「真ちゃん」
呼び掛ければすぐに「何だ」と反応してくれる。
いや、最初の頃は無視されていたこともあった。そのふざけた呼び方は止めろ、と何度か呼んだ後に言われたものだ。
しかし、毎度のように呼んでいるうちに緑間の方が折れた。よって、今ではそう呼ぶことが当たり前になっている。
「真ちゃん、しーんちゃん」
「……さっきから何なのだよ」
眉間に皺を寄せ、明らかに不機嫌そうにこちらを見た翠。確かに名前だけ連呼されても良い気はしないだろう。呼ばれても無視していたのなら仕方がないかもしれないが、ちゃんと反応したというのにいつまでも呼ばれる理由が分からない。
そこまで考えたところで、この男の場合はその可能性も有り得るのかと思い直す。前にもそんなことがあったのだ。いつまでも繰り返して名前を呼んでくる男にだから何だと苛立ちながら聞き返すと、ただ呼びたかっただけだと。全く良い迷惑である。
「んー? 深い意味はないから気にすんなよ」
「だったら呼ぶな。呼びたいからで呼ばれるのは迷惑だ」
「そんな冷たいこと言うなよ」
寂しいだろと言われても緑間の知ったことではない。大体、そんなに名前を呼んで何が楽しいのか。特に何かしたいわけではない、というのは大前提にある。ただ呼びたいだけというその心理が緑間には分からないのだ。
逆の立場にでもなれば高尾にも分かるのだろうか。そう考えてみてすぐにやめる。高尾が緑間に何度も名前を呼ばれたとして、緑間のように鬱陶しいとは思わないだろう。むしろ今のように、呼ばれても楽しそうにしているのが目に見えている。
「くだらないことをしてる暇があるのなら次の授業の準備でもしろ」
「教科書とノート出すだけなんてすぐ出来るじゃん」
真ちゃんは真面目だよね、と机の端に綺麗に並べられているそれらに視線を落とす。当たり前のことだと言われるけれど、実際にそれをやっている人なんてクラスの一割にも満たない。
授業の準備をする為の十分休みとはいえ、生徒からしてみれば短い休み時間だ。せいぜいロッカーから教科書を出す者が居るくらいで、たかが数秒で終わるその準備をする者は少ない。数秒で終わるのならやれと緑間なら言うのだろうけれども。先程の言葉から分かるように、高尾も授業が始まってから準備をするタイプである。
たかが数秒、それでも貴重な休み時間だ。
「なぁ、真ちゃん」
今度は何だと返しそうになって抑える。さっきからの流れだと、また名前を呼んだだけという可能性があるからだ。
一応目だけそちらを見てやれば、その様子に高尾は小さく笑って話を続ける。どうやらもう名前を呼ぶだけというのは止める気になったらしい。
「時間って有限だろ?」
名前を呼ぶのは止めたらしいが、今度はまた唐突に変な話を始めるらしい。変な話かどうかは聞いてみなければ分からないけれど、これまでの話とは無関係のそれはいつものように思いつきか何かなのだろう。
とりあえず疑問形で話を振られていることから緑間はそれに肯定を返す。時間というのものは決して有限ではない。一日は二十四時間と決められており、今この時も確実に時を刻んでいる。
「何もしなくても時間って進むだろ? だから、限られた時間をいかにどう使うかが重要になる」
「まぁ、わざわざ無駄にする必要はないな」
だから教科書もきちんと準備するべきだ、と言われて分かったよと渋々机の中から次の科目の教科書とノートを取り出す。こんなの後でも良いじゃんと高尾は思うが、これだけで終わる準備なのだから本来の休み時間の目的である授業の準備ぐらいしろというのが緑間の意見である。
と、そんな話はどうでも良い。どうでも良いと言い切ってしまうのもどうかもしれないが、少なくともこの話には関係のないことだ。机の上に次の授業の準備を終え、高尾は再び緑間に向き直る。
「でさ、誰でもその時間を無駄にしようとは思わないじゃん?」
「それはそうだろう。無駄にするくらいなら予習でもやっていた方が有意義だ」
「いや、そういう話じゃなくて」
それはそうかもしれないんだけど、今言いたいことはそういうことでもない。それなら結局何が言いたいんだと翡翠の目が訴えている。
時間は限られている。
無限ではないのだからそれをどう使うかは大事なことであり、故意に無駄にする必要性はどこにもない。そうするくらいならやるべきことをやる方がよっぽど有意義だ。
これまでの話を纏めると大体こんな感じだ。
確かにこれらも高尾が言いたかったことであるのだが、この話を持ち出した根本的な部分にはまだ到達していない。時間は有限なのだからその限られた中でどう過ごしていくかは人それぞれであり、だからつまり。
「今こうしている時間も限られた時間なワケだろ? それを真ちゃんはオレにくれてるんだなって」
そういう話。
高尾はそう言い切って幸せそうに笑うのだ。
こう話している間にも時は確実に流れており、例えば授業の予習にだって使えるこの時間を緑間は高尾の話を聞くことに使ってくれている。なんでもない日常だと言ってしまえばそれまでだが、限られた中の時間をそうした時間にしてくれていると考えればまた違った気持ちが生まれてくる。
誰もわざと時間を無駄にしたりはしない。つまり、この時間だって無駄ではなく意味のあるものなのだ。たかが話の一つに大層な意味もないけれど、他にも色々やれることがある中から自分を選んでくれている。それは幸せなことなんじゃないのかと、ふとそんなことを思ったのだ。
「…………」
一方、高尾の話を聞いていた緑間は普通は考えないようなその発言に目をぱちくりさせる。
勉強や部活、または遊んでいる時間なんかは無駄がないようにと考えることもあるだろう。しかし、休み時間に友達と会話をしているだけの時間をそのように考える人なんているのだろうか。大半の人間はそんなことを考えずにただ楽しいからなどの理由でその時間を過ごしている。高尾だって普段はそうだ。
けれど、今はなんとなくそんなことを思った。そして、その思ったことをそのまま緑間に伝えただけのこと。
いつもこんなことを考えている訳ではないけれど、そういうことなんだと思うと十分休みのこの僅かな時間でさえ貴重だなと思う。そして、その貴重な時間を自分の為に使ってもらえているということが嬉しい。
「……くだらないな」
「えー、くだらないってことはねーだろ? 少なくとも今は――――」
ぐいっと高尾の頭を自分の方に引き寄せる。同時にひゅうと風が教室を通り抜けた。風に揺られたカーテンの陰に隠れるように口付けを交わすと、ひらひら揺れるカーテンが元の位置に戻る前にその手を離す。
教室では何事もなかったかのように「そういえば昨日さ」とクラスメイト達の声が飛び交っている。実際、誰も気付いていないだろう。ただ風でカーテンが靡いただけ。窓側の席がそのカーテンに隠れるなんてよくあることだ。
「オレはいつでもお前と一緒に居るのだよ」
今だけではない。授業中、部活の時間、登下校。休日だってそうだ。こんな僅かな時間だけではない。もっと沢山の時間を共に過ごし、一緒に過ごしたいからそうしているのだ。
それでは不満か、なんて言われて不満なんて答えるわけがない。そもそも、不満があって話し始めたのではないのだ。小さなことだけれどそれが嬉しいという話であって、緑間の言葉に返すとすれば。
「じゃあ、これからも真ちゃんの時間をオレにちょーだい?」
「それならお前の時間もオレに寄越せ」
ほんのりと頬が朱に染まったままの高尾は、エース様の仰せのままと二つ返事で頷いた。今日も太陽は青い空の上でニコニコと笑っている。
限られた時間の中で