特別な意味の“好き”
「やっぱり真ちゃんは流石だよな」
どちらも休みの休日。弟の部屋にやってきた兄は、真太郎が先程終わらせた課題に目を通していた。いるのなら見てくれと頼まれたから目を通しているのであって、和成が確認するまでもなく課題は完璧にこなされている。
優秀な弟を持ったものだなと思いながら、課題を返すのと同時にお疲れと労いの言葉を掛けながら頬にキスを落とした。幾つになっても兄のスキンシップは健在である。
「もう課題は終わり?」
「今のところはこれで全部なのだよ」
「じゃあ、この後は特に予定もなしってワケか」
だからといって何かする訳ではない。ただ単に、この後は一緒に過ごせるということを確認しただけだ。既に課題をしている最中でも部屋に来ていたのだが、それはいつものことだから今更気にすることでもない。別々に過ごすのと一緒に過ごすのとではやっぱり違うのだ。
「たまにはバスケでもする? オレも真ちゃんもバスケ離れちゃったけど」
あ、でも絶対にブランクやばいよななんて兄は笑っている。バスケが好きなのは変わっていないが社会人の和成は勿論、大学に進んだ真太郎も高校まで続けていたバスケからは離れた。現役の時のように体を作ってはいないのだから、あの頃のようにとはいかないだろう。それでも、まだ二十代である二人に出来ないことはない。
今日は天気も良いことだし、出掛けるのには問題ない。だが、こんな発言をしながらも兄に出掛けようとする気は見られない。
「それで、兄さんは何がしたいのだよ」
考えるよりも本人に直接尋ねた方が早い。補足をすると、考えたところで予測の斜め上をいかれることもあるのだから聞くのが一番なのだ。兄弟だから何を考えているのかもある程度分からなくもないが、この兄の場合は時々何を考えているのか全く分からないこともある。ポーカーフェイスが上手いのだ。そうはいっても、弟の前ではそんな面を見せることは殆どないけれど。
「真ちゃんは何がしたい?」
「オレは特にこれといってやりたいことはないが」
質問していた筈なのに質問で返される。とりあえず思ったままに答えると「そっか」とだけ言って笑みを浮かべている。
いつも通り、な気もするがそうではない気がする。何か意味ありげな表情に、何を言い出すのかと自然に構えてしまう。それに気付いた兄が笑いながら「何心配してんの?」と疑問を投げ掛けてくるが、この状況で何かあると考えない方がおかしいだろう。とはいえ、そういう考えになるのは弟ぐらいなものだろうけれども。
「別に何しようってワケじゃねーぜ?」
「既に含みのある言い方な気がするのだが」
「んなことねーって。久し振りに一緒に過ごせるんだから、純粋に一緒にいたいと思っただけだぜ」
言葉に偽りはないのだろうが、やはり何か含みがある気がする。あまり疑うのもアレだが、何を考えているか分からない以上こうなってしまうのも無理はない。それでいて何もないこともあるけれど、この状況でその線は薄い気がする。
明らかに疑っている弟の様子に、和成は思わず苦笑いを零す。全く何を心配しているんだかと思いながらも、やっぱり弟だもんなとも考えていた。本当にただ一緒に過ごしたいと思っただけなのだ。まぁ、若干そういうことを考えていたのも事実だが。
「バスケじゃなければピアノ? それとも、もっと別のことするか?」
「兄さんがやりたいことで構わない」
バスケなら二人で出来るが、ピアノとなれば弾くのは勿論真太郎だ。兄が聞きたいと言うのなら弾いても良いが、とりあえず兄のやりたいことに合わせることにする。真太郎自身は特にやりたいこともないのだから、選択は兄に委ねるのが良いだろう。
その言葉を聞いた兄は、それなら何をするかと考え出す。が、すぐに口角を持ち上げて弟の手を取るとそのまま腕を引いた。いきなりすぎる行動に真太郎は兄に引かれるままによろける。体格差はあれど不意を付かれれば同じ男なのだからそれくらいは可能だ。
「真ちゃんって、意外と何もしないよね」
「…………何の話だ」
「ん? べっつにー?」
別にと言いながらも普通にキスをしてくるのだが、これも通常運転であるのだからどうしたら良いのやら。スキンシップは程々にしろと言っても結局は何も変わらず。それどころか、その話をした時はむしろそれで構わないという結論になったのだ。人の気も知らないでという真太郎に対し、兄はそれなら問題ないと話を結論付けたのだ。
そんなわけで今も過度なスキンシップをしているが、あくまで兄弟としてのスキンシップである。ここまでくると、あれも兄弟としての行き過ぎた愛情に納まる気がしないでもない。この答えは、本人に聞く以外に知る方法はないけれど。
ちなみにわざわざ腕を引いたのは、立ち上がった弟との身長差をどうにかするためだ。二十センチも差があると普通に立っているだけでは届かないのだ。
「やっぱり真ちゃんは可愛いって話かな」
「……意味が分からないのだよ」
質問に答えられたとはいえ、何を言い出すんだと真太郎は思う。そのまんまの意味だと言われても反応に困る。大体、会話の流れとしては話が噛み合っていない。とりあえず兄は楽しんでいるようだ。
全く、今度は何を思いついたのやら。兄の考えていることを考察してみるが、その答えは見つかりそうになり。つい溜め息を零せば、幸せが逃げるからダメだと注意される。実際に減るかどうかは知らないが、とりあえず聞き入れておく。
「兄さん、何かしたかったのではないのか」
「真ちゃんと一緒に過ごしたかっただけだから、やることは何でも良いんだよね」
それは初めから分かっていたが、何かしらはするつもりだったのではないのだろうか。特に何をするでもなく過ごすのでも悪いとは言わないけれど。兄の性格からしても何かしようと言い出すものだとばかり思っていた。
「もう大学生なんだもんな。真ちゃんあんなに小さかったのに」
「それを言うなら、兄さんだって同じだろう」
「そうか? まぁ、何歳になっても真ちゃんは真ちゃんなんだけどな」
小学生だろうと大学生だろうと、幾つになろうとも弟であることに変わりはない。弟が可愛くて構いたいと思ってしまう兄の心も変わりはしない。それは今後も絶対に変わらないだろうと和成は思う。どんなに大きくなって背も抜かされても、弟は弟のままなのだ。
弟の真太郎からすれば、兄が何を言いたいのかは分からない。それは兄としての立場から見ての言葉なのだから。逆に、弟の立場から似たようなことを思うことならある。兄は幾つになっても変わらないなと。
「真ちゃん。今考えてるコト、当ててあげようか」
唐突にそう言った兄は先程掴んだ手を離すと、今度は両腕を弟の背中に回した。優しく包むように抱きしめた兄が何をしようとしているのかはすぐに理解出来た。こうやって抱きしめる時は、決まって安心させようとしている時に取る行動なのだと知っている。
「心配しなくても平気だよ。オレはお前を愛してるから」
優しい声色で告げた兄の表情は見えない。けれど、その言葉は真太郎が考えていたことにピンポイントで当たっていた。表に出したつもりはないのだが兄は気付いていたようだ。
過度なスキンシップは好きだからやっている。だからやめる理由はない。けれど、結局はそれ以上でもそれ以下でもない。何も変わらないまま、いつも通りスキンシップを交わすだけ。そんな日々が続いていた。だから兄弟愛の範囲内での言葉だったのではないかとも思っていた。
だが、和成は前に一度。真太郎からはっきりと気持ちを伝えられている。流石の和成もそんなことがあって真太郎の気持ちが分からないわけではない。ちゃんと好きだから問題ないと伝えたものの、変わらないからこそ少なからず気になっているらしいことには気が付いていた。
だからどうしようかと考えていたのは事実だ。それがかえって疑わせてしまったようだが、それならそれで行動に移した方が早いと結論付けたのだ。そう、前に真太郎がしたように。
「弟としても、一人の人間としても好きだよ……真太郎」
真っ直ぐに翠の瞳を見つめて伝える。そっと手を伸ばし背伸びをした兄に合わせるように、真太郎が屈んだことで距離がゼロになる。自然と触れ合う唇。
「オレに遠慮なんていらないのに、あれ以来何もしてこないからちょっと意外だったかな」
「それは、兄さんが…………」
「うん、ごめんな?」
謝る必要はないのだけれど、そう言っても兄は「でも不安になってただろ?」と謝罪を繰り返した。こういうことに疎い兄でも、一度伝えたことで理解はしてくれていたらしい。きっと兄なりに考えて取った行動なのだろう。
考えてみれば、どんなに激しいスキンシップをしても和成は唇にだけはキスをしてこなかった。大抵は頬か額である。この行動こそが、兄の気持ちをそのまま表しているのだ。
「真ちゃん、オレ相手に悩むなよ。オレはちゃんと分かってるからさ」
「……どうなっても責任は取らないからな」
「いいぜ。何をしたらダメなんて言ってないだろ?」
いつかと同じ言葉。相変わらず何を考えているのか分からない兄である。恋愛ごとに鈍い兄がどこまで分かって口にしているかは定かではないが、これでも真太郎より五年は長く生きているのである。兄弟という間柄、先程和成が言ったように遠慮をするような関係でもない。
「兄さん」
「ん?」
首を傾げた兄を見て可愛いと思ってしまうあたり、もう手遅れだなと心の中で思う。そんなことは何年も前に気付いていたことだが、普通は兄弟に、しかも二十代後半の男に対して抱く感情ではない。
そういう意味で好きだとは前にも伝えたけれど、まだ真太郎は兄に伝えていない言葉がある。既に兄からは何度か聞いている言葉だけれど、はっきりと真太郎が言ったことはない。そう考えれば、兄弟愛との勘違いではないかと頭の良い兄なら考えたのではないかと思ったが、何よりも先に言うべきことがある。
「オレも兄さんが好きだ」
「…………うん、知ってるよ」
微笑みを浮かべた和成に、やっぱり兄には叶わないと真太郎は思った。いつになっても兄は兄である。 二人は、そのままもう一度。今度は深い口付けを交わす。
互いのことを好きだと幼い頃から言い続け、恋愛という意味でも好きだとは数年前に伝えた。けれど、何も変わらず兄弟愛の延長戦だった関係は、今日ここで一歩前に進んだ。
しっかり言葉という形にして愛を伝え合う。もうただの兄弟愛ではないのだと、はっきりと告げる。
「ところで真ちゃん、今日は何しよっか?」
暫くして離れた後、初めからずっと議題になっている話題に戻った。何をするもなにも、今日は何もする気がないのだろうと思いつつ、それでも質問してくるあたりが兄ではあるけれど。
「兄さんの好きなことで構わないと言ったのだが」
「なら、たまにはのんびり過ごす?」
読みたい本があるなら読んでも良いし、好きなことして良いけど。そんなことを付け加えて提案する。それはいつも通りなのではないかと思ったが、いつも通りが良いのかもしれない。
あ、でもやっぱり真ちゃんのピアノも聞きたいかも。なんて最後にポロっと零れたので、最終的にはピアノに決まる。ピアノから離れてからというもの、いつだって弾くのは兄の為。
「今日は何か聞きたい曲はあるのか?」
「真ちゃんに任せるよ」
だってオレには分からないから、といったやり取りはお決まりだ。それでも真太郎は兄の好きそうな曲を選ぶし、和成もそれが分かっていて弟に任せている。
いつも通りに進む一日。けれど、ちょっぴりと二人には変化が起こった。
その変化が今後の生活にどう影響していくのか。実際には目に見えて大して変わることはないけれど、二人だけに分かる確かな変化がそこに生まれたのだ。
兄と弟。
何気なく口にする「好き」は、幾つもの意味を込めて伝える特別な愛情表現。
fin