最初、異変を感じたのは朝会った時のことだった。いつものように家の前で「おはよう」と挨拶を交わした時。なんだかいつもと違う気がして、それをそのまま本人に言った。けれどその本人は疑問を浮かべながらそんなことはないと答えた。
今にして思えば、彼はあの時から既に体調が悪かったのだろう。本人に自覚があったかは別の話だが、あの違和感は本物だった。ただ、それに気が付いたのが――――。
「カズ!!」
ドサッという音と共に崩れ落ちたからだ。その音に反射して振り返り、目に映った光景に気が付いた時には体が動いていた。名前を叫ぶと同時にすぐ傍まで駆け寄って体を抱き寄せると、先程まで体育で動いていたにしても荒い呼吸を幼馴染は繰り返していた。
周りのクラスメイト達もすぐに集まり、誰かが大声で先生を呼んだ。先生も既にこちらに走って来ており、そのまま幼馴染は先生に抱えられて保健室へと運ばれた。
熱
目に飛び込んでくる白。やけに静かな空間。
あれ、オレは……と曖昧な記憶を辿ろうとしたところで「気が付いたか」と聞き慣れた声が耳に届く。声のした方に顔を向ければ、そこには幼馴染の姿があった。
「しんちゃん……?」
「全く、熱があるのならどうして休まないのだよ」
「ねつ?」
その言葉を頭の中で復唱し、そこで初めて“だからこんなに熱いのか”という結論に辿り着く。そうなるとここは保健室なのだろうか。でもここに来る前の記憶が曖昧だなと、高尾はぼんやりしている頭で考える。
そんな高尾を見て、はあと緑間は溜め息を零した。倒れるほどの熱だというのに自覚がなかったのかと、思ったけれどそれだけ。今はそれよりもやっと目を覚ましたことへの安堵の方が大きかった。
「先生が今日はもう帰った方が良いと言っていた。もうすぐ迎えも来るのだよ」
あの後、これだけ熱が出ているのなら家で休む方が良いと先生が親に連絡をしたのだ。だから高尾の母親が迎えに来るのは時間の問題だろう。緑間は高尾の荷物を持って行ってやるようにと頼まれて保健室に来たところだ。
「迎えって、オレは大丈夫だよ」
「大丈夫なわけないだろ!」
体を起こそうとする高尾を緑間は止める。しかし、高尾は平気だと言ってベッドから出ようとする。高熱で倒れた奴がたかが数十分休んだだけで回復するわけがないのだが、高尾自身はそう思っていないらしい。
いや、これくらいなら大丈夫と思っているだけだろう。緑間の言うように大丈夫なわけがないのだが、本人がそう思っていない上に今は養護教諭も少し席を外している。ここは何とかしてこの幼馴染を説得するしかない。
「お前は倒れたんだぞ! 分かってるのか!?」
「保健室で休んでたら良くなったもん」
「そんなにすぐ良くなるわけがないのだよ!!」
大丈夫だ、駄目だ、そんな言い争いを繰り返す。心配しすぎだという高尾に対し、緑間は無理をする必要などないだろうと主張する。どうして具合が悪いのに大丈夫だなんて言うのか分からなかった。
別に高尾だって無理をしているわけではない。本当に大丈夫だと思っているし、だから家に帰るよりも緑間やクラスメイトと普通に遊んだりしたいのだ。それに。
全然聞く耳を持たない幼馴染の額に緑間はそっと手を当てた。彼の言葉は信じていないが一応熱を確認しておこうと。体温計があれば良かったのだが、先生が居ない今は場所が分からなかった。だから代わりに自分の体温と比べてみようと思ったのだが。
「やっぱり、まだ熱いのだよ」
手で触っただけでもはっきりと分かった。これは間違いなく熱が下がっていない。当然といえば当然だ。まだ医者にさえ行っていないのだ。倒れるほどの高熱が数十分で下がっていたら逆に驚く。
「ほら、先生が来るまで寝ていろ」
「………………」
「カズ?」
急に黙った幼馴染を不思議に思って名前を呼ぶ。その瞳はじっと翡翠を見つめている。
もしかして熱のせいで具合が悪くなってきたのだろうか。そんな心配をしたのだけれど。
「……真ちゃんの手、冷たい」
呟くように言われたそれにきょとんとする。だがすぐに「それはお前が熱を出しているからだ」と返し、分かったら寝ていろとその体を倒した。今度は抵抗されることもなく、小さな体はそのままベッドに沈んだ。
「ねえ、真ちゃん」
「何だ」
「教室、戻る?」
どうやら漸く体を休ませる気にはなってくれたらしい。続いて出てきた問いに緑間はちらりと壁に掛かっている時計を確認すると「ああ」と頷いた。今は丁度昼休みに入ったところだが、いつまでも保健室に居るというわけにもいかない。高尾が休む気になったのなら邪魔をしないためにもさっさと帰るべきだろう。
そう思っての発言だったのだが、そう言った緑間の手を高尾はぎゅっと握った。予想外の行動に緑間はまた「カズ?」と疑問を浮かべる。
「今すぐ戻らないと、ダメ……?」
まだもう少しここに居て欲しい。あとちょっとだけでも良いから。
声には出ていない言葉をその目が訴えていた。違う、彼はもっと前からそう言っていた――という表現はおかしいが、考えてみればこれだけ高熱を出していて自覚がないのも変だ。自覚した上で大丈夫だと言い張っていた理由、それに緑間は心当たりがあった。
「先生が戻ってくるまでだからな」
きっと養護教諭が戻って来たら後は大丈夫だから戻りなさいと言われるのだろう。だからそれまでの間。もう少しくらいなら高尾の希望通り、ここに居てやれる。
緑間がまだ隣に居てくれると分かって高尾は「うん」と小さく笑った。熱のせいで赤くなっている顔を見ながら、緑間は空いている方の手で幼馴染の頭を優しく撫でた。それから言う。
「約束はまた今度だ。今はちゃんと寝て風邪を治すのだよ」
「うん。ごめんね、真ちゃん」
「謝ることではない」
そう、昨日の別れ際。二人は明日、つまり今日の遊ぶ約束をしていた。いつものようにただ遊ぶのではなく、ちょっと探検しに行ってみようよと。そんな子供らしい約束をした。
遊ぶことなんていつでも出来る。それこそ毎日遊んでいるのだから一日くらい気にすることではない。けれど、それでも高尾は約束をきちんと守りたかったのだろう。楽しみにしていたというのもあるだろうが約束は守るものだ。仕方がないこともあるというのに、そういえば前にも約束したからと遅くまで四つ葉のクローバーを探していたこともあったなと緑間は思い返す。
分かってしまえば高尾の行動にも納得出来る。勿論、今は休むことが先決だ。
「おやすみ、カズ」
頭を撫でるその手が心地良い。繋いだ手から伝わる体温に安心する。
高尾が再び意識を手放すまでそう時間は掛からなかった。やっと眠った高尾を見ながら、緑間は「早く良くなるといいな」と呟く。早く元気になって、また一緒に遊ぼうと。
fin