人の心は他人には分からない。当然だ。他人の心を見ることなど出来ないのだから。だからこそ人という生き物は言葉を使ったり、行動で示すことでそれらを伝えるのだ。
 それでも、やはり全てを形にして表現するというのは正直無理な話である。ある程度は伝えられるだろうけれど、全てとなれば相手の心を見る道具でも開発されない限り不可能だ。

 ただ、普段は滅多に見られない心の底にある本音や表に出さずに押さえている感情。それらを引き出す方法がない訳ではない。決して意図的ではないのだけれど時々見られるソレ。あるモノが絡むとそれらを自然と知ることになる。
 例えばそう。偶然街中で再開した友人とそのまま久し振りに話をしようと居酒屋に入ったとする。別段酒に弱い訳でもなく普段通りに飲んでいるつもりだったのだが……。


「真ちゃん、もうテーピングしねーの?」


 酒に弱くはない。むしろ酒の席でも滅多に潰れることはないようなタイプだ。だが時々、二人で飲んでいるとつい飲み過ぎてしまうことがあるらしい。
 ほんのりと頬を朱に染めた高校時代の友人は、男の左手を見つめながらそんなことを尋ねてきた。酔っているな、とはこの時点では思っていなかった。重ね重ねになるが、一緒に酒を飲んでいる二人はどちらも酒に弱くはない。だから基本的に酔った時のことは考えていないのだ。


「する必要がないからな」

「ふーん?」


 おもむろに手を伸ばしてそのまま左手を取る。色素の薄いその瞳は左手に向けられたまま。何がしたいんだと問わないのは、高校生だった頃からスキンシップは多い奴だったから。特に理由もなく人の眼鏡を取ったりいきなり飛びついて来たりなんてことはよくある話だ。何だと理由を聞いたところでまともな答えは返ってきた試しがない。だから問うことはせずに好きにさせてやる。


「オレさ、やっぱ真ちゃんの手好きだわ」


 いきなりそう言われて「は?」と思わず聞き返してしまった。いや、こんなことを言うのも今に始まったことではないのだが。それこそ高校生だった頃は「真ちゃん好きー!」と言って抱き着いてきたことも少なくない。周りもまたやっていると思う程度には日常的なことだった。
 だからこれも普通といえば普通なのかもしれないが、赤く染まった頬は酒が入っていることを示している。ちらりと見た瞳がとろんとしていて、これは酔っているなとここにきて漸く気が付いた。
 気が知れている相手だからだろう。普段は酒の席でも酔わないけれどこうして二人で飲んでいる時だけは酔ってしまうことがあるのだ。それは緑間とて同じことなのだが今回は高尾の方に酔いが回ったらしい。


「この手があの高くて綺麗なループを描くんだぜ」


 高い高いループ。綺麗な弧を描くボールを放つ。
 かつてはキセキの世代ナンバーワンシューターと呼ばれていた。中学の頃から有名だった彼等の名は高校時代でも変わらずに世間に知れ渡っていたけれど、それは既に過去のことだ。
 理由は自分達が高校を卒業して数年が経っているからではない。それよりも前から高尾をはじめとするチームメイト達は知っている。彼がキセキの世代の緑間真太郎から、秀徳高校の緑間真太郎として彼がチームに尽くしてくれていたことを。キセキの世代という肩書が過去のものとなったのはその頃から。


「お前のスリー見るの好きだったな。あんなシュートを打てるのは真ちゃんだけだよね」

「そうとも言い切れないだろう」

「ううん。オレはお前のシュートが好きなの」


 緑間が否定をしたのは同じようなシュートを打つことが出来る選手がいるから。彼と同じ帝光バスケ部出身、キセキの世代の一人である黄瀬涼太。黄瀬は他人の技を自分のものにして使える能力を持っていたから、緑間や他のキセキの世代の技を使用することが出来る。それらはオリジナルよりも劣るとはいえ、傍目から見れば本物のそれと大差ない出来栄えだ。
 けれど、それはあくまでもコピー。本物は格段に違うのだ。そう言い切れるのは、ずっと緑間の隣でそのシュートを見てきたから。一日に何百本とシュートを撃ち、爪のケアも念入りにして全てにおいて人事を尽くしている彼の左手が放つシュートは特別なのだ。本物に劣らないコピーがあるとしてもそれは別物。高尾が好きなのは、緑間の左手から放たれるスリーポイントシュート。


「いつ見てもやっぱり凄くて、お前のシュートってキラキラしてんの。ボールが通ったところに光の軌道が見えるんだよ」


 実際にそんなものは見えない。けれど、高尾の目にはその光が映っていた。それを見るのが好きで誕生日に何が欲しいと聞かれた時に「お前のシュートが見たい」と頼んだことがある。それくらい高尾は緑間のシュートが好きだった。
 いや、今でも緑間のシュートが好きだ。だからもう見られないのは残念だけれど、それが彼の選んだ道なのだからと納得している。高尾自身もバスケから離れたため暫くボールには触っていない。バスケに夢中だった高校時代は、ハードな練習が辛い時もあったけれどそれ以上に沢山の思い出に溢れている。


「光の軌道が見えていたのは、コートの上ではないのか?」

「ん? ああ、それも見えてたよ。けど、オレのコレとお前のシュートは全然違うから」


 コート上の光。緑間は昔高尾にそんな話を聞いたことがあった。高尾は鷹の目という少し特殊な目を持っており、コートを俯瞰から把握することが出来る。その目もあってパス回しが得意な選手だった。コートにいる全員の位置を把握しているから、どこにどうパスを出せば良いのかも全部見えている。
 そう前に高尾は言っていたのだ。パスコースは光の道みたいに見えているのだと。どこにボールを出したら良いのかというより、どの軌道にボールを乗せるかという感覚でパスを出すと話した。だから高尾の目にはコート上に光の軌道が見えているのだと緑間は知っていた。けれど、それと緑間のシュートでは別物らしい。


「真ちゃんが左手を大事にしてるのは知ってるけど、オレにとってもこの左手は宝物みたいなものなんだよな」


 今でこそこうやって自然に触れているが、高校生だった頃にはまず有り得なかった。左手には常にテーピングが巻いてあり、白めの肌が見られることも試合以外に殆どなかった。それ程までにこの左手は大事な物として扱われていた。
 それは彼の周りにいる人なら当然知っていて、高尾にとっては緑間が自身の左手を大事にしているのと同じくらい。むしろ、それ以上にその左手を特別視していた。スキンシップが多い割に手を掴む時は必ず右手を取る。触れる時には確認を取り、高尾が緑間の左手に触れたことは少ない。そういえば前に一度、お前の左手になりたいなんて言っていたこともあった。理由は「真ちゃんにそんなに大事にされているから」だったと思う。


「お前は左手に執着しすぎているのだよ」

「んなことねーよ。だって…………」


 不意に言葉が途切れた。
 だって、の後に続くはずの言葉は何なのか。気になって「高尾?」と顔を上げるが、俯いた彼は「なんでもねーよ」とすぐに笑って見せた。いつからか分かるようになった作り物の笑顔で。
 優しく壊れ物を扱うかのように触れるのは相変わらずで、その手を離す時も両手でそっとテーブルの上に下した。もう少し何か頼むかと空になった皿を見ながら尋ねられるが、この様子では酒でさえ追加はいらないだろう。そこまで頭が回らなくなっているのか、それとも早く別の話にしたかったのか。


「高尾」


 名前を呼べば「ん?」と短く答えながらその目は翡翠を捉える。気を許している相手だからこそ酒を飲み過ぎてしまい、信頼している相手だからこそこんなにも無防備なのだろう。だが、それは緑間にしても同じことがいえる。今回はたまたま高尾の方が酒に飲まれたが逆のこともある。それはやはり、緑間にとっても高尾がそういう相手だからだ。
 だが、ここまで無防備なのは如何なものか。信頼されるというのは嬉しいことだが複雑でもある。左手に執着しすぎている、といった先程の言葉もそんな気持ちからきている。自分の左手に妬くなんて自分でもおかしいとは思うけれど、高尾があまりにもこの手を大事にしているから。


「真ちゃん?」


 呼んだきり何も言わない緑間に首を傾げる。
 酔いが回っている今の状態なら頭もあまり働いていないだろう。今なら、なんて考えてそれを自身で否定する。それに何の意味があるのか。違う、意味なんてなくて良い。だから今だけ……。


「…………すまない」


 聞こえるか聞こえないか程度の声で呟かれたかと思うと、緑間はその身を乗り出して自分の唇を高尾の唇へと重ねた。
 突然のことに高尾はされるがまま、時折苦しそうな声が口から零れる。そろそろ限界かというところで緑間は自然と離れると、酔っている高尾以上に熱の籠った瞳を元相棒に向ける。胸の中に広がるのは、酔って碌に状況も理解できない友に対する罪悪感と、溢れる友情を越えた情熱。


「しん、ちゃん? 急にどーしたの……?」


 ほろ酔いならまだしもここまで酔っていれば明日には全部忘れてしまうだろう。それもこれまでの経験で分かっている。この熱にも高尾は気付かない。
 このまま気付かなくて良いから、なんて我ながら酷いとは思うが緑間はその問いに答えるべく口を開く。謝罪や罪悪感ならこれまでに何度も感じている。


「お前が人の左手にばかり執着するからだ」

「だからそれは……いや、でもそれとさっきのって関係あるの?」


 やはりその先の言葉は飲み込まれてしまう。一体何があるというのか。緑間にはそれが分からない。高尾にはこの行動の理由が分からない。お互い、一番気になる部分は教えてもらえないから。

 もし、それを話してしまったら。オレ達は今のままではいられなくなる。
 だけど今なら、酒の席なら。

 そう思ったのがどちらだったのだろう。知っているのは神様ぐらいだ。この世に神なんてものがいるかは知らないけれど、この場に必要なのは神より酒だ。何せ、どちらか一方でなく二人ともが全部を酒のせいにしてしまおうなどと考えているのだから。それ以上のものなど必要ないだろう。
 とはいえ、相手がそんなことを考えているなど微塵にも考えていないに違いない。二人が考えていることの根本が同じことにさえ気付いていないから。
 しかし、ここは酒の席だ。お酒がある今だから、全部冗談で済まされる。


「高尾、オレは自分の手に嫉妬をするとは思わなかったのだよ」

「手? って、左手?」

「お前はこの左手のことばかり気にするだろう。それが少しでもオレに向けられれば良いと、そう思った」


 どうしてそんなことを思ったのか、というのは愚問だろう。左手にばかり執着する男に好意を抱いているからに他ならない。今ならそれを伝えても明日には忘れる。ただの自己満足にしかならないけれど、とめどなく溢れる感情が零れ落ちた。それも全て目の前のこの男が原因だ、というのは理不尽かもしれないが。

 けれど、今の高尾には理不尽だと感じられるほど頭は回っていなかった。今の高尾が自分なりにその言葉を理解した時、頬に一筋の雫が流れた。
 いきなり泣き出した高尾に緑間は戸惑うが、それ以上に高尾自身が戸惑った。どうして涙なんて出てくるのかと目をこすろうとする手を一先ず止めさせて、緑間はそっと涙を拭ってやる。


「すまない、泣かせるつもりはなかった。だが、こんなことを言われれば困らせてしまうのは当然だな」


 涙を拭ってもまた一つと雫は零れ落ちる。次々に落ちるそれをどうするべきかと緑間が悩んだところで、高尾は「違う」と首を横に振る。微かに聞こえた声に何が違うのかと聞き返そうとするが、涙は止まることを知らないかのように流れる。
 反射で出た右手は止められてしまった為、空いていた左手で目元を抑えながら高尾は違うのだと繰り返した。


「違う、違うよ真ちゃん。オレは困ってなんかない」


 だったらどうしたのか、と問われるよりも先に高尾は続ける。正直、こんな状態ではまともに頭も働いておらず状況整理もあまりできていない。出てくる言葉は頭に浮かんだままの形にしかならないけれど、それでも伝えるには喋るしかないことは理解していた。


「お前さ、ズルいよ。オレも人のことなんて言えないけど、オレがこんなだからそういうこと言ったんだろ? どうせ明日には忘れるだろうし、オレはそんなのヤなのに」


 おそらく、本人も何を言っているのか分かっていないだろう。そこまで酔っていないはずの緑間でさえ頭がついていかない。それは酒のせいというよりも高尾の発言のせいなのだが、とにかく一度この状況を整理すべきである。
 整理するといっても、今分かっているのは緑間が高尾に好意を抱いていること。そして高尾もまた緑間が好きである、というなんとも分かりやすいことにしかならないのだが信じられないという気持ちがそれ以上に大きい。その結果、酒が入っていたこともあり高尾が泣き出すということに陥っている。


「ちょっと待て。お前はオレが好きなのか……?」

「好きだから、お前が大事にしてる左手になりたいって言ったんだよ。オレだってお前に、だってオレはあの頃からっ」


 お前の相棒をやっている時から、お前に恋をしていた。
 友達としての好きではない。それを超えた感情を持ってしまった。けれどそんな気持ちを大切な相棒に伝えることなどできるわけもなく、その気持ちを押し込めてずっと隣に並んでいた。高校を卒業して大学生になってからも。ただの友達として会っては一緒に酒を飲んで、これからもそうやって生きていくんだと思っていた。
 少なくとも、そうしていれば友達でいられるから。友達という関係があればお前の隣にいられるから。


「ずっと好きだった。違う、オレは今もお前が――――」


 好きだ、とは言わせてもらえなかった。その先は口を塞がれたせいで声にならなかった。知らなかったというよりは、そんなことがあるはずないと思っていた。だからこの気持ちは墓まで持っていくつもりだったし、仮にそれを告げる日が来たとすれば自分達の関係が終わる時だとばかり思っていた。
 重ね合った唇が離れた時、高尾の涙も漸く収まった。その涙の理由も今なら分かる。そこまで酒が入っていなかった分、緑間の方が冷静に状況を理解した。どんなに噛み砕いて説明したとしても、今の高尾にどこまで理解してもらえるかは分からない。けれど。


「悪かったのだよ。今度はお前が酔っていない時に言う」

「ほんとに? オレが酔ってなかったとしても、お前は同じこと言えんの?」

「ああ。だから今日はもう帰るぞ」


 今すぐに伝えなければいけないことは伝えた。あとは高尾の酔いが醒めてからにしよう。このまま話を続けても何も変わらない。幸いにも明日は土曜日だ。これまでのことも含めて包み隠さず話をしよう。


「ねぇ真ちゃん」


 分かったと答えた後で名前を呼ぶ。伝票を手にしたまま緑間が振り返ると小さく笑って言った。


「ありがと」


 それが何に対するお礼だったのかは分からない。だが、聞き返すよりも先に「行くか」と荷物を持った高尾に聞くタイミングを逃してしまう。気にならないといえば嘘になるが、それも明日纏めて聞けば良い。現在一人暮らしをしている高尾の住所くらい知っているけれど、明日は休みなのだからわざわざこんな状態の奴を一人にさせておくことはない。
 どちらかが酔って自分の部屋に泊めるなんてよくあることだ。今更そこは問題ではないだろう。その後は少しあるかもしれないけれど、酒の力で出た言葉が本音ならば何も問題はあるまい。







お前に大事にされてみたいと思ったのはいつだったか。

(いつも壊れ物を触るかのように大切にするのだな、お前は)
(テーピングをして爪を整えて、お前って本当に大事にしてるよな)