『よう、緑間真太郎クン』


 初めてソイツに出会ったのは高校に入学して間もなくのことだ。ソイツに対する第一印象は軽薄そうな奴というあまり良いものではなかった。
 それが変わったのは、同じバスケというスポーツに打ち込む姿を見た時だ。普段は騒がしい男のバスケに対する姿勢は真剣で、ひたすらに真っ直ぐ。たった一つのポジションを勝ち取るために必死だった。

 当たり前といえば当たり前と思うかもしれない。ここは都内でも屈指の強豪校で、そこでバスケをやろうと入部してきたような奴だ。みんながみんな上を目指し、強くなる為、そういう環境でバスケをする為に集まった部員達。
 だがここ――秀徳高校の練習はかなり過酷だった。中学でそれなりの実力を持っていた奴等が次々と辞めていった。生半可な気持ちでは生き残れない、それが強豪校でバスケをするということだ。


『オレに特別な敵意でもあるのか?』


 バスケ部に入部してひと月近く経った頃だっただろうか。練習が終わった後、居残り練習をしていた時にソイツに尋ねたことがあった。何かにつけて人と張り合うようなことをしてくるから何かあるのかと。
 すると奴は、中学の時にオレに負けたことがあるのだと話した。本当はオレを倒す為に秀徳に入学したが、そこでオレ達はチームメイトになってしまった。張り合っているように見えたのはそのせいじゃないかと言った。そして、オレに自分のことを認めさせてやるのだと宣言した。


『そのうち思わずうなるようなパスしてやっから覚えとけよ、真ちゃん!』


 そういえば、コイツがそんなふざけた名前で呼ぶようになったのはこの頃からだったなと思い出す。馴れ馴れしいからやめろと何度言ってもやめず、最初こそ「緑間」と呼ぶことも多かったが今では「真ちゃん」と呼ぶことの方が多くなった。
 むしろ今ではそう呼ぶことの方が普通になっているな、と思いながらゆっくりと瞼を持ち上げる。


「真ちゃん、そろそろ起きろよ」


 聞こえてきた声に「ああ」と短く返せば、もうすぐ朝飯出来るからと言って足音が遠く離れて行くのが分かった。
 全く、いつからその呼び方が馴染むようになったのだろう。考えたところで正確な答えを出せる自信はない。けれど、アイツが隣に居ることが当たり前になる頃にはもうそうだったのではないかと思う。

 眼鏡を掛けて服を着替え、それから部屋を出てリビングのテーブルにつく。この部屋で生活を始めたのは高校を卒業したのと同時だった。大学進学を機に一人暮らしをするつもりだったオレ達は、それならルームシェアをした方が安いという理由で二人暮らしを始めた。


「今日はバイトはないのか?」

「あれ、言ってなかったっけ? 本当はバイトの予定だったんだけど、変わって欲しいって頼まれてさ」


 別に予定もなかったから変わったんだと話しながら、高尾はフライパンを動かしている。休みの日は朝からバイトに行くこともあるが、ゆっくりしているのはそれが理由かと合点がいく。


「真ちゃんは何か予定あんの?」

「いや、特にはないが」

「じゃあ買い物行かねぇ? 色々と買いたいモンもあるし」


 食べ物だったり日用品だったり、外に出たついでに買えば良いと思うようなものも多いが、たまには一緒に出掛けないかという話のようだ。
 特に予定のなかったオレは考えることもなく了承を返した。こちらも見たいと思っていたものがあったから丁度良い。何より、たまには一緒に出掛けたいという気持ちもあった。


「そういや一緒に出掛けるって久し振りだよな。最近はお互い忙しかったし」

「お前がバイトを入れ過ぎなだけだろう」

「それは一人辞めたからだって言っただろ。まあ、この間新人さんが入ってきたからもう元に戻るけど」


 元に戻るといっても、空いている日にはどんどんバイトを入れるような奴だ。勿論、全く休みがないというわけではない。だが、高尾の予定は大抵がバイトで埋まっている。それを悪いとは言わないが、そこまでバイト漬けの毎日を送らなくても良いのではないかとは思わなくもない。


「つーか、真ちゃんだってレポートで忙しそうにしてたじゃん」

「否定はしないが、そのレポートはもう片付いたのだよ」


 そうなんだと言いながら、高尾は出来たばかりの朝食を並べる。
 高校を卒業して大学生になったオレ達は現在別々の大学に通っている。お互いの大学の中間地点くらいに借りたのがこの部屋で、大学へは徒歩十分ほどにある駅からそれぞれ反対方向に数駅で辿り着く。


「課題ばっかで大変だな」


 朝食を運び終え、高尾が椅子に座ったところで「いただきます」と両手を合わせた。高尾も別段料理が得意というわけではないのだが、こうして二人暮らしをしているうちに随分と腕を上げた。今ではその辺の男子大学生よりもよっぽど上手いだろう。
 というのも、家事は分担制にしようとなった時。料理は基本的に高尾がやることになったのだ。それはこっちから言ったわけではなく、調理実習でもオレの料理の腕を見ている高尾が自分でやると言い出したことである。そうして料理を続けて行くうちに自然とスキルアップしていったというわけだ。


「そういえば、お前と出会った頃の夢を見たのだよ」


 朝食を食べながら、今朝見た夢のことを思い出して口にすれば「へぇ?」と色素の薄い瞳がこちらを見た。


「出会った頃って、高校の?」

「……そうだが、中学の時の話ならもうしただろ」


 勝ち続ければより多くの学校と戦うことになる。その中のたった一校の選手を覚えていなくても無理はない。高尾自身もそう言っていたが、わざわざ聞いてきたのはあの時のオレの発言が理由だろう。
 実際、戦ってきた相手を全部覚えているなんて相当の記憶力がなければ無理な話だ。オレにもそれほどの記憶力などなく、中学のどこかの試合で一度戦った高尾のことは覚えていなかった。だが。


『中学で戦ったことがある、と言っていたな』

『は? いきなり何だよ』

『その目には見覚えがあると思ったのだよ』


 あれは高一の秋ぐらいのことだったか。居残り練習中にふと思い出してそう話せば、ぽかんとしてこちらを見た高尾が数秒後に「はあ!?」と遅れて大声を上げた。
 次いで「覚えてないんじゃなかったのかよ」と聞いてくるから「覚えてるのはお前のその目だ」と答えてやったのだが、意味が解らないと言いたげな視線で返された。だからあれがお前かは覚えていなかったけれど、その目が印象的でなんとなく覚えているのだと言えば漸く納得してくれた。


「大体、お前だって戦ってきた相手の顔を全員覚えているわけではないだろう」

「んー……まあ、だからそのこと自体はどうこう言ってねぇじゃん?」


 それはその通りだが、まだ数年前のそのことをしっかり覚えてはいるらしい。倒したいと思っていた相手が自分と同じチームメイトだった、などという出会いはそう忘れられるものでもないのだろうが。


「けど、あの頃は本当。ただひたすらバスケしてた毎日だったな」


 つい二年前まではそのバスケ漬けの毎日を送っていたというのに、なんだか遠い日の話をしているようだ。それもオレ達がバスケというスポーツから離れたからだろう。
 高校三年、進路を決めるその時にオレ達はバスケを続けるという道を選ばなかった。その選択肢がなかったわけではない。幾つかの大学からオレも高尾も声を掛けられていたけれど、それを断って今の進路を選んだ。それだけのことだ。


「合宿とか練習量マジ半端なかったよな。今やったら死ぬんじゃね?」

「体力が落ちているのは間違いないだろうな」


 大学でバスケを続けていなくてもオレ達はバスケを辞めたわけではないし、バスケが嫌いになったわけでもない。将来の道として選ばなかったというだけの話だ。時間があればストバス場に行ったりもしている。
 とはいえ、部活の運動量とはとても比べ物にならない程度しかやっていないのが現状だ。通常の練習でさえ今はもうキツいのかもしれない。


「……あの頃は、卒業してからも真ちゃんと一緒に居るとは思わなかったな」


 昔を思い返すようにしながら呟かれたそれに「そうだな」とこちらも同意を示す。


「お前は出会った頃に言っていたことを有言実行したな」

「当たり前だろ。オレはお前の相棒だぜ?」


 そう言って高尾は笑った。それにつられるようにオレも小さく口元に笑みを浮かべる。
 パスがなければシュートは撃てない。シューターであるオレとパスを生業とする高尾は、最初は同じ一年生レギュラーとして一括りにされていた。
 だが、いつからかオレ達は同学年のレギュラー同士ではなく相棒として見られるようになった。チームメイトからも他校からも、そしてオレ達自身も。コイツが相棒で良かったと思っている。


「でも、お前に認められた時は嬉しかったな」

「あれだけ努力し、人事を尽くしている人間を認めない奴は居ないのだよ」


 言い切れば「変わんねぇな」などと言われたが、たかが数年でそれほど変わりはしないだろう。変わらないのは目の前のこの男も同じだ。……お互い、他人から指摘されることはあるが。
 秀徳高校で出会ったオレ達はかれこれ五年の付き合いになる。高校時代は一緒に行動することも多く、そして今は同じ屋根の下で暮らしている。そのせいかどうかは分からないが、友人に変わったと言われることはある。その際、一緒に居ると似てくるものだとか言われたがオレ達自身は特に変わっていないと思っている。


「つーかさ、バスケの話してたらバスケしたくなるな」


 今日休みだし、と続けられた言葉の意味など考えなくても分かる。バスケから離れようとバスケが好きなことは変わらない。バスケが好きだという気持ちは昔からオレ達に共通しているものだ。


「バイトばかりで腕が鈍ってるんじゃないか?」

「そっちこそ、天才シューターと呼ばれたスリーの腕は鈍ってねぇよな?」


 そんなことを言い合って笑う。このなんてことない日常が特別で、だからオレ達はルームシェアという名目で一緒に暮らすことを決めた。


「じゃあ久し振りに1on1しようぜ。絶対負けねぇから」


 鋭い瞳が真っ直ぐに見つめてくる。どうやら負けず嫌いは変わらないらしい。
 だが、これが高尾和成という男だ。いつだって、どんな時だって強い目をしている。中学の時、唯一最後まで諦めの色を見せなかったその目だけがオレの印象に残っていた。
 それが高尾だったと気が付くまでに時間は要してしまったが、この男は普段とバスケをする時では全く違う。第一印象とは全然違う人間だと理解したのはいつだっただろうか。


「ハンデはどうする?」

「いらねーよ。むしろレポートばっかやってるお前の方が訛ってるんじゃねぇ?」

「今のうちに言っておけ」


 にゃにおう、と反論するのに口角を持ち上げながら「さっさと片付けるぞ」と食べ終わった食器を持ってキッチンへと向かう。すると高尾もすぐに自分の食器をまとめてキッチンに入ってくる。そして二人で食器を洗う作業と拭く作業を分担して片付けた。早く片付けを終わらせる為に。
 食器を片付け終えた後は残りの家事を済ませて出掛ける支度をする。といっても、出掛ける支度は数分も掛からずに終了だ。バスケをするのに必要なものは殆どない。


「負けた方が今日の荷物持ちでどうよ?」

「後悔しても知らないのだよ」


 それはこっちの台詞だと言うような瞳で「んじゃ決まりな!」とバスケットボールを手に取る。

 太陽が燦々と輝く青い空の下。
 24.5cmのボールは大きな弧を描いた。











fin