恋人になって初めて分かること
仕事が終わった後で飲みに誘われて、家には帰りが遅くなると連絡を入れた。結構遅くなったなと思いながら、電車を乗り継いで駅から家までの道のりを歩く。
普段はあまり飲みにいかないのだが、人付き合いもあるので和成は上手い具合に参加するようにしている。明日は休日だから良かったかと思いながら、空に浮かぶ月をぼんやりと見上げる。
(今週末は特に用事もないって真ちゃんも言ってたな……)
大学生の弟は、休日でも用事があって出掛けることがある。それは和成にしても言えることだ。明日は二人で一緒に過ごすことが出来そうだなと考える。そうはいっても、真太郎に課題があれば和成は後ろでそれを見守るだけになるのだろう。それでも、一緒に過ごせるだけでも良いと思っているのだから問題ない。ただ一緒にいるだけでも良いと思っているのは昔からだ。
(何もないならたまには出掛けるのも有りかな。行きたい場所はないけど)
家で過ごすことが多いのは、真太郎が課題をやることが多々あるからだ。加えてあまり人混みも好まないから、自然と家で過ごすことになる。それでも、たまには外に出るのも良いだろう。特別目的はないけれど、たまにはいつもと違うことをしてみようかと思う。一緒に過ごせればどちらでも良いけれど、出掛けるのもそれで楽しいだろう。
そんなことを考えながら、家へと向かって足を進める。見慣れた通りを歩きながら家を視界に捉えると、あれと疑問が浮かぶ。時間は既に深夜を回っているのだが、弟の部屋には明かりがついている。弟も成人しているのだから起きていても不思議ではないのだけれど、生活リズムがきっちりしている弟にしては珍しい。
(課題、にしても明日は休みだからな)
明日が平日ならともかく、休日前にわざわざ遅くまで起きてやるほどのことではない。どうしたんだろうと思いつつも、ここにいても埒が明かないと鍵を開けて家に入る。とりあえず自室に戻って荷物を片付けることにする。とはいえ、鞄を置いてネクタイを解き、スーツを掛けるだけだ。
数分で全て終わらせると、和成は真っ直ぐに弟の部屋へと向かった。コンコンとノックをして名前を読んでみるが返答はなし。これはと思いながらそうっとドアを開けると、机で眠っている弟の姿を見つけた。
「真ちゃんが寝落ちするなんて、珍しいな……」
大きな音がしないようにドアを閉めるて弟の傍に寄る。近くには参考書等が纏めてあるあたり、やはり課題でもしていたのだろう。
すやすやと眠っている弟の髪に触れながら、寝顔を見るのも久し振りだななんて考える。部屋が別々になってからというもの、いくら互いに行き来をしていても寝ているところを見るのは少なくなる。もう幼さは残っていないが、可愛い弟という概念は変わらない。無防備に眠る姿に微笑みを浮かべる。
(それにしても、これからどうするかが問題か)
暫くは寝顔を見ながら髪を撫でていたが、いつまでもそうしているわけにもいかない。これが十年前ならば、間違いなくベッドに寝かせてやるという選択肢を選んだだろう。けれど、成長期を過ぎた弟との現在の体格差では厳しいものがある。このまま寝かせておくと体が疲れそうだが、かといって起こすのも可哀想だ。
これではキリがないのだが、果たしてどうするべきか。最初の選択肢が必然的に消えている為、選ぶとすれば残りの二つ……。
□ □ □
重い瞼を持ち上げると、ゆっくりと光が飛び込んでくる。同時に意識がぼんやりと浮上していく。何をしていたのかとあまり働いていない頭で記憶を探る。とりあえず、現状として机で寝てしまったらしいということだけはすぐに把握出来たけれども。
「おはよう、真ちゃん」
不意に聞こえてきた声に反射的にそちらを向く。それが誰かなど声を聞いただけで分かる。そもそも、そんな呼び方をするのは一人しかいないのだから考える必要すらない。
振り向いてから数秒。兄はいつものように額にキスを落とす。それから、邪魔そうだったからと言って手渡されたのは眼鏡だ。一先ず眼鏡を掛けてから、色々と聞きたいことを兄に尋ねることにする。
「どうして兄さんがここに?」
「オレが帰ってきた時に真ちゃんの部屋が明るかったから。珍しいなと思って様子を見に来たら、真ちゃん机で寝てるんだもん」
起こすのは可哀想だったからそのままにした。そう話した兄が、この毛布も掛けてくれたのだろう。そこまで気温が下がる時期ではないとはいえ、何も掛けないのは不味いだろうという判断だ。こうして真太郎が起きるまでの間、普段弟が課題をやっているのを見ている時のように勝手に過ごしていたというのがこれまでの経緯である。
疑問として挙げられるだろうことを簡潔に纏めた兄は普段着であったから、帰ってきて着替えたりなど一通りのことは済ませているようだと考える。話を聞く限り、遅くに帰ってからこれまで起きていたと分かるのだが、近くにある時計が指しているのは夜中だ。
「兄さんは仕事帰りで疲れているんじゃないのか」
「まぁでも、明日ってか今日は休みだし。それにオレは元々遅くまで起きてることも結構あるからな」
気にするほどのことではないと答える。ついでに起きていた理由もただ弟を見ていたかったから、というだけの理由なのだ。真太郎が気にするようなことは何一つない。和成が好きでそうしただけのことである。
そうだとしても、仕事帰りということを気にしてしまうのが優しい弟である。かえって気にさせちゃったかなと思いながらも、今日は休日なのだから夜中にいつまでも起きて話すことはないだろう。
「とりあえず、もう遅いから寝ろよ。何か言いたいことがあるならまた起きてからな」
それだけを言って出て行こうとする兄に、真太郎は腕を掴んで引き留めた。きょとんとしながら「どうした?」と尋ねる兄。
時間的にも寝るべきなのは分かっているのだが、それでも引き留めてしまったのは反射みたいなものだ。最近は兄の仕事が忙しくて顔を合わせる機会が減っていたから、思わず手を伸ばしてしまった。質問にどう答えるか思案していると、小さく笑った兄はいつも通りの唐突な提案を持ちかけてくれた。
「寂しいなら一緒に寝る?」
兄さんはいつまで人を子ども扱いしているのだと突っ込みたくなるような発言だ。しかし、和成からすればいつまでも弟なのだから仕方がない。それにしたって、この年齢の弟に対しての発言にしてはおかしすぎるが、兄らしいといえば兄らしい。困っているところにすかさず助け船を出してくれるあたりは長所なのだろう。内容はともかく、だが。
「…………兄さん」
「冗談だって。この年でそれは厳しいもんな」
ついでに発言も若干ずれている気がしないが、それも兄だからだろう。普通のベッドに成人男性二人が厳しいというのも事実だ。それ以前に、もっと気にするべきこともあると思うのだが。
兄弟でありながらも自分達は付き合っているわけでもある。そう気安く言うべきことではないと思いはするものの、この兄相手にそれを考えるのは無駄なだけかもしれない。危機感を持てとは今更言わないけれど、こちらも男であるということを兄は分かっているのだろうかと時々思う。引き留めたのは真太郎の方ではあるけれども。
少しはそういうことも考えて欲しいものだが、この兄の場合はどうしようもないのだろう。引き留めておきながらどうしたものかと思いながら、無防備すぎる兄に思い切って口付けをしてみる。特別何かを期待したわけではなかったが、その反応は意外なものだった。
「真ちゃん、いきなりどうしたの……!?」
スキンシップレベルならいつも自分からしているというのに、耳まで赤くして色素の薄い瞳が真っ直ぐに翠を見た。
こんな反応もするんだなと新鮮に思いながら、そういえば高校生だった頃に真太郎が強引に唇を奪った時にも驚きながら頬を赤く染めていたと思い出す。考えてみれば、こういうことをするのは大抵兄の方からであった。要するに、されるのは慣れていないということだろうか。新しい発見に真太郎は兄をちょっとからかってみたくなった。
「駄目だったか?」
「そうじゃないけど、いきなりっつーか……珍しいっていうか……」
恋愛ごとに鈍いというか、ここまでくると初々しい。これだけモテる兄に経験がないということはないだろう。そう思ったものの、そういう話を聞いたことはなかったと思う。真太郎の方も恋愛系の話題を兄に話したしたことはないのだから、同じようなものだとは思っていたけれども。
「兄さんって、誰かと付き合ったことはあるのか?」
「急に何言い出すんだよ!?」
「なんとなく気になっただけなのだよ」
寝るという話はどこへ消えてしまったのか。そんなことはどちらの頭にも残っていない。今は二人して話に夢中だ。
なんとなくで尋ねてきた弟に、和成の方は内心どう答えるべきかと悩む。流石にこの年になって誰とも付き合ったことがないとはいわない。それはおそらく弟の方も同じなのだろうが、自分の恋愛経験を振り返るとも何とも言い難いことしか思い浮かばない。
「付き合ったことくらいはあるけど、長続きしたことはないんだよ。オレは部活ばっかりだったし」
適当にそれっぽいことを並べる。どれも嘘は吐いていない。ただし、部活のことを理解してくれた女性でも長続きはしなかった。彼女達は決まって同じことを言ったのだ。他に好きな人がいるでしょ、と。
和成自身にも自覚があっただけに、結局何度か付き合ったりしたことはあるものの経験豊富ではないのだ。かといって遊びで付き合ったことはない。そもそも、自覚があったといえど好きな人というのは世間一般的に恋愛対象に入らない人物。付き合った女性のことは大切にしていたが、それ以上に弟の方が好きという結論が出るばかりだっただけのだ。
「そういう真ちゃんは?」
「あるにはあるが、長続きをしたことはない」
それ以上のことは言わずに同じ質問を投げ掛けてみれば、似たような答えが返ってきた。弟も部活を結構やっていたからやはり似たような感じらしい。強豪で部活をやっていればそちらに時間がとられるのは仕方がないことだ。
実際は、真太郎の方も兄と似たようなことになっていたのだが、やはりそれは口にしなかった。兄弟揃って、互いのことが相当好きだったらしい。どちらも本人には話さないけれど。
「今は誰より兄さんを大切に想っている」
「それはオレだって同じだよ」
この年にもなれば付き合ったことはある。その人達のことも大切にはしていたけれど、今は目の前の兄弟が一番だ。いや、それでは少し語弊があるだろう。こういう言い方をすると他の人達に悪いけれど、ずっと前から兄弟のことを何より一番に考えていた。誰よりも大切な人。
「とりあえずさ、真ちゃん。今は寝よ?」
完全に忘れ去られていた話題に漸く軌道修正する。このままでは外が明るくなってしまう。いくらなんでもそれだけは避けたい。自分はともかく、弟にまで夜更かしをさせるわけにはいかない。真太郎の方は少しは睡眠を取っているとはいえ仮眠程度だ。色々と話したいこともあるけれど、それは太陽が昇ってからでも遅くはない。
「続きはまた起きてからな」
そう言って唇にキスを落とした。優しく笑っているけれど、仕事の疲れもあるのだろう。僅かに見えた疲労の色に真太郎も頷いた。
それにしても、やはり自分からだと何の問題もないらしい。ほんのりと頬は赤く染まっているけれど、されるよりも慣れているようだ。唇には滅多にしないとはいえ、しょっちゅう弟にキスをしている兄なのだからそれもそうだろう。
「おやすみ、真ちゃん」
外が明るくなってから続きを。一緒に過ごせる時間はまだまだあるのだから今はゆっくり休んで。
そして、数時間後。空に太陽が昇ってからまた一緒に。
fin