大きな杉の木の下で眼前に広がる景色を眺める。前は身軽に登っていたこの木も今はそうもいかなくなってしまった。登ろうと思えば出来ないこともないのだろうが、わざわざそこまでしようとは思わない。でも、またあそこからの景色を見てみたいなという気持ちも少しだけある。


「いつ見ても綺麗だな」


 それは昔から変わらない。木の上と下とでは見える景色に多少の違いはあれど、そこで行われていることは変わっていない。
 いや、変わっていないのではない。変わらないようにしているのだ。この村に住む人々が、それを守る者が。その人達が守り続けてくれているからこそ、今も尚この景色を見ることが出来る。この景色が壊されかけたこともあったけれど、この地を守るその人が必死に守り通してくれたお蔭で今もこの景色が見られる。


「流石に迷子とは言わないけどさ、よく毎回ここに辿り着くよね」


 くるりと振り返って見慣れた緑をその目に映す。
 この山には滅多に人が入らない。何かの調査でやってくる大人や迷子になった子供が入ってくる程度で、それはこの山には入ってはいけないとキツく大人達に言われているからだ。
 そういえば最近は迷子になっている子供はいないのだろうか。疑問には思ったけれど行方不明になった子供の話など聞いていないから大丈夫なのだろう。仮にいたとしてもこの山の小さな神様達がどうにかしてくれているに違いない。


「それはお前がいつもここに居るからだろう」

「そうだろうけど、真ちゃんってあまり山に入ったことないでしょ? それなのによく迷わないなと思ってさ」


 そこまで大きな山ではないとはいえ、山というからにはそれなりの広さだ。高尾はこの土地をよく知っているから迷うことはないが、緑間がここに足を踏み入れたことがあるのは片手で足りる程度。小学生の頃に初めて高尾と出会った時、十六歳を迎えたお祭りの時、それから今。
 たった三回しか山に入ったことがないというのに毎回この場所に辿り着くのだ。最初こそ迷子になっていたからだが、残りの二回は全て高尾を探していただけ。知らない山に入って闇雲に探したところで見つからない可能性の方が高そうなのだが、緑間はいつだってちゃんと高尾の元までやってくる。


「分かりやすいところに居るからな」

「そんなことないと思うんだけどな……まぁ良いか」


 分かりやすかったらあの時迷子になっていなかったんじゃないかという言葉は飲み込んだ。一度来たことがあるから道を覚えていたという訳でもないだろう。そういう明確な理由なんてきっとないんだと思う。こういうものは理屈ではないのだ。


「もう何年前だろう。二十年くらい経つのかな?」


 オレ達がこの場所で出会った日。
 あっという間だったなと思う反面でもうそんなに経つんだなという気持ちも生まれる。それは時の流れの感じ方が変わったからだろうか。途方もないほどの寿命を今でも持っていたのなら、前者の感想しか抱かなかったかもしれない。けれど、今は高尾も緑間と同じように時間が流れている。だからこその感想かもしれないが、そう思えることは嬉しいことだ。
 緑間からすれば、長かったと思いながらも気が付けばこんなに経っていたのかという気持ちだ。会いたいと思っていてもそれが叶わず、次に会うまでの期間は本当に長く感じた。最近では逆に時間の流れが速く感じるのは、やはりこの男が傍に居るからなのだろう。


「お前にとっては早かったか?」

「どうだろう。でも、今はもっとゆっくり時間が流れれば良いのにって思う」


 時間なんて早く流れてしまえば良いと思っていた頃もあった。それが変わったのは自分にも人間と同じだけの寿命が出来たからであり、またいつかのように大切な人が出来たからだ。時が早く進めばそれだけその人と過ごせる時間が短くなってしまう。
 この時を永遠になんてことは思わないけれど、今はちょっと早く感じる時を遅くしたい。そんなことは人間の高尾には当然無理な話であり、神である彼の友人に頼んだって無理である。神とて出来ないことはあるのだ。


「ここからだと麓の様子がよく見えるだろ。お祭りはここから眺めて、舞の時間には下まで降りてた」


 毎年そんな風に過ごしていた。高尾はここから見える景色が好きだった。この上から見える景色はもっと好きだ。出来れば緑間にも見せてやりたいが、自分で登るのも一苦労だというのに誰かを連れてなんて以ての外だ。だけど、ここからの景色だけでも教えたいと思った。まぁ、お祭りの中で一番好きな景色は緑間の者が見せてくれる舞だけれど。


「今はもっと近くで見れるけど、オレはここからの景色も好きなんだ」


 高尾しか知らなかった、今では緑間も知っているこの場所が。昔から好きな場所の一つなのだ。そういう意味で言っていることくらいは緑間も分かっていて、高尾の話に「そうか」と相槌を打つ。
 長い間、高尾が大切にし続けてきた場所。誰に教えるでもなく、神社を守っている狐達でさえ知らない。誰かにこんな話をすること自体が初めてだ。その意味が分からないほど鈍くはない。そして、ここからの景色“も”と言っている高尾には他にもそう思える場所があるということ。だからこそ話してくれているのだろう。


「同じ景色でも近くで見るのとは違うものだな」

「だろ? 祭りの騒がしさとか殆ど聞こえないのに、村の人達が楽しんでいるんだろうなっていうのはよく分かる」


 それを見ながら平和だななんて思ったりして。年に一度のお祭りは村の人達だけではなく、その地の神様にとっても楽しみなイベントの一つ。今頃、神社を守っている小さな神様達は村人の願いを叶えるべく準備をしているのだろうか。
 いや、今はまだお祭りの様子を眺めているだけかもしれない。行動を起こすのはお祭りが終わった後なのだ。高尾が神だった頃もこの時間は自由に過ごしていたのだから狐達にしても同じだろう。その辺をふらふらしたりはしていないだろうけれど。


「その祭りを盛り上げるのに重要な奴が居ないと困るんだが」


 知っての通り、この祭りの最後には緑間の者が舞を踊る。その人が居なければ周りが困るというのは十年ほど前にも行われたやり取りだ。あの時は緑間が高尾を探しに山へと入り、自分の役目を放棄してでも探そうとしていたからそんな話になっていた。
 だが、今回はそれとはまた違う。ちょっと外に出てくると言った高尾がなかなか戻ってこないからと緑間がここまで探しに来た。会うためではなく迎えに来たのだ。その舞を踊ることになっているその人が戻らないから。つまり、そういうことである。


「分かってる。でも、本当に良いの?」

「何度言わせる気だ。オレはお前が踊る姿が見たいのだよ」

「オレは真ちゃんが舞を踊る姿も見たいけどな」


 だって真ちゃんの舞が好きだから。
 そう話す高尾はいつものように笑顔を見せる。何度も聞いているそれは高尾の本心だ。だが、緑間の言葉だって本心である。そのために今日まで舞の練習をしてきた。この舞台で踊らずにどこでそれを見せるというのか。
 この男なら「真ちゃんの前でだけ」なんて冗談を言いそうだが、別に踊りたくないという話ではないのだから時間には戻るつもりであった。その前に緑間が迎えに来ただけのことだ。


「和成」


 呼ぶなり唇を寄せた。外なんだからと気にすることもないくらいここに人は来ない。居るのは二人だけ。他に人がやってくる心配もない。


「やっとお前の晴れ姿が見られるな」

「なんか変な感じだけどな。オレ、ずっと見てる側だったのに」


 だけど、その舞を踊る側になれたことは嬉しい。それは緑間が高尾を迎え入れてくれたからだ。緑間の者しか踊ることの許されないその役目を担うとはそういうことである。
 二人で守っていく。
 その言葉通り、これからは二人で守っていくのだ。神とそれを守る人間としてではなく、同じこの地を守る人として。同じ場所で、同じ時間の流れを感じながら共に歩くことを決めたのだ。


「真ちゃんに付きっ切りで教えてもらったんだもんな。失敗しないようにしないと」

「お前なら大丈夫だ。オレも近くで見ているのだよ」

「うん。ちゃんと見てろよ?」


 お前のために踊るから、というその言葉はどこまで本気なのか。考えるまでもなく全部本気なのだろう。緑間はこの地の神に向けてその舞を踊っていたけれど、高尾はその元神様だ。今もこの地を守ってくれている神に対して踊るという意味も勿論あるけれど、それよりも見てもらいたいと思うのは舞を教えてくれた想い人。
 緑間が見たいと言わなければ踊ることになどならなかっただろうから。見たいと言ってくれたその人に、これまで沢山のものをくれた大切な人に向けて踊りたい。これだけでお礼になると思っているわけじゃないけれど、これで少しでも何かを伝えられたら。そう思うのだ。


「楽しみにしている」

「ん」


 軽く腕を引いて今度は高尾の方からキスをする。これできっと成功するな、と頬を薄ら染めながら言う姿はとても可愛らしい。同い年の同性、実際にはもっと年の離れた男に対して思うことではないけれど高尾は特別だ。恋人に対して思うこととしては何らおかしいことはない。


「そろそろ戻った方が良いかな」

「着替える時間もあるからな。行くか」

「おう」


 いつかと同じように伸ばした手を取り並んで歩く。歩きながら話すのは他愛もない談笑。二十年前のように次が約束されていない訳でもない、十年前のように次がない訳でもない。隣に居ることが許された関係になったからこそ、こうして笑い合える。
 お互いの指を絡め合い山を下りていく。もう少しだけ二人の時間を過ごしたいなんて思ったりもしたが、二人の時間なら終わった後でも十分ある。そんな日々が幸せだなと、どちらともなく思った。

 ふと見上げた空に、真ん丸のお月様が笑っていた。







と共