ザァ……ザァ……と、波の音が聞こえてくる。この音を聞いていると落ち着く。
 ゆっくりと風が通り過ぎて行く。それを肌で感じながらぼんやりと空を眺める。今日は天気も良く、見渡す限りの星空が眼前に広がっていた。


「ここに居たんだな」


 ギィ、と板が軋む音と共に足音が近づいてくる。振り返れば色素の薄い瞳がこちらを見ていた。
 すぐ隣までやって来たその男に「何か用か」と問うと、そういう訳ではないと返ってきた。部屋に戻ったらお前の姿がなかったから探しに出て来たのだけで特別用事はない。ここに来たのは、いつもいるはずの彼が居なかったからというだけのシンプルな理由だ。


「やっぱり外の方が涼しいな」

「風が吹いているからな」


 室内もそこまで暑いとはいわないが、季節が季節なだけに外の方が直接風に当たることが出来て涼しさを感じる。海がすぐ傍にあるのも一つの要因だろう。
 二人で静かに空を見上げる。あそこに見えるのは白鳥座だっけ、と空に浮かぶ星座を尋ねれば隣から肯定が返ってくる。そのまま向こうに見えているのはと何度かやり取りを繰り返し、辿って行く先に見つけたのは真ん丸の月。


「今日は月が綺麗だな」


 ぽつりと零したそれにも肯定で返ってくる。綺麗な月が夜空で一際大きな輝きを放ち、水面にも丸いその形がくっきりと映し出されている。


「なあ真ちゃん、月が綺麗ってそのままの意味だけじゃないって知ってる?」


 この光景を見たら純粋に綺麗だなという感想も抱くけれど、この言葉にはもう一つ別の意味もある。どこかの国の誰かがある言葉をそう訳したらしい。
 曖昧なのは人伝に聞いた話だからで、それもそういえばと他愛のない雑談として聞かされた話だった。その時はへぇと思う程度で流してしまったのだが、今夜は丁度その月が見えていた。いや、月くらい新月でない限りは毎日見えているものではあるがこうしてゆっくり見ることはあまりない。だからこの機会に聞いてみた。


「そのままの意味ではなくて、か」

「そ。まあ今日の月は普通に綺麗だけどな」


 どういう意味だと思う、と問う。先程の言葉に隠されたもう一つの意味を。
 月に向けられていた色素の薄い瞳がこちらを向く。その顔はどこか楽しげで、それは言葉の意味を理解しているからなのだろう。どこでも聞くような有名な話でもない。その話の元である国ではどうか分からないが、少なくとも自分達の身近では誰もが知っているようなことではなかった。

 とはいえ、緑間が博識であることくらい高尾も知っているだろう。この辺りでは決して有名な話ではなく、本の一文に記されている程度でしかないけれど。
 そう、本でちょっと見たことがある者が知っている程度の知識。望んでなった訳ではないものの海軍に属していた緑間は多くの知識を有しており、更にいえばそこにある本もそれなりに読んでいる訳で。


「つまり、こういうことだろう」


 白く細長い指で顎をくいっと持ち上げてそのまま唇が重ねられる。暫くしてからそっと離れれば、夜でも分かるくらいに高尾の頬が朱に染まっていた。


「オレが知らないと思ったか? 前に本で読んだことがあるのだよ。オレはお前がその意味を知っていることの方が驚いたが」

「…………そういや色々知ってたな、お前は」


 どこかで知る機会があったとしてもおかしくはないことに今更ながらに気が付く。冷静に考えれば分かったことかもしれないが、いくら博識とはいえこんなことまで知っているとは思わなかったというのも本音だ。どうせ読んだことがあるといっても、何かの本で偶々見かけたのを覚えていたといったところだろう。全く、自分の知らない間にどれくらいの知識を身に付けたのか。
 逸らした視線を元に戻せば、小さく笑みを浮かべている翡翠とぶつかる。なんだかいまいち納得がいかなくて、僅かにその腕を引くと意味を理解した幼馴染はそのまますんなりと腕を引かれてくれた。


「好きだよ、誰よりもずっと。生まれて来てくれてありがとう」


 意味が伝わってしまっているのなら今の自分達の言葉で伝えてしまおう。予定とは少々違う結果になってしまったけれどそれはもう良いことにして伝えたかった言葉を伝えることにする。
 一瞬きょとんとした緑間だったがすぐに意味は理解したらしい。ああ、と視線を再び空に向ければそこには真ん丸の月――満月が浮かんでいた。


「そういえばこの季節だったか」

「もっとちゃんと祝えれば良かったんだけど、なかなか思いつかなくて」

「十分だ。ありがとう、和」


 誕生日を知らない二人が自分達で決めた誕生日。明確な日にちではないけれど、あの時からずっとこの日を誕生日として生きてきた。仲間の誕生日にはいつもより豪華な料理やプレゼントを用意してみんなで笑い合っていたあの頃。そんな風に祝えたらとは思っていたものの久し振りにいざ祝おうとしたら何をすれば良いのか迷って結局当日になってしまった。
 まともに誕生日が祝えなかったことに高尾は謝罪をするが、この日を覚えていてくれて祝ってくれただけで緑間は十分だった。彼の誕生日だって祝いの言葉を贈るだけで終わっているのだから気にすることはない。それに、あの頃と今は違うのだから同じでなくて良いのだ。


「お前が祝ってくれることがオレは一番嬉しい」


 そう伝えれば、高尾は幸せそうに笑う。そんな高尾の笑顔を見られることが緑間にとっては幸せなことで、ただ一緒に居られればそれ以上のことなんて望んでいないのだ。緑間も、高尾も。だから誕生日だからと特別なことをする必要もない。


「誕生日おめでとう、真ちゃん」


 これからも幼馴染と、それからこの船の仲間達と一緒に居られれば。それが二人の願い。大切な人達と一緒に居られることが何よりの幸せなのだと、身を持って知っているから。何気ない会話や当たり前の日常、そのどれもが楽しくて幸せな日々。
 この先もずっと、こうやってお互いの誕生日を祝いながらみんなと船旅を続けたい。そこで色んな思い出を作っていこう。特別なものなどいらないから、そういった日常を大切にいつも笑い合っていたい。みんなと、大切な彼と一緒に。







(特別なものはいらない。ただ君がこの日に祝ってくれればそれだけで)
(だから来年も再来年も、特別な満月の日を祝い合おう)