良い天気だなとぼんやり外を眺めながら思う。無数の星が広がる空の下、こっそり抜け出してそれらを見に行ったこともあった。夜に抜け出すなんて、そもそも抜け出すこと自体が悪いことだったが今回だけだからと無理を言ったのだ。それに幼馴染は溜め息を吐きながらも付き合ってくれた。そんな懐かしい記憶。
ガチャ、とドアの開く音がする。ノックも何もないからといって泥棒が来た訳でもないだろう。まぁ、この部屋を訪ねる人物の中にノックをしない人もいないのだが、今日はそうしてと頼んでいた人物が一人だけいる。
「急に呼び出して悪かったな」
「お前はオレをいつでも呼び出して良い立場だろう」
詫びることはない、とこの関係性について言及する。それを分かっているのだろうが分かっていないこの男に。
必要なら夜中だろうと気にせず呼んで良い立場だというのに時間を気にして謝る。それが彼らしいといえば彼らしいけれど、主人という立場の人間としては間違っている。
「そういうのオレは嫌だって知ってるだろ。にしても、珍しいな」
何が、とは問い返さなかった。それは緑間が意図的にやっていることだったから。普段なら高尾が言わなければ決して敬語を外さないけれど、今日は最初から敬語もなくして話している。
この主人がそれを望んでいることは知っている。それでも自分達の関係があるのだからと敬語を使う緑間だが、今日はその主人の意見を尊重することにしたのだ。まだ何も言われていないとはいえ、敬語を使ったのならすぐにやめろと言われるのだろうから。
「敬語を使われるのも嫌いなのだろう。それもどうかとは思うがな」
「真ちゃんは友達だから特別。いつも最初からそうしてくれると嬉しいんだけど?」
「無理を言うな」
使用人風情がタメ口で話して良いわけがない。友達がタメ口で話すのは普通だとこの主人は思っているけれど、その友達は使用人でもあるのだからそう簡単な話ではない。友達という関係は過去のものだと、少なくとも周りは思っている。今は主人と使用人という関係であると。緑間を含めた高尾以外の人間はみんなそう思っている。
だが、友達だと思っているのが高尾だけというのは少し違う。自分達は主人と使用人であるけれど、友達でもあると緑間は思っているから。立場上、そんなことは口に出来ないけれど高尾にはちゃんと分かっている。
「高尾」
呼ばばすぐに「何?」と笑う。伸ばした手を振り払うこともせず、そのまま好きにさせているのは友達だから。こんなに無防備で良いのかと思わなくもないが、彼がこんな風にさせるのは緑間相手の時だけだ。それ以外の人には好きにされるがままなんてことはない。そもそも触れようとする人間がいないけれど。
とはいえ、元々スキンシップが激しいのは緑間よりも高尾の方だ。昔はよく抱き着いてきたりと、それはもう色々と凄かった。今でこそ落ち着いたけれど、それは年齢的なものだけではないのだろう。
「お前は、強いな」
何と言うべきか迷った末に強いという言葉で表現した。しかし、高尾はそれに苦笑いを浮かべる。オレなんて全然強くないよ、と。強かったらこんな時間にお前を呼び出したりはしないと首を振る。
現在の時刻は日付が変わってから長針が一周した深夜一時過ぎ。普通なら非常識と取られそうな時間だが、高尾の呼び出しに緑間はすぐにやって来てくれた。それは彼が使用人だからか、それとも友達だからか。その両方だろう。
「真ちゃん、オレやっぱ不安なんだよ。オレはまだ知らないことも多いし、跡取りとしての自覚もなければそんな器でもない。でもさ、オレがどう思っていようと時間は流れてるんだよな」
今だって一秒、また一秒と時計は時を刻んでいる。時間は待ってはくれないのだ。何をしていようと、何もしていなかろうと流れていく。人は時間の流れには逆らえない。いつの間にこんなに時間が流れてしまったのだろうか。彼とこの星空の下に抜け出したのはいつのことだったか。それはもう遠い昔の記憶だ。
漠然とした不安が胸に広がる。知識としてこれまで教えられてきたことは頭の中に入っている。けれど、それだけでどうにかなるものでもない。はっきりとした言葉は見つからないけれど、ただ怖い。友がこんなに近くにいてくれてもその不安は消えてくれない。
「ねぇ、真ちゃん」
頬に触れていた緑間の手に自分の手を重ねる。高尾から緑間に触れるのは随分久しい気がする。緑間から触れるのも久し振りだが、おそらくそれ以上に高尾から触ったのは久し振りだ。
それも全部彼を取り巻く環境がそうさせてしまった。人に敬語を使うなと言ったりするくせに、けれどそれもしょうがないのだろう。何も変わっていないように見えても、二人の関係が変わったその時からお互いに少しずつ変わっていった。どちらが変わったのかといえば、一見緑間に見えて実は高尾の方だろう。
「お前は、オレにどうして欲しい」
緑間に聞けるのはそれだけだ。友として、お前は何を望んでいるのか。どうすればお前の背負っているものを軽くしてやれるのか。こちらから何も出来ない今、彼の希望を聞いてやることしか出来ない。
けれど、それだけで十分だ。緑間のその優しさが高尾には心地良い。友としてではなくても彼がずっと隣にいてくれたから、高尾は迷わずに進めているのだろう。きっと本人はそのことを知らないのだろうが、彼が隣にいてさえくれればそれで良い。
「真ちゃんはそのままで良いよ。しいて言うなら敬語と敬称を――」
「それは出来ないと言っているだろう。……お前と二人きりの時なら考えてやるが」
これが緑間なりの譲歩だ。どっちみち、今だって毎回のように高尾が今まで通りに話せと言って二人の時は敬語などを使わないことも多い。第三者がいる時は無理だが、それは高尾もしょうがないと思っている。二人のこの関係を主人と使用人だと強調しているのは、当人達以外の周りの人間なのだから。そこまで我儘を言うつもりはない。
「じゃあそれでよろしく。これでもう喧嘩しなくて済むな」
「別に喧嘩というほどのことはしていないだろ」
「まぁな。でも揉めなくて済むのは良いことじゃん」
揉めるというほどの言い争いもしていないけれど、そのことについてはもう良いだろう。不毛なやり取りがなくなるのならそれで良い。もっと早くにこの結論を出していれば良かったのだろうが、お互いに譲れないところがあったのだから仕方がない。
それならどうして急に、と思うかもしれないがこれは急なことでも何でもない。今日こういう話になると二人が思っていた訳ではないけれど、今日が特別な日であるということくらいは二人の共通認識だ。
高尾がそっと手を離すと、緑間もそれに合わせるように手を下ろす。ふと窓に向けられた視線は空に輝く星に注がれる。
「また抜け出すか」
「久し振りに? そう言ったら真ちゃんは付き合ってくれんの?」
「少しだけならな。バレないように気を付けるのだよ」
「そんなヘマしねーよ」
そう言って窓から飛び降りるのは良いのか悪いのか。廊下を通るよりも人目にはつかないだろうがもう少し何とかならなかったのか、とは聞くだけ無駄だろう。時間も時間なだけにこれならバレることもなさそうだと思いながら緑間もその後を追う。
□ □ □
この季節の夜は肌寒いけれど、あまり長居しなければ大丈夫だろう。こっそり抜け出すのはこれが二度目だが、目的が同じだから行き先も変わらず。数年前の記憶とはいえ案外覚えているものだ。
辿り着いたその場所は余計な障害物もなく、星空を一面に見渡せる特等席。
「スッゲーな! 真ちゃん、どこ見ても星でいっぱいだぜ」
そうだな、とはしゃぐ高尾の後ろ姿を眺める。数年経っても何も変わらないのは高尾の反応も同じだったらしい。星くらい毎日のように見ているけれど、こういう場所で見るのではやはり違うものだ。
何も二人は外で遊んだことがない訳ではない。むしろ昔はよく外でも遊んでいた。けれど子供が夜中に外で遊ぶのは大人も許してくれない。それでもこの星空を見たくて抜け出したのがあの時のこと。いつかまたこうやって星空を見れたら良いなと話してはいたけれど、それが同じような形で実現するとは思っていなかった。
「あまり騒ぐと気付かれるぞ」
「大丈夫だろ。どんだけ離れてると思ってんだよ」
この距離で聞こえたら逆に驚く。言うほど離れているわけではないけれど、少し騒いだくらいで聞こえるような距離でもない。
あそこに見えるのってさと話す姿は昔と何も変わらない。このまま変わらずにいられたら、なんて柄にもないことを思う。それは今日と云う日のせいなのだろうか。それとも自分達が年を取っただけなのか。
不意にこちらを見た色素の薄い瞳が、少し戸惑いがちに視線を彷徨わせる。どうかしたのかと問おうとしたところでそれより先に手を掴まれた。
この感じは久し振りだ。前はよく高尾が緑間の手を引いてあちこちに連れ回していた。ほら早く、と時間があっても走り出して。
『おい、高尾。そこまで急ぐことはないだろう』
『いーじゃん! 早く行けばその分遊べるんだし』
そんな適当な理由を口にしては先を急いだ。それで短縮される時間なんて高が知れているが、気分の問題というやつだろう。今だって同じ理由で高尾はこの手を引いているに違いない。
「走ると転ぶぞ」と冗談交じりに言えば「その時は助けてくれるんだろ?」とこちらも冗談で返してくれる。成長したというかなんというか。
広い草原の真ん中まで来たところで漸く足を止める。手は繋いだまま、見上げた空には無数の星。今日は月が出ているからその明かりのお蔭でそこまで暗くもない。だから街灯のないこの場所でもお互いの顔がよく見える。
「真ちゃん、覚えてる? 昔ここに来た時、またいつか二人でこの星空を見れたら良いねって話したこと」
「あぁ。また抜け出して見ることになるとは思っていなかったがな」
「確かに。次に来る時は普通に……いや、お前とまたこの景色を見れて良かった」
飲み込まれた言葉。その先に続くであろう言葉は緑間も分かっている。あの頃はただ友達として一緒に過ごしていたけれど、いずれはこういう日が来ることをお互いに分かっていた。無理だと分かっていながらもそうなれば良いと、そんな願いをこの星達に込めた。
高尾の言いたいことくらい分かる。彼が何を思っているのかも。繋がれた手が僅かに震えていることも全部気付いている。まずこの男がこんな非常識と思われる時間に呼び出した時点で察していた。本人が明確なことを口にしないから気付かない振りをしてきたが、それもそろそろ限界だ。
「……たまには素直になれ。甘えたい時は甘えれば良い」
甘えたいのとは違うのだろうが、頼るというのも違うだろう。話すことで楽になるのなら話せば良いし、ただ一緒にいて欲しいというのなら気が済むまで一緒にいてやる。いつものように話してしまえば良いのにとは思えど、本人も気持ちの整理が出来ていないのなら仕方がないのかもしれない。
「真ちゃんってオレのこと甘やかすよな」
「オレにしか甘えられない奴がよく言う」
いくら使用人相手といえど、気心の知れた相手でなければこんな風に何でも話したりは出来ない。親になんて甘えられる環境ではなかった。結果、こうして友人に甘えることになっている。
こういう時、自分達が幼馴染で良かったと思う。そうでなければこの気持ちをどこに吐き出せば良かったのか。それならそれでお互いにどうにかしていたのかもしれないが、幼馴染という関係である彼等にはそんな有りもしない想像は出来ない。
「……オレは、お前を素直に祝ってやるべきなんだろうな」
こんな言い回しをしてしまうのは、素直に祝おうと思えない自分がいるから。けれど本当なら素直に祝うべきことなのだろう。友達としても、彼の使用人としても。しかし、友達としては喜べない面もある。それはこちらの勝手な想像かもしれないが、今日と云う日を祝いたい気持ちと今日が来なければ良いなんて思っていた気持ちは正直なところ半々ぐらいだ。
今日、十一月二十一日は高尾の誕生日である。
友達としても使用人としても彼の誕生日は祝いたい。だがその反面、友達としては祝って良いのか分からないでいる。それは、高尾がこの日を望んでいるとは言い難かったからだ。生まれたことに後悔しているとかの話ではなく、この日を境に高尾は親からその席を譲り受けると決まっていたから。
「オレはお前に出会えて良かったと思っている。誕生日は当然大切な日だ。だが、お前がこの家の跡を継ぐことを素直に喜べないのだよ。お前はまた、一人で遠くに行かなければならない」
主人と使用人。友達という関係ではなくなったその時、もう隣に並んで歩くことは出来ないのだと知った。高尾は何があっても一人で歩いて行かなければならない。緑間にはそれを陰で支えてやることしか出来なくなった。当たり前のように笑っていられた日々など所詮幻想でしかなかったのだ。そんなものは過去の幻。あの頃とは違うのだと、誰もが言い聞かせた。
それでも二人は友達だったし、この先も主人と使用人という関係で間違っているわけではない。けれど、この家を継いで全ての上に立った時。そこにある主従関係はまた違ったものへと変化する。一度離れてしまった二つの線は二度と交差しないのだ。一度離れたら最後、二つの距離は開いていくばかり。
「お前は周りの環境に合わせて変わるのだろう。それは良いことなんだろうが、そのせいでお前が自分を失くしていくのを見たくはない」
たとえ高尾がどう変わろうと、緑間はいつまでも高尾の友人であり彼の味方だ。ここで嫌だと言おうが現実は何も変わらずに決められたシナリオに沿って進んでいく。この発言が友を困らせるとしても、緑間はこれからも高尾に笑っていて欲しいのだ。苦しむ姿なんて見たくない、友として当然だ。
だが、子供ではないのだからこんなことを言うのはこれっきりだ。高尾を困らせたい訳ではないし、無意味なことを言ってもしょうがない。だから最後に伝えるのは今日と云う日への祝福。
「高尾、オレはいつまでもお前の友達だ。それは忘れるな。それと、誕生日おめでとう」
大事なことが一番最後になってしまったけれど、それも大事なことだからこそだということにしておこう。誕生日を祝う気持ちはちゃんとある。それ以外の気持ちもあるけれど、それは本人も同じだろう。複雑な心境なのはどちらもだ。
高尾が非常識な時間に緑間を呼んだ理由もそれだ。一人だと考えなくても良いことまで考えてしまう。形のない不安が胸に溢れ、何も見えない未来への恐怖が胸を占めた。何かをして欲しいわけじゃなかったけれど、誰かに傍にいて欲しかった。そして、その誰かというのが高尾の中で緑間以外にいなかった。
「……真ちゃんって、本当、何でも分かるよな。もしかして魔法使い?」
「お前ほどではないのだよ」
「なんだよ、それ。まぁそれだけ一緒にいるってことなのかな。真ちゃんがこんなに話をするなんて、やっぱり今日は珍しい日だな」
「珍しい日ではなく、めでたい日だろう。今日だけだ」
「オレは毎日でも良いんだけどな」
だからそういう無茶は言うな、と怒られて高尾は笑う。つられて緑間も笑う。何も変わらない、このままの関係でいつまでもいられたら良いなんて夢物語でしかないのだろう。けれど、それを夢で終わらせたくないと思ったのはどちらだったか。
隣に並んでいた体をくるっと回し、空いている方の手で胸元を掴むとそのまま己の唇を押し当てる。それからすぐに離れた高尾はほんのりと頬を染めたままにかっと笑って。
「ありがとな! オレ、真ちゃんと友達で良かった」
その表情を見て思う。コイツの中で何かが吹っ切れたのだと。それでいつも通りにいられるのならもう良いだろう。心配することはないのだ。
色々とごちゃごちゃ考えたりはしたけれど、結局自分達の根本にあるものはどうあったって変わらない。周りがどう言おうと、環境が変わろうとも。今だってそうなのだ。この先だって変わりっこない。それなら余計なことを考えるより楽しく過ごした方が良いに決まっている。
「このまま海でも目指してみる? 海とか行ったことないよな」
「馬鹿を言うな。抜け出すのも少しだけだという約束だろう。行きたいのなら別の日にしろ」
日を改めたら付き合ってくれるの?と、高尾は楽しげに尋ねる。なんだか心配そのものが杞憂だったのではないかと思えてくるが、彼が今まで通りの彼でいられるのなら良いかと結論付けて肯定だけ返しておく。それもまたいつになるのか分からない、明確な約束ではないけれど約束があるだけで十分だ。それが次へとつながるのだから。
「そろそろ帰るぞ」
「へいへい。約束、忘れんなよ?」
「分かっている」
繋いだ手はまだもう少しこのままで。友達と並んで帰ろう。
この特別な日に友達という絆を確かめ合う