「兄ちゃん」


 高校を卒業し、大学に進学した和成。兄の部屋を訪ねて来るのは相変わらずである。その兄はといえば、もう大学も卒業し社会人になっている。今日は二人共休みの日だ。


「どうした」

「んー? 特に用はないんだけどさ」


 用がなくて部屋にやって来ることも多々ある。一時期では考えられないことだが、結局は仲が良い兄弟ということなのだろう。用がなくても弟を真太郎は部屋に入れてやるし、一緒の部屋にいながらそれぞれ自由に過ごしているというのも少なくない。
 とはいえ、そういう場合においても途中で和成が兄に構いだす。そう、今もまさにそんな感じである。


「オレももう大学生になったんだぜ?」

「それくらい知っているのだよ。何かあったのか」

「あったというより、何もないっていうかな…………」


 言葉を濁しながら曖昧なことを口にする。兄はクエッションマークを浮かべているが、和成はそれ以上特に説明をするつもりはない。自分達は兄弟でありそれ以上でもそれ以下でもない。仲の良い兄弟という関係ではあるが、そこからは何も変わらないのだ。
 これは幼馴染という関係と似ているのかもしれない。なんて考えつつも幼馴染なんていないから分からないとは弟の談。他よりも近い存在だけど、近いが故にそれ以上進むことがない。それが良いのか悪いのか。


(まぁ、オレが弟だからなんだろうけど)


 こちらが気付いているということに兄は気付いているのか。優秀な兄だけれど、こういう面についてはどうなのか分からない。兄弟のスキンシップと言い張る過度の愛情表現をしているのだから、流石に気付いていないということもないのだろうけれども。
 それでも何もないのは、やはり和成が弟だからなのだろう。少なくとも、高校生だったあの時はそうだった。こっちのことを気にしてくれているというのは和成も分かっているのだ。分かっているのだけれど、このままでは進展など何一つないだろう。


「兄ちゃん、オレのこと好き?」


 言いたいことを全部押し込めて、代わりにいつも通りの質問を投げ掛ける。すると、やはりいつも通りに肯定が返ってくる。そしてこちらも好きと伝えて軽く口付けを交わす。こんなのはよく行われるやり取りだ。それでいて何もない辺りが兄弟という立場があるからだ。
 すぐに離れた兄をじっと見つめれば、もう一度だけ唇を落とされる。勿論、これも兄弟愛だ。あくまで今は、という話だが。


「カズ……?」


 ぎゅっと抱きついてきた弟を不思議に思う兄。
 珍しいこともあるものだと真太郎は考える。ただ抱きついてくるくらいならよくあることなのだが、この態度はいつものそれとは違うようだ。これは拗ねているのだろう。何故拗ねているのかまでは分からないけれど、何かあったのは間違いない。
 だが、この状況で考えられることといえばかなり限られている。数分前までは各々で過ごしていたのだから、数分間の出来事のうちに何か思うところがあったのだろう。この数分の内に和成が考えそうなことを考えてみるが、これだけの時間では思い付くことなど多くない。


「カズ、言いたいことがあるなら言ってくれないと分からないのだよ」


 ぽんぽんと頭を撫でてやると不満そうな顔で和成は真太郎を見た。やはり拗ねていたのは当たっていたらしい。これでも長年兄弟として付き合っているのだから、それくらいの判断は難しくない。何を考えているかもある程度なら予想は出来ている。
 しかしそれを言わずに尋ねたのは、その考えが間違っている可能性を考慮したからだ。加えて、こうして尋ねたならちゃんと話してくれることも知っているから。真太郎の思っていた通り、和成は考えるように視線を揺らした後でゆっくりと口を開いた。


「兄ちゃん、オレもう大学生なんだけど」

「それはさっきも聞いたが、何が言いたいんだ?」

「んー……兄ちゃんがいつまでも兄ちゃんっていう話、かな」


 なんとも曖昧な表現をした和成。はっきり言わない理由も分からなくはない。誤魔化したというのはそれなりの理由があったからなのだろう。そうでなければこんな言い回しをする必要はない。
 それでも態度に現したということは、つまりそういうことなのだろう。


「オレが兄なのはこの先も変わらないが」

「そんなことはオレも分かってるよ」


 あえて言葉の通りに受け取れば、そうではないと言いたげな反応を返された。兄弟である以上、血の繋がりがあるのだからこの関係だけはどうやったって変わらない。それが良いことでもあり、悪いことでもあるというのは抱いてしまった感情のせいだ。兄弟愛、という枠には収まらない感情を抱いてしまった為にこんな悩みが生まれてしまう。


(オレはお前の兄だから、あまり間違ったことはしたくないのだが)


 逆にそれが不満であることには気付いてしまった。自分の気持ちにも弟の気持ちにも、真太郎はちゃんと気が付いている。ただ、その先の一歩を踏み出さないのは和成の想像した通り。和成が弟だからである。
 以前そんな雰囲気になった時も結局はなにもなしで終わった。尤も、あの時に話を逸らしたのは和成の方だったが。それも兄の性格を分かっているからそうしただけなのだが、それは本人のみが知ることだ。大学生を強調しているのは、その時に和成が高校生だったことも影響しているから。


「なぁ、兄ちゃん」

「…………全く、お前はオレにどうして欲しいのだよ」


 言えばきょとんとした表情を見せる。こう返されるとは思っていなかったのだろう。だがすぐに含みのある笑みを浮かべたのには思わず溜め息が零れた。兄が自分の言いたいことを既に理解しているということに和成も気付いたのだ。
 色々と思うところはあるのだが、弟の考えていることは真太郎が予想した通りで間違いないようだ。どうするべきかとは考えるものの、和成の機嫌を直す方法など分かり切っている。


「オレはお前の兄なんだが?」

「兄ちゃんは奥手すぎるんだよ。オレもう大学生になったのに」

「それでも弟には変わりないだろ。自分の言葉には責任を持てと教えたはずだが」

「責任持ってるぜ。だって、オレは兄ちゃんが好きだもん」


 思い合っているのは同じなのにその先に進めない。進めなかったのだが、どうやら弟の方はそれでは満足出来なくなってしまったようだ。人の気も知らないで、とは兄の心の声である。
 兄弟として“好き”から別の意味を含めた言葉。兄弟だから許される範囲、なんて本人達の言い訳に過ぎない。とっくにそんなラインは超えている。過度のスキンシップがただの兄弟愛というには苦しいということくらいもっと前から感じていた。


「カズ、後悔しても知らないぞ」

「後悔するようなことなんてないから大丈夫だぜ」


 兄ちゃん優しいし、と付け加える。オマケにオレには甘いんだよなと思いつつも、それは口にしないでおいた。後悔なんてするわけがないのに、こうやって気に掛けてくれるあたりは兄らしい。
 気にしなくていいと言ったって、兄は気にしてしまうのだろう。それをいうなら逆もまたしかりだとは思うのだが、そんなことを言い出せばそれこそ何も進展しない。兄が奥手ならこちらが行動に移さなければ何も変化は起きないのだ。


「兄ちゃん、好きだよ」


 柔らかな笑みを浮かべて告げる。今までのように兄弟愛で誤魔化さずに本当の気持ちを。いつだって愛情をこめて伝えている言葉だけれど、僅かな違いがあることを兄なら感じ取っているのだろう。


「オレも好きだ、和成」


 優しく微笑んで深く口付けを交わす。今までとは違う、兄弟愛の域を超えた愛情表現。
 兄弟にしては少し近付きすぎた距離は、その壁を越えて触れ合う。この兄弟という距離は丁度良かったのだが、互いにそれを越えたいと望むのならこれも有りなのかもしれない。様々な問題は残るが、弟も子どもではないのだ。だからこそ、年齢を強調して兄を求めた。そして、それを理解したからこそ弟を受け入れた。
 ほんのりと朱に染まる頬。見上げる弟はとても幸せそうで、つられて兄も小さく笑う。そんな弟が可愛いと思ってしまうのはもう仕方がないだろう。


「オレ、これからも兄ちゃんとずっと一緒にいたい」

「一緒にいればいいのだよ」


 大切な弟は必ずオレが守るから。声に出せばもう守られてばかりの年ではないと文句を言われてしまったが、いつまで経っても弟は弟なのだ。兄として弟を守りたいと、愛しているからこそ大切な人である和成を守りたいと思う。それはこの先もずっと変わらないだろう。この先もずっと傍でその笑顔を守ってやりたいと、そう思うのだ。


「離して欲しいと言われても離せないからな」

「それなら、代わりにオレのことを離さないでよね?」

「頼まれなくてもそうするつもりだ」


 その言葉を聞いてまた嬉しくなる。離さないで欲しいと言った和成だが、兄が離さなくてもこちらも離すつもりもない。兄はいつまでも自分だけの兄であり、大切な人なのだ。これからだって一番近くで兄を見ていたいと思う。
 和成は真太郎が大好きなのだ。優しいお兄ちゃんとして幼い頃から好きだった。一人の人間としても愛している。


「兄ちゃん」


 これからもよろしくね。
 ぎゅうとまた抱き着いた弟に「あぁ」とだけ返して、真太郎はその背にそっと腕を回した。

 目に見えた変化は殆どないけれど、それでも二人の中で大きく変わった。兄弟愛と恋愛。二つの意味を含んだ愛の言葉。
 今までも兄弟愛で貫きながら両方を含んだ愛情表現をしていたけれど、もうそんな必要はなくなった。表にするには多くの問題があるけれど、この兄弟となら共にどんな道でも歩いて行ける。
 二人で一緒に幸せを手に入れよう。

 大切な人と一緒にいられる、彼が笑っていられる世界で。










fin