今日も遅くなっちゃったな、と思いながら家路に着く。本当はもっと早く帰りたかったし、そもそも本来はもっと早く帰れる予定だった。それがどうしてこうなったのかといえば、店長がシフトを組み間違えたとかで人手が足りなくなったからだ。
 悪いんだけど残れないかと聞かれて無理ですときっぱり言えれば良いのかもしれないが、そんなこと言えるわけもなく。こっちはバイト代がそのまま生活費になっているから少しでも稼げればその方が良いということもあり、気が付けばこんな時間になっていた。


「真ちゃん、もう寝てるかな……」


 オレが心配しなくても真ちゃんならちゃんと寝ているだろう。九時には就寝、と決めたわけではないけれど自然とそういう約束になっている。真ちゃんならきちんとそれを守るだろうし、オレが気にしなくてもあの子はしっかりしているから大丈夫だ。
 その反面、オレに気を使って無理をしたりしていないかと心配にもなる。だって、まだ小学一年生なんだ。同い年の子達よりも大人びているけれど、それでもまだ六歳の子供。口では大丈夫と言っていても本当は寂しいと思っているかもしれない。

 それが分かっているのに早く帰ってやれないなんてオレも酷い兄だと思う。兄といってもオレは真ちゃんと血は繋がっていない。それならどうして兄なのかといえば、家族が事故にあって一人きりになった真ちゃんをオレが引き取ったからだ。
 別に親戚でもなんでもない。ただ家が隣でよく遊んでいただけだ。真ちゃんからすれば近所のお兄さん的な立ち位置の人間だろう。親同士が昔からの付き合いで親しく、その日も家族ぐるみで旅行に行くという話になっていた。オレは部活があったから不参加、たまたまその時熱を出してしまった真ちゃんもオレが面倒を見るからと家に残った。そんな時に起きた事故だった。


(大学行く気もなかったんだけどな)


 不慮の事故でオレ達は家族を失った。親戚が引き取るという話も出ていたけれど、あまり会ったこともない親戚の元に行くよりオレと一緒に居たいとあの子が言った。
 だからオレは真ちゃんと二人で生きていくと決めた。本当はすぐにでも部活をやめてバイトをするつもりだったが、真ちゃんがダメだと言ったから高校在学中は貯金でなんとかやりくりした。長期休みに短期バイトをやったりして、大学にも行くつもりはなかった。しかし、それもなんだかんだで行くことになった。けれど流石にこれ以上は貯金だけじゃやりくり出来ないとバイトを始めた。


(進学したからには勉強も真面目にやって、四年後には職に就かないとだな)


 基本的にオレは授業以外の大半をバイトの時間にあてている。それでも朝昼夜の三食は用意するし、掃除や洗濯も空いた時間にこなしているから普通に生活はしているといえるだろう。
 真ちゃんとは毎日顔を合わせてはいるもののあまり長くは話しをする時間はない。その分、二人で過ごす時間は大切にしているつもりではあるけれど、真ちゃんはどう思っているのか。


「さっさと帰るか」


 色々考えたってしょうがない。まずは家に帰ることだ。もう時刻は日付を超えてしまった。こんな生活をしているから時々真ちゃんや友人に心配もされるけれど、やってみれば案外やれるものだ。ちゃんと睡眠も取っているから問題ない。オレはオレのやるべきことをやっているだけ。
 家に帰ったらとりあえず洗濯物片付けて、適当に飯でも食ってからシャワーを浴びれば良いか。ざっくりとこの後の予定を考えながら歩いていれば家に辿り着く。ポケットから出した鍵を差し込み、ガチャンと回して家の中に入る。
 当然だが家の中は真っ暗だ。パチッと近くの電気を点けてから鞄をその辺に置き、まずは部屋にこもった熱を出すべく窓を開ける。一通りやり終えてからすぐ上の時計を確認して溜め息。稼げるのはありがたいが、やはりこんな時間になるのは考えものだ。

 とりあえず一通りのことは終えたところで、真ちゃんの様子を見に行こうと部屋に向かう。この時間だからまず間違いなく寝ているだろう。ノックをして起こしても悪いからとそっと扉を開けた。
 …………のだが。


「え? 真ちゃん……?」


 部屋の明かりは点いていない。唯一の光はカーテンの間から入ってくる月明かり。それに照らされた弟の姿に思わず声が出た。
 その声でオレの存在に気付いたのか、小さな弟はいきなりオレに飛び込んできた。


「真ちゃん、どうしたの?」


 部屋に入るなり飛びつかれて、オレはまだ状況が整理出来ていない。けれど、この弟に何かがあったであろうことくらいは分かった。
 涙を浮かべる弟と同じ目線の高さになるようにしゃがみ、小さな体を抱きしめてやる。ぽんぽんと背中を叩きながらまずは宥めることが最優先だ。


(こんなこと、初めてだな)


 オレが真ちゃんの寝る時間より遅く帰ってくる時は、いつも先にベッドで良い子に寝ていてくれる。だから今日も寝ているんだろうと思っていたけれど、まさか泣いているなんて思いもしなかった。何か怖い夢でも見たか、それともやはり寂しくなってしまったのだろうか。
 そんなことを考えつつ、数分くらいは経っただろうか。真ちゃんも漸く落ち着いてきたらしく、涙もやっとおさまった。そろそろ大丈夫かと、オレは真ちゃんの背中を撫でながら話を聞くことにした。


「一人が寂しくなった?」


 一度に色々聞いても混乱してしまうかもしれない。一つずつ順番に聞いていくべきだろうとまずは一つ目の可能性を尋ねる。この質問に対し、真ちゃんは首を横に振った。どうやら違ったらしい。となると、もう一方が正解だろうか。


「じゃあ、怖い夢を見たの?」


 今度は何も反応がない。つまり、正解なのだろう。
 怖い夢。一言で言ってもその内容は幅広い。大きな怪獣が現れたとか、大切な物がなくなったとか。人によって価値観が違うのだから当然といえば当然だ。
 わざわざ思い出させてまた怖い思いをさせてやる必要はない。そんなものはさっさと忘れてしまうのが一番だ。


「そっか。でももう大丈夫だから」


 夢の内容は聞かない。忘れてしまえばそれで終わりだ。もう一度寝て起きれば、その時には忘れてしまうだろう。だから大丈夫だと抱きしめる。
 だが、真ちゃんは不安そうにこちらを見上げて「本当?」と尋ねた。勿論オレははっきりと肯定を返した。けれど、まだ不安らしい真ちゃんはぎゅっとオレを掴んで言ったのだ。


「本当に、兄さんはいなくならない?」


 その一言でオレは弟がどんな夢を見たのか分かってしまった。オレ達は事故で家族を失っている。今はお互いが家族だ。

 もし、どこかでオレが事故にあったら。
 そうしたら真ちゃんは今度こそ一人になってしまう。

 今真ちゃんが抱いている不安は、オレを失ってしまうことへの恐怖だろう。オレだって真ちゃんがいなくなってしまったら、なんて考えたくもないし考えられない。事故は突然起きるものとはいえ、オレはもう大切な家族を失いたくない。真ちゃんも同じなんだろう。


「オレはいなくならないよ。ずっと、ずっと真ちゃんの傍にいる」

「ずっと……?」

「そう、ずっと。真ちゃんが大きくなるまで、大きくなってからもずっと傍にいるよ」


 どうしたらその不安を拭ってやれるのかオレには分からない。オレに出来るのは、真ちゃんが安心出来るような言葉をただ並べるだけ。そしてオレはここにいるからと抱きしめてやることぐらいしか出来ない。
 でも、これは紛れもない本心だ。真ちゃんにはオレしかいないし、オレにも真ちゃんしかいない。真ちゃんが大人になるまではオレが絶対に面倒を見なくちゃいけないと思っていたけれど、そういうの関係なしに真ちゃんと一緒にいたいとも思ってる。
 ……まぁ、真ちゃんが自立して家を出ていくまで、になるんだろうけどさ。


「それなら、約束するのだよ」

「分かった。約束する」


 そう言って小指と小指をからめあう。この先もずっと、傍にいるからと。絶対にいなくなったりしないと。
 真ちゃんが大きくなった時、自立していく彼を止めることなんてオレには出来ないけれど。それでも出来るだけ長く一緒にいようと心の中で呟く。ずっと一緒にいられたら良いのになんて、そんな感情は心の奥底に閉じ込めておこう。


「ほら、そろそろ寝よう? もう夜も遅いから」


 いつも寝る時間よりももう数時間も遅い。怖い夢を見たばかりで怖いかもしれないけれど、身体は睡眠を欲しているはずだ。
 抱きしめていた体を離して寝かせようと思ったのだが、真ちゃんの手は未だにオレの服を掴んだまま。


(ああ、そうか)


 多分、真ちゃんは自分が寝たらオレが部屋から出て行くと思っているんだろう。だからそれが出来ないように服を掴んでいる。


「心配しなくても、オレはここにいるよ」

「けど、まだ色々とやることがあるんだろう」

「真ちゃんが寝るまではちゃんとここに居るよ。それに、やらなくちゃいけないこともちょっとだけだからすぐに戻ってくる」

「すぐなら待つのだよ」


 これは、こっちが折れるべきか。
 真ちゃんが寝たら洗濯機くらいは回しておこうかと思ったけれど、どうせ明日は休みだ。明日の朝回してもどうにでもなる。他のことも朝で良いだろう。
 何より、普段は何もしてやれないんだからこういう時くらい兄らしく。……というわけでもないけれど、一緒に居てやりたい。


「それじゃあ、オレももうここで寝る。だから真ちゃんも寝ような」

「良いのか……?」

「明日は休みだからね」


 一日くらい先延ばしにしたって何の問題もない。だから布団に入ろうと言えば、真ちゃんも納得してくれたようでベッドに戻ってくれた。その横に開けられたスペースにオレも横になりながら、真ちゃんの髪にそっと手を通す。


「バイトもないし、明日は一緒に過ごそうな」


 言えば、コクンと頷いてくれた。それに小さく微笑んで、おやすみと挨拶するとおやすみと返ってくる。そのまま真ちゃんが寝るまでずっとオレは緑の髪を撫でていた。さらさらな髪を触りながら、ふと髪の間から覗いた額が目に入ってそっと唇を寄せる。


「ずっと、一緒にいるから」


 小声で呟かれたそれは届いているのかいないのか。すやすやと小さな寝息が聞こえているからもう眠っているのだろう。
 届かなくて良い。これはオレが勝手に決めたことだから。心配したり、不安になったりしなくて良いんだよという意味さえ通じてくれれば十分だ。


「おやすみ、真ちゃん」


 さてと、明日の休みは何をして過ごそうか。たまには二人でどこかに出掛けるのも良いかもしれない。久し振りに一緒に過ごせる休日だから、一日掛けて目一杯遊ぼう。
 どうやって過ごすかはまた明日、真ちゃんが起きてから二人で決めようか。







(だから不安になんてならなくて良い)
(オレは、いつまでもお前の傍にいるから)