見慣れた顔、けれどよく知る彼より大人びた顔つき。それはそうだ。彼とその人との年齢差は十。声だって幾分低くなっているのも当然のことである。おそらくそれはこちらも同じなのだろう。
「どうかしたか?」
じぃと見つめてくる高校生に投げかける。何も珍しいことはないだろう。いや、この現象自体は珍しいどころか普通では有り得ないことである。しかし、おは朝によって起こったこの現象をどうにかする術は見つかっていないのだからそこは置いておこう。
やけに見られているのは彼の中の自分と違いがあるからだろう。こちらの緑間からしてみれば、この十歳離れた高尾は懐かしい姿だ。あの頃はまだ出会って二年か、なんて思いながら高尾の答えを待つ。
「あのさ、気になってたこと聞いても良い?」
「何だ」
「いつからオレのこと名前で呼んでんの?」
きょとん、と翡翠が高尾を見る。どうやら気になっていたのはそっちだったらしい。それだけではないのだろうが、今一番気になることとでも付け加えれば良いだろうか。
この緑間は高校生の高尾のことは名字で、同い年の高尾のことは下の名前で呼んでいる。同じ名前で呼ぶと分かりづらいからかとも思ったのだが、話の雰囲気からしてそういうわけではなさそうだった。つまり、普段から下の名前で呼んでいるのだろう。
だが高校生の高尾のよく知る緑間は自分のことを名字で呼ぶ。とはいえ、いきなり下の名前で呼ばれても驚くけれど、いつからそんな風になったのかは純粋に疑問だった。
「気になるのか」
「そりゃあ、まぁ」
自分の知らないことが気になるのも当然といえばそうかもしれない。今ここで聞かずともきっと彼自身が通るであろう未来だが、こういう状況では気にするなというのも無理な話である。緑間からすればもう当たり前のことでも、この高尾からすれば慣れないことなのだ。
それなら彼と同い年の高尾は慣れているのかというと、彼も流石に今はもう慣れている。呼び始めた頃は呼ばれる度にほんのり頬が赤くなったりしていた。それもそれで可愛かったが、なんてことは心の内だけに留めておく。
「オレ達が結婚した時からだ」
考えることもなくさらっと答えられ、へぇと納得しそうになったがすぐに「いや、嘘だろ!」と突っ込んだ。
そもそもこの国では同性で結婚が出来ない、とこのやり取りは本日二度目である。一度目は十六歳の二人がこの世界にやってきた時。二十六歳の二人が騙した時にこのやり取りを行った。
「もう騙されんか」
「当たり前だろ! つーか、なんで騙そうとするんだよ」
騙しても何の意味もないだろうとはいうけれど、緑間からしてみればこういう反応を見れるのはおもしろい。それに、強ち間違ったことも言っていなかったりする。おそらく高尾はこのことに関しては一切信じていないだろうが、それは最初に騙したことが原因なのだから仕方がない。
緑間が高尾を名字で呼ばなくなった日。ただなんとなくで下の名前を呼ぶようになったわけではない。一応、そこには一つのけじめとでも言えば良いのだろうか。そういうものはあった。
「それで、本当はいつからなの?」
いつからだと思う、と聞いてみれば少なくとも高校は卒業してからだと思うとの回答。それは正解だ。今の高尾には高校を卒業して進学をするのか、それとも就職をするのか。そこさえ分からない。だからその辺りのことについてはあえてこちらから触れないでおく。同じ道を通ることになるのかもしれないが絶対ではないのだから、無数にある可能性を潰したくはない。だからその先は緑間が本当の答えを教えてやる。
「三年前だ」
「三年っていうと、二十三歳?」
「そうだな」
そう、三年前。二人が二十三歳だった時のある出来事がきっかけ。
ある出来事といっても大したことではない。いや、二人にとってはとても大切な出来事だ。けれど彼はまだそれを知る必要はないだろう。あの日、高尾が二十三歳になった日の出来事を。
「それからずっと下の名前で呼んでんのか。結構経ってるんだな」
「確かにそうだな。お前達が高校生活を過ごす時間くらいは経っているのか」
長いような短いような。まだ十六歳の高尾は緑間と出会ってからさえ三年も経っていない。だから三年というのは結構な時間のように思えるが、十年を共に過ごしている緑間からしてみればあれからそんなに経ったのかと思うくらいの時間の流れだ。高尾が慣れるまで結構時間が掛かった気がするが、三年も経てば慣れるのも当たり前だ。
「お前も名前で呼んで欲しいのか、和成」
口元に弧を描きながらこの時代の高尾と同じ呼び名を口にする。すると、途端に顔をぼっと赤くして顔を逸らされた。
緑間も自分の世界の高尾を見ているのだからある程度反応は予想していたのだが、まさかここまでだとは思わなかった。初々しいというか、可愛いというか。きっと口にしたら高校生の彼も怒るのだろう。言われ慣れていないどころか言われたこともないのかもしれないと思うと、少しばかり十年前の自分に申し訳なく思う。けれど、どのみち下の名前で呼ぶようになっても暫くは慣れないのだからこんな反応は幾らでも見れるだろう。
「高尾」
「…………何?」
ちらりとこちらを見た色素の薄い瞳に小さく笑う。慣れていないだけで呼ばれるのが嫌ではないだろう。あの頃も冗談だったのか本気だったのかは知らないが、下の名前で呼んでみてと言っていた記憶がある。適当に受け流していたが、あまりにしつこい時に一度だけ呼んでやったら顔を真っ赤にしていた。全く、呼ばれたいと言ったのは誰だったのか。
「お前達はお前達のペースでやっていけば良い。オレ達も十年かけてここまで来たのだよ」
過ごしてきた時間が違うのだから同一人物でも違って当然。十六歳なんてまだまだ、人生先は長い。二十六歳だって人生の半分も生きていないだろう。自分達のペースで彼らなりにやっていけば良いのだ。こうも近くにいるとその違いを感じるかもしれないけれど、余計なことを考える必要はない。
「お前はこのままでも良いとは思うがな」
「なんだよ、それ」
どういう意味で言っているのかさっぱりだ。だが分からなくて良い、とそっと額に唇を落とす。
「今は高校生活を楽しめば良い。まだ若いんだからな」
「真ちゃんだってまだ若いだろ」
「四捨五入すれば三十路だ」
「それいったらオレ等も四捨五入すると成人だぜ」
そこは大分違うと言われたがやっていることは同じである。切り捨てるよりはマシだろうが、切り捨てたとしてもこの人達なら二十で通じそうだ。高校生二人を十歳というのは無理がありすぎるけれども。
十年という年月。やっぱり大きいなと思いながら俯いていた顔を上げる。そこにある緑は高尾が好きなその色と同じ。でもどこか違う色をしている。
「疲れたなら寝ても良いのだよ。色々あっただろう」
「んーん、平気」
この男をこんな風にしたのは未来の自分なのだろうか。そんなことを考えながら「ねぇ、真ちゃん」と呼べばすぐに「何だ」と返してくれる。そういうところは高尾の知っている緑間も同じだなと思いながら、もう一つだけ質問をする。
「この世界のオレのこと、好き?」
聞かなくても答えなんて分かりきっているのだが、この緑間の口から直接聞いてみたくなった。それを聞いた緑間はふっと優しげに笑って答えた。
「オレは和成を愛している。そして高尾、お前のことも愛おしいと思うのだよ」
お前達はどちらも高尾和成なのだから。
そんな答えを聞いて思わず笑みが零れる。ちゃんとこの世界の、と付けたというのにその答えは高尾和成に対する答えだった。緑間らしいといえばらしいかもしれない。高尾も自分の世界の緑間は勿論、この世界の緑間のことも好きだ。どちらも同じ緑間真太郎という人物なのだから。
「ありがと、真ちゃん」
「礼を言われるようなことをした覚えはないんだが」
「オレが言いたいから言っただけ」
会話がなくても居心地が悪くない、そんな関係って素敵だなと思うのだ。ただ一緒にいるというだけで幸せを感じられるような関係。間違いなく彼等はそうなんだろうと高校生の高尾は年上の彼の横で思うのだ。
再び本を読み始めた彼の様子を眺めながら、ゆっくりと時間が流れていく。
名字と名前
(そういえば真ちゃんはずっと真ちゃんって呼ばれてんの?)
(見た通りだ。アイツも呼ぼうとしたことはあったんだが……気になるならアイツに聞け)
(? じゃあ、あとで聞いてみる)