「緑間さん」


 呼ばれて用件を聞き、頼まれたことを済ませるまでに数分。それから報告をし終えたところでもう何度目か分からない言葉を口にする。


「和成様、私のことは呼び捨てで構わないのですが」

「そう言われても、緑間さんってオレより年上でしょ?」

「それはそうですが私は貴方に仕えている身です」


 でも年上なんだからさん付けくらいはしても良いだろうと高尾は思うのだ。こういう関係であるからこそだが、普段は高尾が緑間に色々と頼んだりしている立場だ。最初こそ使っていた敬語は止めるように言われて止めたのだから、これくらいは許してくれても良いのではないか。
 しかし、緑間の立場からしてみれば敬語もさん付けもいらない。自分は彼に仕えているのだからそういうものは一切不要だと考えている。実際なくていいものだ。こちらに気を遣う必要などない、とこんなやり取りは既に何十回目となる。


「緑間さんって真面目だよな。そんなことくらい気にしなくても良いじゃん」

「そんなこと程度ならやめて頂きたいのですが」


 これは単なる考え方の違いだろう。彼等がもし逆の立場だったら相手の気持ちも分かったかもしれないが、二人の関係は今もこれからもこのままだ。逆になることなど有り得ない。
 それならどうするべきか。やはり緑間の意見を聞き入れて呼び捨てにするべきなのだろうか。そう思ったところでふとあることが頭に思い浮かぶ。


「そういえば緑間さんって下の名前は?」


 どうしてそんなことを聞くのかとは思ったものの、聞かれたからには答えるのが礼儀だ。あまりいい予感はしないけれど答えないわけにもいかない。


「真太郎ですが」

「じゃあ真ちゃんで!」


 なぜそうなるのかという疑問は緑間“さん”と呼ぶのが駄目だと言われたかららしい。かといってそういう意味で言ったわけでもないのだが、さん付けでないならあだ名しかないというよく分からない理由を挙げられる。これならさん付けの方がマシな気がするが、もう好きにしてくれという気にもなってくる。最低限、敬語ではなくなっただけ良い。
 自由にしろと言われたらそれでどうしようかと考えるが、せっかく名前を教えてもらったのだからとこれからは“真ちゃん”と呼ぶことにしたらしい。


「でもさ、オレ的にはそういうのはこだわらなくていいと思うんだけど。真ちゃんがオレに敬語を使う必要もないと思うし」

「そう思っているのは和成様だけでしょう」

「そうだとしても、真ちゃんが仕えてるのはオレなんでしょ?」


 緑間が仕えているのは確かに高尾だ。だが、だからといって彼の言うように敬語を使わないわけにはいかない。身分が違うということを彼は分かっているのだろうか。単純にそういうことを気にしないタイプなのだろう。上に立つ者としては珍しいタイプだ。


「それでも出来ません」

「お堅いね。もう少し緩く生きても良いんじゃねーの?」

「お言葉ですが、和成様はもう少しご自身の立場を自覚された方が良いかと思います」

「オレはもともと上に立つようなタイプじゃないし」


 今のこのポジションだって高尾が欲しくて手に入れたわけではない。そういう家に生まれたから必然的にこのポジションを得ただけだ。何の苦労もせず、ただ生まれがそうだったからだけで上に立っている。そんな人間が上に立って良いのかも分からないし、だからこそ緑間に敬語を使われるのもおかしな感じがするのだ。
 けれど、それもこの家に生まれてきた宿命だ。高尾がそう思っていようが周りの環境はそれに順応している。何かがおかしいと思っても、周りは高尾に上に立つ者らしさを身に付けるようにと言うのだろう。


「そういうところも和成様の良いところですが、それで苦労するのは貴方です」

「けど、オレ以上に苦労してるヤツなんて沢山居るだろ?」


 そう言いながら高尾はすぐ近くの男性を見る。その意味を理解して「私は特別苦労はしていません」と緑間が否定する。
 だが、彼もそういう家柄に生まれたのだから少なからず苦労はしてきているはずだ。高尾に言わないというのも当然といえば当然である。誰も自分の主人にそんなことを零したりはしない。


「和成様、上に立つということを覚えて行った方が良いのではないですか」


 全く自覚のない主人に思わず溜め息が零れる。この人はいずれ大勢の人の上に立つのだ。その時、彼の優しさはマイナスにしかならない。
 優しいことは良いところであるが、それだけでは駄目なのだ。人を使うことを覚えたりしていかなければいけないのだが、この主人は人を使うということ自体があまり得意ではない。というよりは好きではないのだ。緑間にさえ必要最低限のことしか頼まない。

 これでは良くないと言っても、高尾からしてみれば何も問題はないんだから良いだろうということらしい。いざ跡継ぎとしてそこに立った時には器用な彼のことだから上手く立ち回るのだろうが、それが良いのかといえば首を傾げられるだろう。そうならない為には、少しずつでもそういうことを覚えてもらうしかない。


「少しずつ慣れる為にも、何か頼みたいことはありませんか」

「そんなこと急に言われても……今は特にないんだけど…………」

「とりあえず、食べたい物でも構いませんが」


 食べたい物と言われたって急には出てこない。それならやってもらいたいことでもないのかと言われても、一応考えてはみるものの思い浮かばない。高尾にとっては人を使うということは普通ではないのだ。いずれはそうなるとしても、今は違うのだからこのままで良いのではないかとも思う。
 それは甘い考えだと周りは言うだろうが、それでも許してくれていたのは高尾の一番近くに居る緑間だ。けれど、その緑間もやはり少しは覚えてもらうべきだろうと思ったからこんな状況になっている。


「本でも読みましょうか」

「そんな年じゃないって。真ちゃん段々適当になってきてるだろ」

「貴方が急に言われても困るというから提案をしているまでです」

「その提案が適当過ぎるんだけど」


 適当だと言うのなら貴方が考えてくださいと言われても困るのだが、一体この場をどうやって乗り切れば良いのか。敬語を止めるっていうのはと試しに言ってみるが即却下された。そういうことではないと言われても、そういうことぐらいしか思いつかないのだ。
 こうなったら絶対に無理なことを言ってこの場をやり過ごそうという方向にシフトする。緑間が自分のことを思って言ってくれていることは分かるが、やはり高尾には人を使うというのがまだ分からない。


「んー……じゃあさ、本にあるように靴を舐めろとか言ったらどうすんの?」


 これなら無理だと言われるだろう。敬語や敬称についてのことではないし、それならこの話はまたということにでもすれば良い。
 そんなことを考えたのだが。


「分かりました」


 などと返ってくるものだから慌てて止めさせる羽目になった。するとどうしたと言いたげな視線を寄越されたのだが、それはこっちの台詞である。まさかこんなことまで聞き入れられるとは思わなかったのだ。絶対にやらないこととして考えたことを実行されれば驚く。
 緑間からすれば言われたことをやろうとしただけなのだが、その辺も考え方の違いというやつだろう。高尾が止めなければ緑間は間違いなく実行していた。


「そこはちゃんと断れよ!」

「断る理由がないでしょう。それに言ったのは和成様ですが」

「断られると思ったから言ったんだよ!」


 意味が分からないという目を向けられても説明をする気にはならない。どうしてここまでしてくれるのか。それは自分が彼の主人という立場の人間だからなのだろうが、それにしたって断る権利くらいあるはずだろう。そんな風に考える者など殆ど居ないが、高尾からしてみれば不思議でしょうがない。


「なんで真ちゃんはそこまでしてくれんの」


 高尾は緑間にとっての主人だから。当たり前すぎる理由が聞かずともある。主人の言葉は基本的に絶対だ。どんなことでも聞き入れないければいけない。中には敬語のことのように断らなければいけないこともあるが、主従関係があるからという理由以外必要ない。
 だから緑間の言葉もそういうものだと思った。しかし、緑間の口から出てきたのは予想とは違う言葉だった。


「それはお前が…………」


 言いかけてすぐに何でもありませんと否定された。出かかったその言葉は普段の敬語も忘れられていた。一体その後には何が続いたのか。気になって尋ねても忘れてくださいの一点張り。
 いっそのこと教えろと言い切ってしまえば良いのだが、そこまで機転が回らなかった。だが、もしそういう考えに至ったとしても高尾はそれを言わなかっただろう。無理にまで聞き出そうとはしないけれど、気になるから教えて欲しいと尋ねるに違いない。
 そんなやり取りを数度交わしたところで、仕方がないと折れたのは緑間。


「貴方は主人である以前に大切な人だからです」


 これで良いだろうと緑間はそのまま「仕事が残っているので失礼します」と部屋を出て行った。何気なく時計を見れば、確かにそんな時間だ。逃げる為の口実でもあったのだろうが仕事があるのも本当だろうから呼び戻したりするのも悪い。
 しかし、先程の言葉はどういう意味なのだろうか。一人で考えたところで答えは出ない。こればかりは緑間本人に聞くしかないだろう。今は無理だからまた次の機会に。


「緑間さんの主人になる前、か」


 そこに何があったのだろうか。オレは何かを忘れているのか。
 また答えのないループに陥りそうになるのを抑えて高尾は本棚から一冊のファイルを取り出す。緑間にも仕事があるように、高尾にだってやるべきことはあるのだ。答えの出ない疑問は後回しにしてまずは仕事を片付けてしまおう。







(その器はあるのだから自覚をしてくれれば良いのだが)
(そういうのはまだよく分からない。でも、そういう家に生まれたから)

主人とそこに仕える者。
その出会いは数年前なのだと、主は知らないのだろう。