静かな空間。同じ部屋に居ながらどちらも喋らない。いや、もとから緑間の方から話すことは多くないけれど。よく喋る男が珍しく静かにしているからこんな状況が生まれている。
とはいえ、それもどれくらい続くことか。そう思った頃には高尾が口を開いた。
「あのさ」
珍しく遠慮がちに声を掛けた男に、とりあえず「何だ」とだけ答えておく。すぐに続くと思われた言葉は意外とそうでもなく、じっと見つめる瞳と視線がかち合ったところで漸く続きが発せられた。
「名前で呼んでみて、って言ったら呼んでくれる……?」
いきなり何だとは思ったが、そういう話になる理由はすぐに思い当たった。身近に下の名前で呼んでいる人がいるからだろう。といってもそれは片方だけなのだが、そういえばさっきまでこっちの高尾と一緒に居たんだったかと思い出す。そこでそんな話でもしたのだろう。分かりやすい奴だ。
「別に今のままでも不便はしないだろう」
「そうだけど、頼んだら真ちゃんも呼んでくれる?」
呼んで欲しいと言わない辺り、そういう意味で言っているのではないのだろう。つまり、知りたいのは頼めば呼んでくれるかどうか。それを聞きたいだけのように聞こえる。
実際、高尾は緑間に名前で呼んで欲しいわけではない。気になったから聞いただけの話だ。イエスだろうがノーだろうが構わない。ちなみに高尾は頼まれれば呼ぶかもしれないけれどという感じだ。
「……お前がどうしてもと言うなら考えるのだよ」
考えた末に出した答えは高尾と似たり寄ったり。頼まれれば考えるがそうでなければ呼ばないし呼ぶ必要もないと思っている。恋人だからという理由で呼ぶ必要もなければ現状に不満もない。
まあ頼まれても呼び慣れない名を簡単に言えるとはどちらも思っていない。やはり下の名前で呼ぶというのは特別な気がするし、まだ気恥ずかしくもある。恋人として日が浅いことも理由の一つだろう。好きになったのはもっと前でもそれとこれとは別問題だ。
緑間の答えを聞いた高尾は「そっか」と息を吐く。これは安堵の意味。自分だけでなく緑間も同じで良かったと。多分そのような答えが返ってくるだろうとは思っていたが、緑間の口から直接聞けて安心した。
「またどうしてそんな話になった。あの人達に何か聞いたのか?」
「あっちの真ちゃんにはいつから名前で呼んでんのって聞いて、オレには何で名前を呼ばないのかって話を聞いた」
なんとなく疑問に思ったことを十年後の自分達はなんだかんだで教えてくれた。それを目の前の恋人にまで聞くつもりはなかったのだが、未来の自分と話した最後の言葉が頭に残っていてつい尋ねてしまった。それだけの話だ。
そんなことだろうなとは思っていた緑間は、深く追求はせずに相槌だけを打った。気にならないとはいわないが、かといってそこまで聞きたいわけでもない。それに、あの人達が何と答えたのかはなんとなく分かる気がした。
「真ちゃんは名前で呼んで欲しいとか思う?」
「別に思わん。そういうものは自然にそうなるだろう」
これからは下の名前で呼ぼうというような話になるとしても、そこに辿り着くまでの過程があってこそ。恋人だからとかではなく、それなりの流れがあって自然となるものだと思う。
緑間の言うことには高尾も納得出来た。きっと自分達がそうやって呼ぶようになる時も自然とそうなるのだろう。十年後の自分達もそうだったのだろう。その経緯を詳しくは聞いていないけれど多分そうだ。それが三年前の出来事なのだろう。
「そういうお前はどうなのだよ」
「オレ? オレも別に今は…………」
言えばそういうことだと返された。今の自分達にはこれが合っているのだ。無理にそうする必要もない。
未来の緑間もそんなことを言っていたなと思いながら、やっぱり同じ人間だからかななんて高尾は考える。同一人物なのだから似ているところがあってもおかしくはない。高尾自身も未来の自分と重ねて見られるところがある。そして、あの人達の場合は今の二人にないお互いの姿が時折見える。それは十年間一緒に居るからこそ。
「十歳差って大きいよな」
それはそうだろうと緑間は言う。自分達はまだ十六年しか生きていないのだ。今から十年前といえば六歳の頃、そこから今日までにどれだけのことがあったのかなんて数えきれない。子供の十年と大人になってからの十年では違うだろうけれど、十年という時間の長さはどちらも同じ。
「十年後、オレ達は何してるんだろうな」
「さあな。一応、十年後の自分達も身近にいるが全く同じになるとは限らないからな」
「こうしてオレ等が出会ってる時点で変わってるんだよな?」
「そうなるだろうが、それだけでもないだろう」
同一人物だから年が離れていようと似ている部分がある。だけどやっぱり別の人間である。緑間が言いたいのはそういうことだ。
仮にここで自分達が出会わなかったとして、十年後の自分達と全く同じようになるということはほぼ有り得ないだろう。生きていく上で選択肢はあちこちに、そして無数に存在している。どこで何を選ぶか。そのどれもが同じになるとは考え難い。
「考えるなとは言わんが、未来のことばかり考えても仕方ないのだよ」
未来なんて誰にも分からない。そしてあの人達はあの人達、自分達は自分達。近くに居るのに考えるなというのは難しいだろうが、自分達は今を見て進んでいけば良いし他を見ている余裕もない。
それに、と視線を隣へ移すがその先は声に出さなかった。わざわざ言うようなことでもない。少なくとも今の緑間にとってはそうだった。
「分かってる。でも、未来に夢を見るくらいは良いだろ?」
そう言った高尾は未来にどんな夢を見ているというのか。色素の薄い瞳を見れば小さく笑みを返された。
そこに描かれている夢は、やはりああいう未来なのだろうかと別の部屋に居るであろう二人を思い浮かべる。元を辿ればこの話もあの二人のことがきっかけだった。実際に聞かない以上は分からないけれど、十年経ってもあんな風に一緒に居られたら良いなとは思う。高尾もその点は同じだろう。
「それなら、そういう未来になるように努力をしてみるか?」
「そうだな。でも、オレが真ちゃんを好きなのはずっと変わらないと思うぜ?」
言い切る恋人に緑間はそっと口付けを落とす。突然の行動に顔を赤くする高尾につられるように、緑間も僅かに頬が朱に染まる。
「馬鹿め。それはオレも同じだ」
人の気持ちは変わるものだ。それでも変わらないと言うだけの自信はある。相手がずっと好きでいてくれるかまでは分からないけれど、それは未来の自分達も同じだったはずだ。ずっと一緒に居られたら良いとは思っていたけど、そんな風に未来の高尾が言っていたのだから。
多分、みんなそうなんだろう。だって未来は分からない。見えないその先を信じられずに不安になるのも仕様がないことだ。でも、未来の高尾は緑間も自分が好きだと言い切った。そう思えるようになる日が、自分達にも来るのだろうか。
「十年後、楽しみだな」
今のままで居られるか、今よりももっと近付けるか。離れるなんて選択肢は頭の中から消しておいた。まだ不安になることはあるだろうけれど、そうではないと信じていたい。
名前を呼ぶまで
十年というその月日が流れた時は、自然とそう呼ぶようになっているのだろうか。
分からない。けれど、十年後のその時も隣でその名を呼んでいたい。