「真ちゃん、今日が何の日か分かる?」
聞き慣れたテノールが尋ねる。色素の薄い瞳は真っ直ぐにこちらを見つめていた。朝起きて朝食を済ませ、洗濯などの家事を一通り終わらせてソファで一息ついた時のことだ。
「……今日、か?」
「そう、今日」
本日は十一月二十二日。何か特別なことでもあっただろうかと考えてはみたものの特に思い浮かばなかった緑間は念の為に聞き返したが、それを高尾は短く肯定で返した。わざわざ聞くということは何かがあるのだろうけれど、一体何があるというのだろうか。肯定されたからにはもう一度考えてみるが、何かあるのかという疑問の方が大きい。
「お前の誕生日は昨日だろう」
「いや、自分の誕生日を勘違いしてるとかじゃねーよ? 真ちゃんにも祝ってもらったし」
流石に昨日の今日で、それも祝ってもらった自分の誕生日を忘れているわけではない。勿論勘違いもしていない。高尾が聞きたいのは二十一日ではなく二十二日の話である。
こう言ったものの緑間とて本気で勘違いをしているだろうとは思っていない。ただ、他に思い当たることがなかったのだ。だから試しに言ってみたのだがやっぱり違っていた。
「それなら何だ。いい夫婦の日だとでも言い出すつもりか」
「あ、そういやそうだな。オレ達も長いもんな」
「ならどこかに出掛けるか」
「それも良いけど、その前にオレの質問の答えを当ててよ」
どうやらこの答えも高尾が求めているものではなかったようだ。今日がいい夫婦の日であるとは数日ほど前にテレビで言っているのを聞いたのだが、イベント好きな目の前の男ならこれに便乗しようとしてもおかしくないと思ったものの違ったらしい。それでも出掛けるかと聞いてそれも良いと返ってくるのだから、やはり便乗して出掛けるのも悪くないとは思っているのだろう。
しかし、それよりもこの質問の方が高尾にとっては優先順位が高いらしい。それほど大事なことなのだろうかと考えてみても全く思い当たることがない。
「何かの記念日とでも言うのか」
付き合い始めた日、初めて二人で何かをした日。学生のカップルなんかにはありそうな記念日がいつかの今日だったりするのか。
そんなことまで覚えているわけがないと思いながらも口にしたそれに高尾は「近い!」と言った。それが近いとは何だ。要するに何かの記念日なのか。だが何の記念日なのかは正直当てられる気がしない。
「……それを当てろというのか?」
眉間に皺を寄せた緑間に最初からそれを聞いているのだと高尾は言ってくれる。無理に決まっているだろうと言っても、やってみれば案外当たるかもしれないなんて返してくる。それで当たるとは到底思えないのだが、高尾はこのまま緑間の答えを待つつもりらしい。
今のところ分かっているのは今日が何かの記念日で、記念日というからには自分達に関わっている何かの日であること。たったこれだけの情報のみでこれを当てるのは至難の業だろう。例の付き合い始めた日のような回答を当てずっぽうで言ってみろというのか。
「そんな難しく考えなくて良いぜ」
「逆に聞くが、お前がオレの立場だったら当てられるのか」
「んー……どうだろ」
自分も当てられる自信がないのなら人に聞くなといいたいところではあるが、この反応は当てられないこともないと思うという意味だろう。本当か、と些か不審に思ったのが伝わったのか。それならヒントを出すと高尾は口を開いた。
「さっきの誕生日っていうのは割と近いかもしれねーぜ?」
今日は何かの記念日で、それは誕生日に近い答え。誕生日は年に一度しかないことだが、その誕生日に近いというのはどういう意味で言っているのか。単純に日付的なものだとして、誕生日に関することで考えつくのはお互いの誕生日の真ん中――いわゆる真ん中バースデーと呼ばれる日ぐらいだ。
しかし、昨日が誕生日だった高尾と七月生まれの緑間の誕生日の中間が今日であるはずがない。つまりこれは外れだ。では、他に誕生日に関することなんてあるのだろうか。
「あと、誕生日っていってもオレは関係ないからな」
ここまで二人に関係することとして考えていたがそうではないという。それならそれで最初に言えと思ったが、今はこれらのヒントを整理する方が先だと頭を切り替える。
記念日と誕生日。それでいて緑間自身に関係している、という情報をそのまま合わせれば緑間の誕生日に関連する何かになる。関連するもなにも、誕生日から考えられることなんて大分少ない。その誕生日から四ヶ月以上が経つ今日が何かの記念日になるというのなら、残る可能性は……。
「生まれてから何日目、という話か」
考えられるのはもうこれくらいしか残っていない。これも言い始めたらキリがないのではないかと思ったけれど、高尾が口角を持ち上げたのを見てそれが当たりなのだと分かった。
「そんなものをいちいち数える人間なんていないだろう」
「まあな。けど、今日は特別な日なんだ」
生まれてから一年経つごとに祝うのが誕生日。それとは別のもう一つの記念日。
確かに、今日が生まれてから何日目になるのかを把握している人間は緑間の言うように殆どいないだろう。高尾自身も今日が生まれて何日目になるのかは分からない。昨日誕生日を迎えたばかりだから二十七年と一日だということは分かっているが、日付に換算すると何日になるかなど覚えてはいない。
だけど、おそらく九千と何百日かが経っているだろうなということは知っている。なぜなら。
「今日は真ちゃんが生まれてから一万日目になるんだぜ」
生まれてから一日目、十日目、百日目。それから千日目までは幼少の頃に過ごしている。それも物心がつく前で記憶にも全然残っていない。
だけど物心がついてから唯一祝うことの出来る日がある。それが生まれてから一万日目の記念日、緑間にとっては二十七歳と四ヶ月ちょっとの今日なのだ。
「物心がついて、ちゃんと祝えるのは一万日目の今日だけなんだぜ? 十万日なんて生きられないしな。ま、順調に生きてけば二万日目も祝えるけどさ」
日本人の平均寿命を考えれば、二万日目を迎えられる人は多いだろう。その次の三万日目もそれなりに迎えられる人がいるのではないだろうか。でも、桁が変わる瞬間をお祝い出来るのはこれが最後だ。
「だから、今日はオレが真ちゃんを祝う番」
誕生日は一年に一回、必ず祝うことが出来る。けれど、生まれてから一万日目の記念日は一生に一度しか祝うことのない特別な日だ。今日を逃せばもう二度と祝うことは出来ない。そのような日を見逃すことなど出来るものか。昨日は目一杯祝ってもらったから、今日はこちらが祝う番だと高尾は笑う。
「おめでとう、真ちゃん」
言って、そっと触れる唇。
口元に小さく笑みを浮かべたその顔が幸せそうで、それはきっとこちらも同じなんだろう。それだけ目の前の相手が自分にとって特別なのだ。逆もまた然り。
「……しかし、よく知っていたな」
「前に二十七歳の時に一万日目を迎えるって話を聞いたのを思い出してさ。真ちゃんはいつなんだろうって調べたら今日だったんだ」
「そこは自分のを調べるのではないのか」
「オレより真ちゃんのが誕生日早いし、ちゃんとお祝いしたかったから」
この話をいつ聞いたのかは覚えていない。いつだったかに聞いたその話を思い出したのはほんの数ヶ月ほど前のことだ。あの時思い出していなければ、今日と云う日を何もせずに過ごしてしまっただろう。下手をしたら過ぎてから気付いたかもしれない。その前にこうして思い出すことが出来て良かったと心から思う。
そして、その話を思い出した時に高尾は真っ先に緑間のそれを調べた。自分が生まれてから一万日目はいつなのかも気になったけれど、それ以上に緑間のその日を祝いたいと思ったのだ。
「それが今日だとは思わなかったけどな」
いつだろうと軽い気持ちで計算をしたら、自分の誕生日の次の日が出てくるとは思いもしなかった。それには少々驚いたが、それならその日はきちんとお祝いしようと準備をしていた。
「これも運命ってヤツ?」
「お前の方は三月か四月だがな」
「そればっかりは仕方ねーだろ」
言い合って笑い合う。なんてことのないやり取りが幸せで、それは一緒にいるのがこの男だからだろう。高校で出会い、大学に進学すると同時にルームシェアをはじめ、これからも共に在ることを誓った相手。
正式に籍を入れることは出来ないけれど、それでも二人にとっては十分だった。あれは大学を出て社会人になってからのこと。緑間から口にされたそれを高尾は涙を零しながら受け入れた。あの時にもらったペアリングは今も薬指で輝いている。
「その時はオレが祝うのだよ」
「うん、楽しみにしてる」
おそらく今から四ヶ月後になるであろうその日の約束をして、二人はもう一度唇を合わせた。長めの口付けをかわし、ゆっくりと離れながらお互いの姿をその瞳に写す。
「だけど今日はオレが祝う日だから、ちょっと付き合ってよ」
「それならさっさと片付けるぞ」
立ち上がって緑間に続くように高尾も腰を上げる。すぐに肯定が返ってくることが嬉しい、なんてことは緑間にもバレているのだろう。だけど、その緑間も僅かに口元を緩めていることは高尾も気付いている。
携帯と財布を手に取り、部屋の戸締りを済ませると二人は一緒に玄関を出た。青い空の下を並んで歩きながら、そっと触れた手をそのまま重ねて。
特別な記念日
(さあ、思い出に残る一ページを刻もう)