ガチャ、という音がしたと思って間もなくのことだった。ドサッという音が響き、玄関まで駆けつけるとそこにはこの部屋のもう一人の住人が倒れていた。
 顔は赤く、呼吸も荒い。どう見ても風邪だろう。こんな体でこの時間までバイトをしていたのかと呆れるが、今はまず休ませてやることが先だとその身体を抱えてベッドまで運んだ。








 大学生になってからはお互いに一人暮らし。どうせならルームシェアをした方が安く済むこと、一緒の時間が増えることから高尾は緑間の住んでいた部屋に引っ越した。
 主に後者の理由でルームシェアを初めてからひと月が経っただろうか。大学にバイトと、これまで通りの生活をしながらも同じ部屋で暮らすことで共に居られる時間は増えた。だが。


(前からこんなことをしていたわけではないだろうな……)


 一人暮らしをしていた高尾が、どんな生活を送っていたかは緑間も知らない。大学とバイトで忙しい生活を送っていたのは知っていたが、以前から倒れるまでやっていたわけではないだろう。そう思いたいが、この男の性格を考えるとどうなのだろうか。


「あれ、オレ…………」

「気が付いたか」


 身体を起こそうとする高尾にまだ寝ていろと言えば、大人しくそのまま横になった。それからお前は帰って来てすぐに玄関で倒れたんだと教えてやれば、気まずそうな顔をしながら「ごめん」と謝られた。


「謝らなくて良いが、体調が悪い時くらい休め」

「うん、ごめん。でも今日提出しなくちゃいけないものがあって」

「それでもバイトは休めば良かっただろう」


 緑間の言うことは正論だ。倒れるくらいなら大学も一日くらい休んでも良いだろうと思うのだが、提出しなければならないものがあったというのなら百歩譲って仕方がないとしよう。けれど、その後のバイトまでしっかりこなして帰ってこなくても良かっただろう。
 言えば、高尾は「それは……」と言いながら顔を逸らした。高熱を出している人間に説教をするつもりはないが、一人暮らしをしていたのだから今までは体調管理ぐらい出来ていたのではないかと思う。


「今までもこんなことはよくあったのか?」

「……そんなには、ねぇけど」


 それはつまり、時々はあったということか。高尾も返答に緑間は思わず溜め息が零れる。それでよく今までやってこれたなとは思うが、過ぎたことをどうこう言っても仕様がない。


「お前はもう少し自分の体を気にしろ」


 これはいくらなんでも無頓着すぎる。大体、倒れるほどの高熱を出しているというのに朝は何ともなかったというのだろうか。
 そう思ったものの、今朝会った時は具合が悪そうにも見えなかった。朝はそこまで酷くなかったから本人も気付かなかったのか、それともその時点で無理をしていたのか。分からないことは本人に聞くのが手っ取り早い。


「それで、いつから自分の体調不良に気付いていたのだよ」


 何も答えないというのは、随分前から気付いていたと受け取って良いのだろうか。要するに答え辛い答えなのだろう。
 どうしてそれで放っておいたんだと本気で思うが、もう一度問いを繰り返せば観念したらしい。相変わらずこちらを見ないが、それでも質問に答えるべく口を開いた。


「……朝、起きた時には怠かったけど、今日は行かなくちゃまずかったから」


 どうやら本人には朝から自覚があったらしい。だがこれでよくバイトまでもったなと思うのだが、そこのところはどうなのか。そう問えば、言い辛そうにしながらもこの男は予想外のことを口にした。


「それはその……ちょっと誤魔化せば大丈夫かなって……」


 何をだ、とは聞かなくてもこの話の流れで分かる。そうしたら意外と平気そうだったからバイトも出たらしい。これを馬鹿だと言わずして何と言えというのか。呆れてものが言えない。
 具体的にどうしたのかは分からないが、この男は魔法という手段を使って自分の体調不良を誤魔化していたのだ。そんなことをして何の意味があるんだと言いたいが、今回の場合では課題を提出する為の行為だったのだろう。納得は出来ないが。


「お前はそんなことに魔法を使うな」

「今日だけは行く必要があったんだって」

「それで自分の体調管理が行き届かなくなって、お前は今そこに居るんだが」


 緑間の言葉に高尾は何も言い返せない。今の高尾には迷惑を掛けて悪かったと謝ることしか出来ない。その謝罪に緑間も溜め息しか出ない。
 ものには限度がある。百歩、千歩譲って提出物の為に使ったというだけなら良いとしよう。そんなものを使っていることは分かっていただろうに、どうしてそこでこれならバイトも平気そうだと思ってしまったのか。倒れるのも当然である。


「大体、それなら風邪くらい魔法で治したらどうだ」

「前にも言ったけど、魔法は万能じゃねーんだよ。そう都合よく風邪を治したりも出来ない」


 風邪は治せないのに、風邪だということを誤魔化せるのか。緑間にとっては疑問でしかないが、それとこれとは完全に別物らしい。催眠術とかそういうものもあるだろうと言われても、それと魔法はやはり別物だ。 全く、都合が良いのはどちらだと言いたい。


「だから風邪は普通に寝て治すしか……」


 言いながらゴホゴホと咳き込むと「大丈夫か?」と緑間が心配そうにこちらを見る。それに首を縦に振って答えながらゆっくり体を起こすと、差し出されたコップを素直に受け取って一口飲んだ。


「すまない。無理をさせたか」

「ううん、オレの方こそごめん」


 倒れた時点でその魔法の効果も切れたのだろう。辛そうにしている高尾に「ちょっと待ってろ」と言って、風邪薬を持ってきてやる。本当なら医者に行った方が良いのだろうが、この時間ではとっくに閉まっている。医者に行くとしても明日になってからだろう。
 高尾は緑間から貰った薬を飲み終えると、そのままベッドに横になった。こんなに酷い風邪を引いたのはいつ以来だろう。考えたところで、今の高尾にまともな思考回路はない。早々に考えるのをやめて、すぐそばの翡翠を見る。


「ありがとう、真ちゃん。うつるからもういいよ」

「何を馬鹿なことを言っているのだよ。オレは自分の体調管理くらいきちんと出来る」


 余計な心配はするな、と真っ直ぐな瞳に言われたような気がした。
 頬に触れた手が冷たくて、その冷たさが気持ちよくて高尾はゆっくりと瞼を下ろした。それから安定した呼吸が聞こえてきたのは間もなくのことだった。


「……世話の焼ける奴だ」


 けれど、こうして世話を焼くことが出来るのも嬉しくある。今まで、こちらに来てからはほぼ一人で何もかもやっていたような奴だ。迷惑なんてもっと掛ければ良いのだ。


「…………」


 うつすならうつせば良い。そんなことを思いながら触れるだけのキスをして緑間は高尾の元を離れる。
 このまま看てやりたいのは山々だが、家事を何もしないまま放っておくというわけにもいかない。それらが片付いたらまた戻ってくることにして、まずは家事を終わらせてしまおう。

 早く良くなれ。
 そう願いながら、そっと扉を閉めた。










fin