たとえば、お前から何か一つだけ奪えるとして。お前なら何を選ぶのだろうか。
「オレはお前からその目を奪いたい」
練習もそこそこに時間になったからと片付けを終え、部室に移動した時のことだった。いつもなら唐突な話題は高尾からだが、この時は緑間の方が突然そんなことを言い出した。言われた方の高尾は一瞬きょとんとして、すぐにいきなりどうしたんだと返す。緑間から唐突な話題が出てくるなんて珍しいと。
「もしお前から何かを奪えるとしたら、オレはお前の目を奪いたいのだよ」
「えっと……何でオレの目? 鷹の目を使えなくさせたいとか?」
話の意図にいまいちついていけていないながらも、出来る限り頭を働かせてそんな風に答える。何かを奪えるとして目を奪いたいなんて言われたら、考えられるのはそれくらいだった。
高尾の目は少し特殊な目だ。それが鷹の目と呼ばれるもので、人よりも空間把握能力に長け広い視野を持っている。この目が欲しい理由を考えて思い当たるのはそれくらいである。それとももっとシンプルに視力の問題だろうかとも思ったが、緑間から振られたこの話題でそれはないだろうと先に否定した。
「鷹の目はお前の武器だろう」
「違うのか。でも、じゃあ何で?」
考えるのを止めたらしい高尾は直接理由を尋ねることにしたようだ。その答えを持っている人間がすぐ隣に居るのだから、無駄に考えるよりもその方が早いし確実だ。
尋ねられた緑間はといえば、じっとその瞳を見つめてきた。そして、次の瞬間には大きなその手で高尾の両目を塞いだ。勿論、高尾は急に何するんだよと抗議の声を上げたがそれらは無視された。
「その口もいつも騒がしいが、お前は目の方が五月蝿い」
「それとこれと何の関係があるんだよ!」
「お前は色んなものを見過ぎだ。そしてお前は見えてしまったものを放っておけないだろう」
一体何が言いたいのか。そう思っていたのだが、緑間の言葉を聞いているうちに高尾は静かになった。それはつまり、図星だったからだろう。人より広い視野で捉えてしまったものを一度でも見てしまったのなら放っておけない。それは高尾の長所であり短所だと緑間は思うのだ。
「見えてしまえば無理をしてでも笑う。見えなければ変に気を遣うこともなくなる」
これが高尾の性格でもあるのだからゼロになるとは言い切れないかもしれない。けれど、見えていないところにまで気を遣うことはまずなくなる。だからこの目を奪って見えなくしてしまいたい。他人のことばかり気にして自分のことをないがしろにしている友人を見ているとそう思ってしまう。人を気遣えるのは長所なはずだが、長所と短所は表裏一体とはよくいったものだ。
どうして無理をしてまで笑うのか。その場には必要なものだからだろう。元の性格のせいもあるのだろうが、よく見える視野というのも厄介なことがあるものだ。笑ってその場をやり過ごせても高尾自身には何も残らない。
「ここには今、オレとお前しかいない。だから無理はするな」
手でその両目を塞いでいるから見えるものも何もない。何も見ないでいてやるから、二人だけのこの場所でまで無理して取り繕うな。そうやって笑う姿を見ている方が辛い。
緑間のその話を高尾はただ静かに聞いていた。別に無理して笑っているつもりはなかったし、そもそもどうして緑間にそんなことを言われるのかという疑問もあった。けれど、考えてみれば部活も一緒でクラスも同じ。四六時中一緒に居れば分かることもあるのかもしれない。高尾は広すぎる視野のせいで昔から周りの感情に敏感だったけれど、一緒に居る時間が長い相手のことはそれなりに理解もしてくる。こちらが分かっている分だけ向こうも分かっていたとしても不思議なことは何もない。
「……別に無理なんてしてねーよ? 真ちゃん、オレのこと心配してくれたんだ」
あのエース様がねと茶化せば、五月蝿いだの黙れだの言われるのがお決まりだ。しかし、今日はそれらがない。無言もそれで気まずいのだが、すぐに「無理をするなと言っているだろう」とだけ返された。
だから無理なんてしていないと答えようとして、結局それが声になることはなかった。何を言っても無駄だと悟ったからだ。無意味なやり取りを増やそうとは思わない。肯定はされなかったが否定もされていないのはそういう意味だからだろう。本当に珍しいなと思いながら、このまま何も喋らないわけにもいかず必死に頭を回転させる。
「心配してくれんのは嬉しいけど、オレは大丈夫だからさっさと帰ろうぜ」
「……やはりその口も奪うべきか」
「……おい、何物騒なこと言ってんだよ」
思わず普通に返してしまったが、これは緑間の発言が発言だからだ。一つと言ったのも緑間だというのに、どうやら一つだけでは足りないと感じてしまったらしい。よくそんなに喋っていられるなと思うのだが、高尾からしてみれば特別多く喋っているつもりもない。そこは二人の性格の違いだろう。
とにかく、と話を切り上げようとしているのは時間も遅いからである。時間だからと練習を切り上げたというのにこれでは意味がない。鍵も返さなければいけないのだから、あまりゆっくりは出来ないのだ。
「とにかくもう帰らないと怒られるし、さっさと――――」
そこで止まったのは止めたからではない。止められたからだ。
既に両の目は緑間の手によって塞がれていた。何も見えなければ良いのにと。それからその口の奪うべきかと言い出していた彼だが、その言葉通りとでもいうべきか。今度は己の口で高尾の口を塞いだ。そんなことをされれば喋りたくても喋れなくなるわけで。
「もう黙れ。時間ならまだ大丈夫だ」
離れて真っ先に緑間はそう言った。何を根拠に大丈夫だと言っているのかと思ったが、そういえば今日はいつもより少し早めに上がると言われて片付けをしたんだったと思い出す。まさかとは思うが、この為に早く切り上げたのではないだろう。そこまで考えて、緑間なら有り得るのかと思ってしまったのだから困る。それが仮に本当だとしたらどうすれば良いのか。
「……ねぇ真ちゃん、手、どかして」
「目が見えればお前はまたすぐに笑うだろう」
「でも、これだと真ちゃんが見てないかは分からないし。それにオレ達しか居ないなら良いじゃん」
見えないと逆に不安になる。
それが見えすぎる視野を持っている高尾の心の声だ。普段が人より見えている分、何も見えないとそれが不安になる。相手が緑間だから良いけれど、なんてことは間違っても言わない。誰でも自分の苦手なことを言いたいなんて思わないだろう。高尾だってそうだ。
少しばかり悩んだようだが、緑間は高尾の言葉を聞き入れてその手を離してくれた。数分振りに目に入ってくる光が一瞬眩しく感じたもののすぐに慣れた。
そこに広がるのはいつもと何ら変わりのない部室。残っているのは高尾と緑間の二人だけで、時間も確かにまだ少しは大丈夫そうだった。
「今日の真ちゃん、やけに優しいね」
「お前がらしくないからだ」
そんなことないと思うけどなと緑間とは反対の方向に体を向ける。らしくないなんて緑間以外の誰にも言われていない。いつでも笑って過ごせるくらいには自分の感情を隠すのも得意だ。おそらく他の部員達にはバレていないのだろう。一番気付かれたくなかった人には気付かれてしまったけれど。
「あーあ、なんで見ないフリとかしてくれねーのかな」
気付いてしまったのに見ない振りなど出来ないだろうと言われたら否定は出来ない。普段それが出来ないのは高尾の方なのだから。
だけど弱いところなんて見せたくない。そうやっていつもやり過ごしていたのにどうしてコイツは気付いてしまったのか。せめて顔を見られないようにしてみたけれど、この空間で意味があるのかどうか。それでも見られるよりは見られない方が良い。
「高尾、なにも話せと言っているわけではないのだよ。オレの前でまで無理をして笑ったりするなと言いたいだけだ」
それは緑間なりの優しさだ。急に優しくされても慣れていないから困るのだが、そういう時は素直に甘えれば良いものである。いつも素っ気ない緑間に対してそんな風に言っているのは高尾である。
慣れていないのは実はどちらも同じ。そういう人が周りに居なかったからだろう。自分を甘えさせてくれるような人が。今は甘えられる人が傍に居るということを喜ぶべきなんだろうけれど、慣れないものは慣れない。でも、そんな人が居てくれるのは幸せだなと思う。
「ありがとね、真ちゃん」
そんな風に気にしてくれて、気付いてくれて。
最初は何の話かとも思ったけれど、それらは全て不器用な彼なりの気遣いだった。別に誰に気付いて欲しいとも思っていなかったしどちらかといえば気付かれたくないことではあったけれど、それが嬉しくもある。
かといって無理して笑っていたわけでもないのだが、そうしないといけないと思うこともあったから少し気が楽になった気がする。高尾とて人間なのだからいつでも笑顔でいられるわけじゃない。どんな時でも笑っていれば上手く収まるからそうしているだけ。神様でも何でもないただの人なのだから当たり前だ。
「そろそろ帰らないと流石に時間ヤバいし、行こうぜ」
「……そうだな」
振り向いた高尾はやはり笑っていたけれど、それは無理して作られたものではなかった。こんな風に笑うこともあるんだな、と思うと同時にこれまでどれだけあの笑顔でやり過ごしてきたのだろうと考える。考えたところで答えなど出ないと気が付いて早々に思考を放棄したけれど。それが高尾和成という人間なのだろう。
荷物を纏めて部室を出てそのまま鍵を返しに行く。帰り道はいつものようにジャンケンをしながら、毎日変わらぬ道を走って行くのだ。
その目を奪いたい
(そうすればお前は余計なものを見なくて済む)
(オレだけを見ていれば良い、なんて言葉にはしないけれど)