「和成様」


 和成様、繰り返し呼び掛けること三回目。聞こえていないわけではないだろう。目の前に居るのだから。当の本人が無視をしているだけである。
 どうして無視をしているのか、という理由も本当は分かっている。分かっていても聞き入れられないことはある。子供ではないのだから彼もそれくらいは分かっているだろう。いや、子供ではないからこそ納得が出来ないというのが彼の意見だったか。


「…………真ちゃん」


 漸く反応を見せた彼に「何でしょうか」と尋ねればまた黙り。何が気に入らないのかなど聞くまでもない。このお坊ちゃんは自分の世話係に敬語を使われるのを嫌っている。それでもこちらは仕えている身なのだからこの姿勢を崩すわけにもいかない。
 しかし彼は納得しないのだ。他の使用人が彼を様付けで呼ぼうと敬語を使おうと普通に対応するというのにただ一人、この家の使用人であり彼の幼馴染に対してだけこのような態度を見せる。

 また黙ってしまった主人、高尾の名前を数回呼んだところで幼馴染は溜め息を一つ。こういう時はいくら呼んでも無駄なのだ。それくらいは付き合い上分かっている。どうすれば良いのかも分かってはいる。
 困った主人だと思いながら次に翡翠が映したのは自分の主ではなく。


「高尾、いい加減にしろ」


 幼馴染であり友人の姿。敬語も何もない、ありのままの言葉で話し掛ける。
 すると、全然目を合わせようとしなかった高尾が漸くこちらを見る。彼が望んでいるのは主人としての対応ではなく友としての言葉だった。そんなことくらいは緑間がこの立場についた時から知っている。当の本人がそれを口にしたのだから。


「別にオレは何もしてないんだけど」

「聞こえているのに聞こえない振りをしていたように思うが」

「気付いてるのに気付いてない振りをしてたヤツに言われたくねーんだけど」


 どっちもどっちである。だがそれも仕方のないことだ。緑間からすれば高尾は仕えるべき主人であり、しかし高尾からすれば緑間はいつまでも幼馴染兼友人でしかない。いくら今は使用人として高尾の隣に居るとしても二人が幼馴染であることに変わりはない。
 とはいえ、いつまでも幼馴染というわけにもいかない。今では上下関係がしっかりとあるのだ。それを守らなければ最悪一緒に居られなくなるどころか二度と会えなくなるという可能性もある。流石にそこまでのことはないだろうが、可能性はゼロとは言い切れない。


「お前はそろそろ自分の立場を自覚しろ」

「オレがなんだろうがオレはオレだし、真ちゃんは真ちゃんだろ」


 正反対の意見を持っていれば対立するのも必然。本当はこんな不毛な言い争いなどしたくはない。高尾と緑間が幼馴染であることも主人と使用人の関係であることもどちらも事実だ。緑間は高尾の気持ちを分かっているし、高尾だって緑間の言い分が分からないわけではない。それでも納得出来ないこともある。


「昔は普通に話してたじゃん」

「昔の話だ。今は違うのだよ」

「オレは昔と何も変わってない。真ちゃんだってそうだ」


 変わったのは彼等ではない。彼等を取り巻く環境だ。幼い頃はただの友達として隣に居られたけれど、それは成長と共に失われてしまった。
 高尾はこの家の跡取り息子。緑間はこの家に仕えている家柄の息子。
 成長と共に二人の関係が崩れてしまうのも古くからある両家の関係からして当然の流れだった。それを当然のことと受け止めた者と、そんなのはおかしいと受け入れられなかった者。二人がぶつかる根本的な理由はそれだ。


「どうしてこれまで通りじゃダメなんだよ」


 身分の違い、そういう家の元に生まれてしまったから。そんな答えが聞きたいわけではない。こんなのが運命だったからなどといわれても納得なんて出来ない。


「これがオレの仕事だ」


 そんなことは分かっている。緑間の仕事を奪おうとしているのでもない。百歩譲ってお互いの家がそういう関係であることは仕方がないとしよう。
 けれど、そういう関係だったとしても普段の会話のやり取りまで変える必要はあるのか。本来はそうあるべきなのかもしれない。だが、それを破ったとして罰せられるのもおかしいんじゃないかと高尾は思うのだ。自分達はそういう関係である以前に友なのだから。


「……真ちゃんは真面目だからきっちりしないとって思うのかもしれないけど、オレは馬鹿だし跡取りなんていわれてもまだ実感とか全然なくて」


 ついこの前まではただの幼馴染だった。それが変わってすぐに家を継ぐわけではないが、跡取りであるからにはいずれは家を継ぐことになる。それが嫌なわけではない。そういうものだと思ってこれまで生きてきたのだから。自分にそれだけの器があるかといわれれば疑問だが、それでも自分のやるべきことくらいはきちんとやる。
 でも、それは高尾一人では不可能だ。家のことについては勉強しているけれど、親がその席を降りてからたった一人でその役目を担えるとは思っていない。父の隣にも支えてくれている人が居ることを高尾は知っている。


「いつかその時が来たら、その時は真ちゃんに隣に居て欲しい。使用人とかじゃなくて、友達だから。お前に傍に居て欲しい」


 幼馴染であり友達であるお前に。オレはお前と共に歩んで行きたい。

 誰がこうでなければいけないと決めたのか。敬称や言葉遣いを変えなければいけないと、周りの大人達が言ったのだろう。そろそろ自分の立場を自覚しなければならないと周りに教えられた。そうでなければいけないのだと。
 どうして、と幼い子供の疑問にそういうものだからと典型的な答えを返す大人。いずれは分かるようになると言われたけれど、そんなものが分かるようになるとは思えない。むしろ分かるようになんてなりたくない。友達でいることの何が悪いのか。


「真ちゃん、やっぱり敬語も様付けで呼ぶのも今後は禁止」

「何を勝手なことを…………」

「だっておかしいだろ。オレ達はオレ達だ」


 そういう問題ではない、と緑間は否定する。ならオレ達が幼馴染で友達であるのはどうなるんだよと高尾は問う。それとこれとは話が別だと言われるけれど、それも全部“そういうものだから”だろう。分かってる。子供の自分達がそんなことを言っても無駄だということくらい。
 では、子供でなかったら。大人になった自分がそれを言って許されるのだとしたら、それもそれでおかしな話だ。結局は世間一般の常識としてみんな口を揃えているだけである。


「確かにそういうのが当たり前なのかもしれないけどさ、オレはそんなの嫌だ。多分オレは大人になっても同じことを思う。オレはお前と友達でいたい」


 こんな考えはいけないのだろうか。これまで誰もこのような考えを抱かなかったのだろうか。親に聞いたところで否定されるのが落ちだし誰に聞くことも出来ないけれど。
 色素の薄い瞳が真っ直ぐに見つめる。おそらくこの世界では異端な考え方をしているこの主人に何と答えるのが正解なのだろうか。
 いや、正解は一つしかない。それは分かりきった答えだ。それならどうして緑間が悩むのかといえば、彼が高尾の友達だからだ。常識的な答えがそこにあるとしても、彼の友として出す答えはそれとは違うもの。どちらを選ぶか、選ぶべきなのは一択である。


「なぁ、真ちゃん」


 お前の出す答えは?
 そう尋ねる瞳が僅かに揺れた。ここで緑間がどちらを選ぼうと、これ以上この不毛なやり取りは行われなくなるだろう。いつもなら軽く行われて終わるだけのやり取りだ。どちらを選んだとしてもそれが緑間の答えなら、高尾はもう何も言わない。結局は自分の我儘だから。

 高尾の求めているものは分かっているし、自分が選ぶべきことも分かっている。それでも、こういう関係になってからも変わらずに友達だからと言い続ける高尾にそうではないと否定してきたのは緑間自身。これからだってそうやっていくのだろうと思っていた。
 けれど、今のままずっと続く未来なんてない。いい加減に自覚をしろと言ったのも緑間だが、高尾も口ではそう言ってもちゃんと分かっていたのだろう。だからこそ尋ねたのだ。友に。

 それを友として答えるか、世間の常識を取るか。考えるまでもない。


「オレはいつまでもお前の友達だ」


 心配しなくてもお前の傍を離れたりはしない。
 お前が望むのならこれからもずっと隣に居る。

 これが緑間の出した答えだ。本来ならこんな答えを選ぶことは間違いなのだろうが、それでも自分達はこういう関係である前に友達なのだ。そこは絶対に変わらないし、大切な友がそれを望むというのなら聞き入れてやるくらいの心はある。
 周りが何と言おうが自分達は自分達。いずれ上に立つことになる彼は辛いことも苦しいことも全部一人で背負うのだろう。それを支えてやりたいと思うのは友達だからだ。


「不安か?」

「……不安じゃないとは言えないかな。オレはまだ何もわかってないようなモンだし」


 隠しても無駄だと判断して素直に話す。幼馴染というだけあって付き合いは長いのだ。そのくらいのことならすぐに気が付く。逆もまた然りだろう。
 それでも、時間は流れているのだから立ち止まることも出来ない。それはきっと当人である高尾にしか分からないことだろう。だが、緑間にも出来ることはある。ほんの些細なことだけれど、それでも。


「お前なら大丈夫だ。それにお前は一人ではないのだよ。話くらいなら聞いてやる」


 言葉というものには力が宿っている。こんな風に言うことしか出来ないけれど、それでも高尾にとっては大きな力になる。
 幼馴染の優しさをその身に感じながら、高尾は漸く立ち上がった。


「行くのか」

「その為に呼びに来たんだろ?」


 随分と話し込んでしまったが時間は大丈夫だ。それを見越して早めに訪ねてきたのだから、幼馴染はこちらのことがよく分かっている。
 行ってくると短いやり取りをして部屋を出た主人の後ろ姿を見届けて、緑間はすぐ傍の窓に視線を向ける。

 この青の下で自由に過ごせたら良いのに、なんて思ってしまったのは友人の考えがうつったのだろう。昔はただ一緒に居たいというだけでこの空の下を駆け回ったが、大人になっていくにつれて自分達の取り巻く環境が変わればそれが失われてしまうのも仕方がない。
 けれど、その中で変わらないものも確かに存在している。自分達が幼馴染であることもそうだ。彼が望むのなら昔のまま、この狭い世界でも彼が笑っていられるようにしてやりたいと友として思うのだ。







これからもずっと。せめてオレ達のこの世界は変わらずに。