「あんま変なこと教えないでくんない?」
声を掛けるとすぐに視線が上がる。そのまま二つの瞳が交錯すると、翡翠は「何のことだ」と疑問を浮かべた。おそらく本当に分かっていないだろうその様子に、高尾ははいと淹れてきたばかりのカップを手渡しながら隣に座る。
「和成にオレに直接聞けとか言わなかった?」
「ああ、そのことか」
どうやら高尾の言いたいことを緑間も理解してくれたらしい。確かに十六歳の方の高尾とそんな話をしたなと。
だが一つ言うなら、直接聞けとは言っていない。気になるのなら本人に聞けと言っただけだ。それでも同じだとその本人は言うけれど、あれは緑間から説明するようなことでもないだろう。こちらは名前で呼んでいるのだから。
「それで、アイツに聞かれたのか」
先に結論を言えば高尾が黙る。それは肯定と受け取って良いのだろう。そもそも、あっちの高尾にそのことを聞かれなければ自分にこんな話を振る訳がない。こんな質問を投げ掛けてきた時点で分かりきっていることだ。
「答えてやったんだろう。どうだったんだ」
「……そりゃあ、分かってはくれたけど」
けど、何かあったのか。そう視線だけで尋ねるが、別に何もなかったと返されるのだ。それなら何だというのか、というのは聞かない方が良いのだろうか。考えてみればなんとなく分かるような気もした。コイツはその文句を言いに来たのだろうから。
パタンと読みかけの本を閉じて色素の薄い瞳を見る。すぐに逸らされたことが答えのようなものだろう。こちらは何も言っていないんだが、とは言わなければ伝わらないか。
「オレは無理に呼べとは言っていないのだよ」
「分かってるよ。でも呼んで欲しかったりもするのかなって」
「どちらでも構わん。そうやって呼ぶのはお前くらいだしな」
そうやって、というのは今の呼び名のことだ。そんな呼び方をするのは高尾くらいなもので、特別な呼び方といえば特別である。まあ、名前で呼ばれればそれも嬉しいけれど呼び名にそこまで拘ってはいないし、その話は三年前に決着がついている。今更掘り返してまでどうこう話す気もない。
それは高尾にしても同じなのだろう。緑間の言葉に「そっか」と相槌を打ちながらカップに口を付けている。過去の自分に改めてそのことを話して少しばかり考えはしたもののそれだけ。初めから緑間がこう言うだろうことも分かっていた。
「真ちゃんはオレのこと好き?」
「唐突だな。お前のことなら愛しているがそれがどうした」
この恋人が唐突に何かを言い出すのは今に始まったことではない。さらっと答えてやれば、ほんのりと頬を染めながら嬉しそうに彼もまた同じ言葉を繰り返した。
当たり前のようにこんなやり取りをするなんてあの頃の自分達には想像も出来なかったよな、と隣の部屋に居るであろう二人のことを思い出す。付き合ったばかりの頃はお互いにどうすれば良いのか分からなかったなんて思うと懐かしくなる。
「昔は真ちゃんが本当にオレのこと好きなのかなとか考えたりしたな」
「それはお互い様だろ」
「オレの方が言ってたと思うけど?」
「お前の場合は付き合う前からだったのだよ」
だから逆に、という話も以前したことだ。それは高校生だった頃のことだろう。
思い返してみればこれまでに色々なことがあったが、その中で大きな喧嘩も何度かした。バスケのことだったり自分達のことだったり。言い争い程度ならかなりの数をしてきたのではないだろうか。今だって全くしない訳じゃない。どんなに仲の良い相手だって口喧嘩の一つもないなんて有り得ないだろう。
きっと、彼等もこれから何度もぶつかりながら進んで行くのだろう。その先にどんな未来が待っているのかは二人の知るところではないが、少なくとも自分達が選んできた道を間違いだと思ったことはない。
「真ちゃん」
名前を呼んだだけなのに言いたいことは通じたらしい。寄せられた唇から互いの体温が混ざり合う。この十年という時間が長かったのか短かったのかは分からない。けれど、この十年で自分達は自分達のペースで歩いてきた。それで今が幸せなのだから焦ることはないと思うのだ。今だからこそ言えるのかもしれないけれど。
「別に無理してまで呼んで欲しいとは思っていないからな」
「分かってるってば」
口を開きかけたところで先に言われて思わず笑みが零れる。どうして分かるのか、なんて聞くだけ野暮だろうか。でも無理はしていない。緑間だってそう呼びたいから呼ぶようになったのだろう。それは高尾にしても同じ。
だから、ともう一度口を開く。今度はちゃんと音にして。
「真太郎」
やっぱり慣れなくて照れるけれど、声に乗って様々なものが伝わる。好きという気持ちが、熱が、全部それに乗せられて届く。
「んっ…………」
普段から愛情表現はしてくる奴だがこれは反則だろう、と心の中だけで呟く。先程よりも深い口付けを重ね、暫くしてから離れたところで「真ちゃん?」といつも通りの呼び名で疑問を浮かべる恋人。本人に自覚がないというのは厄介だなと感じながら左手は彼の右手を掴んだまま。
「お前は、少しくらい自覚を持て」
「自覚って何の?」
おそらく言っても無駄だろう。そう判断して溜め息を吐けば、だから何のことだよと聞いてくる。一人で納得するなと言いたげな目にどう答えてやるべきか。
どうせこの男がこんな態度を見せるのは自分に対してだけだ。それが分かっているから良いといえば良いのだが、教えたところで無自覚がどうにかなるとも思えない。それでも答えなければしつこいんだろうなと思うと言った手前、ここは説明してやるべきなのだろうとも思った。だが説明して分かってもらえるのかは疑問であり。
「和成」
言ってまた唇を重ねた。直接触れ合った場所から伝わってくる熱。それらを感じながらどちらともなくゼロから距離を取った時には、見てすぐに分かるくらいに高尾の顔が赤くなっていた。
「少しは理解したか?」
「……したけど、普通に説明しろよ」
「こっちの方が分かりやすいだろう」
楽しげな笑みを浮かべる恋人にふいっと顔を背ける。今更顔を背けたところで赤くなっているのなんてバレバレなのだが、それでも見られたくなかった。いつまで経っても敵わないなと思ったのはどちらだっただろうか。相手が目の前の男である以上はこれからも変わらないんだろうなとも思うけれど、そんな男を好きになったのだから仕方がない。
「こっちを向け」
「ヤだ」
「和成」
「…………真ちゃん、それズルくねぇ?」
諦めてこちらを見た高尾に「何のことだ」と答えれば、分かっていてやってるだろとのこと。確かにその通りだが、それなら高尾だって同じことをすれば良いだけの話だ。
――なんて、高尾にそれは無理な話である。ただ下の名前を一回呼ぶだけでも大変だったのだ。簡単に二回三回と呼べるくらいなら普段からそう呼んでいる。それも分かっているのだからズルい、と高尾は言いたい。緑間はそんな高尾を見て小さく笑う。
「あまり拗ねるな」
そっと額にキスを落とされ、誰のせいだよと言おうとしたはずの言葉は飲み込まれてしまった。まあ名前を呼ぶことで喜んでくれたのなら良いかと。またと言われてもすぐには無理だが、緑間のこんな反応を見られるのならたまになら呼んでも良いかもしれないと思ったりして。
名前を呼んで
(ところで、いつまで掴んでるの)
(お前が悪い)
(オレのせいかよ! つーか、アイツ等すぐ隣の部屋にいるんだけど)
(知っている。だから静かにしていろ)
そういう問題じゃないだろ、と抗議したところでそのまま腕を引かれた。
少しの間ここにいろ、と。
腕の中に抱き締めて笑う彼の胸に、また熱さを感じながら顔をぎゅっと押し付けた。