどでもない。ちゃんと勉強さえすれば毎回補習を受ける羽目になることはなさそうなものなのだが、ここでプリントを解くのとテストではまた違うのだろう。それを踏まえても赤点続きは流石にどうかと思うところだが。


「あ、もし次のテストでオレが何点か取ったら先生からご褒美とかどうっすか? それならやる気になると思うんすよね」

「なぜオレが何かしてやらねばならん。成績が悪くて最後に困るのはお前だろう。自分のためにやる気を出せ」

「モチベーションは大事でしょ? 別に無理なことを言うつもりもないですし」

「そういう問題ではない」


 まず教師が一人の生徒に、ということ自体がよろしいことではない。一人だけ贔屓をするようなことをするわけにはいかないのだ。生徒には平等であるべきなのだから。本当に生徒全員と平等に接することは難しいこととはいえこれは如何なものか。
 ご褒美といっても金銭が絡むようなことなどを頼むつもりは高尾にも毛頭もない。問題にもならないような小さなことで良いから何かあれば一段とやる気になるという話だ。休みの前日はテンションが上がるのと同じようで何かがあるとより頑張れる。その程度の提案だ。
 仮にそうだとしても勉強に関しては自分に返ってくることだ。どう考えてもおかしいだろう、とやはり緑間は腑に落ちない様子である。


「くだらないことを言う暇があるなら手を動かせ」

「えー駄目っすか?」

「当たり前だ」


 まだ元気があるのならもう何枚かプリントを追加してやろうか、と冗談なのか本気なのか分からない発言に真面目に目の前のプリントに取り組むことにする。もし追加されたら一体帰れるのは何時になるのやら。今ある分だけだとしても数十分は掛かるのだからこれ以上は勘弁だ。
 漸く手を動かし始めた生徒を見ながらこちらは溜め息を一つ。どうしてこんな話になったのか。そもそもコイツは何を頼むつもりだったのか。勉強は人に言われてやるようなものではないが。


「学年一位を取ったら考えてやらんこともない」


 これだけのことでモチベーションが上がるのなら少しくらい協力してやろうか、と思った。無理なことは言わないと本人が口にしたのだから常識くらいあるだろう。勿論、そう簡単に聞いてやるつもりもないからこその難易度でも良ければの話だけれども。


「一位って、いくらなんでもハードル高すぎじゃないっすか!?」

「元々オレが何かしてやる理由がない。それくらい出来たら頑張ったと認めてやるのだよ」


 高尾の成績からして一位を取るには相当勉強しなければならない。いや、一位を狙うのなら誰でも真剣に勉強しなければ無理だろう。
 ちなみに高尾の成績は普段三桁だ。二桁どころかさらにその上、一番上まで上り詰めるにはどれくらいの時間を勉強に充てる必要があるだろうか。そう考えている間にも勉強をした方が良いのではないかとさえ思う。
 けれど、それで先生がご褒美をくれると言うのなら頑張るしかない。一位なんて取れるかは分からないけれどやる前から諦めるものではない。可能性はゼロではないのだから。


「オレが一位を取ったら、約束ですよ」


 次は一学期末テスト。中間テストよりも教科は増えるがやることはただ一つ。残りの一ヶ月でいかに勉強を身に付けられるか。





 □ □ □





 赤点回避どころか学年一位という大きな目標を掲げて迎えた期末テスト。やれるだけのことをやって挑んだそのテストの返却は授業ごとに行われ、気になる総合結果もテスト終了後から一週間もすれば生徒達に伝えられた。
 各教科の点数に順位、それから合計点と総合順位。テストの結果が出た放課後、高尾は担任教師と二人で教室に残っていた。


「高尾」


 ずっと黙ったままの生徒の名を呼べば色素の薄い瞳がこちらを見る。彼の言いたいことは分かる。担任である緑間は当然今回の期末テストの成績も知っているのだ。だからこそ、こうして二人で放課後の教室にいるわけでもある。


「そんなに落ち込むな。これまでの成績を考えれば十分過ぎる結果だろう」

「いや、まぁ、そうなんですけど……」


 あんなことをしていたから罰が当たったのかな。
 そう呟いた声は緑間にも届いていたようで、すぐにどういう意味だと疑問が飛んできた。聞こえるとは思わなかった高尾はしまったという表情をしたが時すでに遅し。今更隠してもしょうがないかと諦めて重い口をゆっくりと開く。


「これ言ったら緑間先生は絶対怒ると思うんですけど、オレ、本当はそんなに成績悪くないんすよ」


 この言葉だけではまだよく分からない。そのまま受け取るにしても先程も述べたように担任の緑間は高尾の成績くらい知っているのだ。彼の担任になるのも今年で二回目。結果が残っているだけに高尾の発言の意味がいまいち分からない。
 けれど、その意味はもっと分かりやすい言葉で高尾自身から直接告げられた。真面目にテストを受ければ三桁の順位ではなく二桁、もしくは一桁も取れるくらいの学力は持ち合わせているのだと。後者については教科やその時の内容にもよるだろうが、少なくとも赤点を取ったりするような点数にはならない。


「ちょっと待て、それならどうしてあんな成績だったのだよ」


 尤もな質問をぶつけられて高尾は答えに詰まる。要するにこれまで緑間が見てきた成績というのはわざと手を抜いていたということになる。事実、その通りだ。
 しかし、なぜそんなことをしていたのか。普通なら有り得ないことだけに緑間は理解が追い付かない。悪い成績を取って良いことなんてないのだ。むしろ成績は良いに越したことはない。


「それは、その…………」


 ここまで言っておいて隠すようなこともあるのかと思われるかもしれないが、いくらなんでも本心を思ったまま告白するのは出来ない。どうやってこの場を回避するべきか。適当な言葉を探してみるもののなかなか答えが見つかってくれない。
 とりあえず「毎回真面目にやるのも大変じゃないですか」なんて言ってみたが、成績が悪くて後に大変な目に合うのはお前だろうと返されると何とも言えない。自ら赤点を取る理由なんて一つしかないけれど……。

 真っ直ぐな翡翠がじっと見つめる。どうしようかと迷いながら暫く視線を彷徨わせていたが、一度目を閉じて高尾は意を決する。


「そんなの、先生と一緒にいたいからに決まってるじゃないですか」


 顔に熱が集まるのが自分でも分かる。驚かれるのは当然だし、何を言っているんだと思われるのも普通の反応だ。
 分かっていたけれどそれでも本当のことを言ったのは、ここまできたら隠しても仕方がないと思ったから。

 多分、一目惚れだったんだろう。今でこそそう思えるのかもしれないが、初めてこの人を見た時。他の誰も持っていないその色を純粋に綺麗だと思った。少し変わっているけれどそんなところも面白いと感じたし色々と話しをしてみて、一緒にいて楽しいと思った。
 けれど教師と生徒だ。一緒にいられる時間なんて限られている。教師には仕事もあるし一人の生徒とばかり過ごしていられるほど暇でもない。そしてある時ふと頭に浮かんだのがこれだった。良いことではないにしても勉強が好きなわけでもないし点数にだけ気を付ければどうにでもなる。真面目に勉強している人に対しては失礼だが上手く誤魔化して勉強が出来ない振りをしていた。これが真相である。


「ごめん、先生。次から真面目にテスト受けるから今日のことは忘れて――――」

「真面目に受けるのは当然だが、聞いてしまったことを忘れるのは無理な話だ」


 忘れようと思って物事を忘れられるように人間の体は出来ていない。忘れる努力をしたとしても忘れられるかどうか。記憶とはそういうものだ。だから忘れて欲しいと頼まれたことで分かったとは言えない。
 と、それっぽいことを並べてみたけれど緑間の言った意味は少し違う。忘れろと言われて忘れられないというのも嘘ではないが、それ以前の話である。つまりどういうことかというと、それは直接言った方が早いだろう。目の前の生徒も明らかに違う意味で受け取ってしまったようだから。


「オレも同じ気持ちだと言っても、お前はオレに忘れろと言うのか」


 同じ、といっても一目惚れをしたわけではないと思う。けれどいつでも自分の元へやってくる生徒が他の生徒より気になるようになっていた。それが特別な感情だと気付いたのは大分後だが、今にして思えば出会った頃から猛禽類のような目を持ったこの男を視界に捉えていることは多かったかもしれない。向こうが見ていたからかもしれないけれど、ふとした拍子にその色素の薄い瞳が視界に入ってきた。
 補習とはいえ二人で過ごす時間を嫌だと思ったことはないし、放課後に補習をしなければならないことも苦と思ったことはない。教師としてやるべきことだから当然といえばそうだが、相手が高尾だったからという部分もあるだろう。同じ気持ちというのはそういうことだ。


「同じって……真ちゃん、オレの言ってる意味ホントに分かってる?」

「分かっているが、お前の方はそれだけでは分からんらしいな」


 要するにこういうことだと言わんばかりに唇を重ねる。そんな唐突な緑間の行動に高尾は目を大きく開き、先程以上に顔を赤く染めた。


「い、いきなり何するんすか……!!」

「これでお前も分かっただろう」

「そりゃ、分かりましたけど」


 こんなことをされても気付かないほど鈍い人もいないだろう。そう思いながら同時にこの人って意外と大胆なことするんだと思った。
 しかし、考えてみれば普段からそういうところもあったかと思い直す。勿論、キスなんてされたのは初めてだし恋愛とは全く別の面を見てのことである。


「だが、今は教師と生徒だからな。付き合うのはお前が卒業してからだな」

「えっと、一応聞きたいんですけど本気で言ってるんですよね?」


 尋ねた瞬間にまだ言うのかと言いたげな視線だけを寄越された。慌てて疑っているのではないと否定したけれど緑間は疑いの眼差しを向けている。だからそうではないともう一度否定して、ただ実感が湧かないのだと口にした。まさか両思いだなんて考えたこともなかったから頭が追い付いていないのだと。
 それは緑間にしても同じだ。色んな意味で普通は有り得ない感情を持ってしまったのだから。けれどお互いに同じ気持ちだったのなら細かいことなんてどうでも良い。一つ言うならば、高尾の方から先に打ち明けられることになるとは思っていなかった、ということぐらいだろうか。

 だからせめて、この言葉は先に伝える。


「高尾、オレはお前が好きだ。だから卒業したら付き合おう」


 それまでは待っていてくれ。教師と生徒である間はその一線を越えられないから。
 二人がそう言う関係になるとしてぶつかる壁はそれだけではない。だがそれは一つずつ乗り越えていけば良いのだ。言うほど簡単なではないことは分かっているけれどその道を選ぶならば困難は覚悟の上だ。


「……卒業するまで、ちゃんと待っててくれますか?」

「無論だ」


 はっきりと答えてしまうところが緑間らしい。数分前までは打ち明けるかどうかにも悩んでいたというのにこんな展開になるなど誰が想像出来ただろう。
 予想外ではあったけれどこんなに嬉しいことは人生でもそうそうないのではないだろうか。まだ人生の半分にも辿り着いていないけれど、そんな風にさえ思う。


「オレが卒業する時までの約束ですからね、先生」

「ああ。無事に卒業出来るようにテストは真面目に受けるのだよ」

「分かりました。でも、いつも真ちゃんの補習受けてたからちょっと寂しくなるな」

「補習がなくても時間くらい作れる。心配するな」


 きょとんとしてしまった高尾だが、すぐに笑って「楽しみしてます」と答えた。そんな高尾を見て緑間もまた口元に小さく笑みを浮かべるのだった。







補習を受けていたけれどその必要もなくなった。
もっと一緒にいられるようにちゃんと卒業することが新しい目標。