「あのさ、どうして真ちゃんのこと名前で呼ばねぇの?」
こちらの世界の緑間に聞いたけれど教えて貰えなかったそれ。緑間は高尾本人に聞けと言っていたから、こうして二人になったタイミングで高尾は尋ねた。
「何だよ急に」
「真ちゃんが気になるならアンタに直接聞けって」
何でそういうこと言うかな、と大きい方の高尾が呟く。
やはり何か理由はあるらしい。それは緑間に聞いた時点でなんとなく分かっていたけれど、一体どうして未来の自分は彼を名前で呼ぼうとしないのだろうか。この呼び方が鳴れているからとかそういう理由なら緑間が答えてもよさそうなものだが、その辺は目の前の自分に直接聞けば良いだろう。
「それで、どうしてなんだよ」
「どうしてって……もう真ちゃんって呼び慣れてるし、わざわざ変える必要もねーだろ」
「でも真ちゃんは名前で呼んでるだろ?」
そういえばその理由は聞かなかったなと今更気付いたが、それも未来の自分に聞けばよいだろうか。あまり答えたくなさそうにはしているけれど。
事実、あまり答えたいと思う内容ではない。だから誤魔化そうとしてみたが自分相手に通用するわけもなく。呼び慣れているのも本当であり、この呼び方をするのは自分だけだからというのも理由の一つといえば一つだ。
だけど、と真っ直ぐに見つめてくる色素の薄い瞳をちらりと見る。彼にとってはちょっと気になっただけのことなのは分かっている。
まあ目の前の彼もまた自分なら話せば理解してもらえるだろうか。それでも言いにくいことには変わりないのだが、緑間が自分に振っている時点で自分が答えなければいけないのだろう。そんな話になったならそのまま答えてくれれば、と思ったところでそれもそれであれだなと溜め息が零れた。
「別に大した理由はないんだけど」
一応先にそう言っておく。それでも理由が気になるらしい高校生の自分にどう説明するべきかと頭を働かせる。といっても、考えたところで教え方など初めから二択しかないわけだが。
「和成はさ、真ちゃんのこと名前で呼んだことある?」
「え? オレはないけど……」
それはそうだよな、とこの世界の高尾は頷く。彼等はまだ付き合い始めてからもあまり日が経っていない――けれど、二十六歳の彼等から見れば十年の違いがあるのだから当然だ。緑間だって自分を下の名前で呼ぶようになったのはつい三年前からだ。それまでにも呼んでみてとしつこく頼んだら呼んでくれたりもしたけれどそれだけ。
だから十六歳の自分達がお互いに下の名前で呼び合ったことがなくても不思議ではない。むしろ呼んだことがあると言われた方が驚きだ。自分達とは違う道を歩いているにしても、少なくとも二十六歳の二人は当時名前で呼び合ったことなどなかった。
「真ちゃんがオレを名前で呼ぶようになったのは三年前なんだけど、そん時にそういう話にはなったんだよ」
そういう、つまり下の名前で呼ぼうかという話だ。その時から緑間は高尾を下の名前で呼んでいる。
勿論、そういう話になったということは高尾も緑間を下の名前で呼ぼうとしたことはあるのだ。だけど今も昔のまま“真ちゃん”と呼んでいる。その理由は至ってシンプルで、ある意味説明するまでもないようなことなのだが。
「けど、名前って呼び慣れてないだろ?」
「そりゃあまあ、そうだろうけど……それって真ちゃんも同じじゃねぇの?」
「同じだけどそうじゃねーじゃん。いざ呼ぼうとすると、ほら、あれだろ」
曖昧な言葉で説明される。これで理解をしろと言われても無理だと緑間なら言っただろう。お前は何が言いたいんだと聞き返さなければ分からない。
それが普通の反応なのだろうが、ここで話をしているのは十歳ほど年の差はあれどどちらも同じ高尾和成という人物だ。最初こそクエッションマークを頭に浮かべていたけれど、どうやら未来の自分の言いたいことが分かったらしい。
「あー……それで真ちゃん?」
「…………そういうこと」
慣れているとかそういうのも理由の一つにはなる。けれど一番の理由は、下の名前で呼ぶのが恥ずかしいから。恥ずかしいも何もいずれは慣れるだろうという話だが、こっちの方が呼びやすいし他にこの呼び方をしている人もいないんだしと今の形になった。これが答えだ。
言う方は慣れなくても言われる方なら大丈夫なのかといえば、言われる方も最初は慣れなかった。呼ばれる度に嬉しいような恥ずかしいような気持ちにはなるし、顔にも出てしまうから緑間にはそろそろ慣れたらどうだと言われたこともある。
「結婚してる奴等だってみんながみんな名前で呼び合ってるワケじゃないだろ? だからオレ達はオレ達で良いんだよ」
これがオレ達には合っているから、とほんのり頬を朱に染めた十年後の自分は答えながら照れ隠しに笑う。そんな自分を見ながら頭に浮かんだのは未来の自分の恋人。
この人達が自分達の知らない十年をどのように歩んできたのかは知らない。だけど今の二人を見ていればお互いのことを大切に思っていて、今がとても幸せなんだってことくらいはよく分かる。これがあの緑間の好きな自分なんだとどこか他人事のように思った。
「じゃあこれからもずっと“真ちゃん”なんだ」
「多分な。あ、お前も呼んでみたら良いんじゃねぇ?」
そっちの世界の緑間に。
言われた高校生の高尾は「は!?」と予想外の言葉に驚きながら、すぐに無理だと否定した。その反応に思わず笑いながら「案外面白い反応が見られるかもよ?」なんて言ってみる。呼び慣れない名前というのはどちらにとっても同じなのだ。自分のことを下の名前で呼ぶ緑間も最初は慣れていない様子だったよなと数年前のことを思い出す。
しかし、呼び慣れないのはお互い様なのだ。もしこの高尾が恋人を下の名前で呼べば向こうも驚くだろうが、言う方だってそれなりに勇気がいる。それにやっぱり、未来の自分と同じで言えそうにない。
「アンタだって呼べないくせに……」
「オレが言ったらお前も言うか? たまにはそういうのもアリかもしれないしな」
「それ、本当に大丈夫なのかよ」
色々と不安だが一回くらいなら。反応はどちらも大体予想出来るけど、と十歳年上の高尾は心の中で付け加える。それでもたまには良いかもしれない。だって、恋人のことが好きだから。
どうする、と問い掛けてくる自分に視線だけを返す。その視線に彼は笑顔を返した。やっぱりまだ難しいのも仕方がない。こっちだって言うとなれば勇気が必要なくらいだ。でも、いつかはそれを自然に口に出来るようになれたら、なんてそんな風に思うんだ。
名前で呼ばないワケ
(今はまだ恥ずかしくて呼べないけれどいつかその名を――)
(その時、アナタはどんな反応をするのだろうか)