しんと静まり返った闇の中。唯一の光は空に昇る月と幾千もの星だけ。明かりという明かりはないこの暗闇の世界にひっそりと姿を現す。僅かな光だけを頼りに目的地へと急ぐ。場所はとっくに把握している。何せ、この場所には既に何度も踏み入れているのだから。
 そっと扉を開けると、音を殺してゆっくりと近付く。時刻は深夜を回り、世間は寝静まっている頃だろう。ここの家主も同じようで、こちらとしては好都合だった。それを狙ってこんな時間に人様の家に上がり込んでいるわけだが。一般的な訪問者であれば、太陽の高いうちに玄関から訪ねることだろう。
 つまり、そういうことである。




に差





「これで終わりだ」


 誰にでもなくポツリと零れた。潜ませていた刃を手にその切っ先を喉元に向ける。あとはこの刃をそのまま引き抜けば任務は完了する。それが男の目的だった。その為だけにこの地へと足を運び、長い時間を掛けて機会を狙ってきた。男は、初めから任務の為だけに全てを行ってきた。他に理由なんてない。
 この手に力を込めて刃を引けばいい。そんなことは分かっている。分かっているのに、今やらなければいけないというのに、刃を持つ手が震えた。


「…………なんで、なんで抵抗しないんだよ……!!」


 消えてしまいそうなほど小さな声が空気を伝う。
 殺すつもりだった。目の前の男を殺す為だけにこの地に派遣され、怪しまれないように取り繕いながら今日まで生活をしてきた。これまでのことは全部計算された上で行われた行動だというのに、心がそれを受け入れられていない。
 こんなことは今まで一度もなかった。任務となれば心を殺して赴いていたというのに、そうするつもりだったというのに。


「何を馬鹿なことを言っている。お前はオレの命を狙いに来たのだろう」


 冷静に話す男の意図が分からない。どうして自分の命が狙われていると分かっているのに抵抗を示さないのか。目的の相手に気付かれたことは少ないが、命が狙われていると分かった輩の反応は全員同じだった。殺されるとなれば抵抗をするのが普通の反応だ。
 けれど、この男は抵抗するどころかこんなことを言い出したのだ。刃を抜くことが出来なかったのは、男が起きていると気付いてしまったから。今までの奴のように抵抗をしてくれたのなら、まだ任務を遂行することが出来たのかもしれない。このようなタイプは初めてだった。


「オレを殺したいのなら殺せばいい」

「自分が殺されようって時に言う台詞かよ、それ」


 これでは、まるで殺されてもいいと言っているようなものではないか。自ら命を差し出すような奴には見えなかったが、それはこちらの勘違いだったのか。いや、この男がそう簡単に命を差し出したりなどする訳がないだろう。そんなことは、これまで一緒にいて分かっていることだ。


「お前こそ、殺そうとしている奴が言う台詞ではないな」


 どうして己が命を狙っている相手に対して抵抗をしないのかと尋ねるのか。抵抗されない方が仕事が楽に進んで好都合ではないか。抵抗されることはデメリットでしかないのだ。穏便かつ迅速にことを済ませるのなら尚更、起きていることに気付かぬフリをしてそのまま殺しさえすれば良かったのだ。手を止めたことは間違いだと、男は指摘する。


「オレを殺せばお前は自由になれるのだろう。ならば殺せ」


 一体、こちらの何を分かっているというのか。何も知らないはずなのにどうしてそんなことを。
 そこまで考えたところで気付いてしまった。気付かなければ良かったのかもしれない。けれど、気付いてしまったのではもう遅い。


「…………最初から、分かってたのか」


 主語はない。何のことを言っているのかをこれだけで把握するのは難しいかのように思える。だが、この男にとってはそんなことはなかったようだ。ゆっくりと瞼の下から見慣れた翠色が現れる。


「お前がオレを狙っていることはとっくに気付いていたのだよ、高尾」


 はっきりと名前を呼ばれ、今度こそ敵意は削がれてしまった。構えていた刃はゆっくりと地に下ろされた。殺す為だけに潜伏し、殺す為だけに夜中に襲撃したというのに、今はそのどちらもが頭の中から消えてしまった。


「いつから気付いてたんだ、緑間」


 暫しの沈黙を置いた後、かろうじて発したのはそんな問いだった。先に説明をしておくと、今まで目標の相手に気付かれたことなどなかった。そもそも、気付かれたとあらば任務を遂行出来ない。バレないように目標と接するのは基本といってもいい。中でも高尾は腕利きだ。これまで任務で失敗をしたこともない。どんなに困難と思われる仕事も成功させることから、今回の件も任されたのだ。
 実際には相手に気付かれた上で見逃されていただけだったらしい。オマケに命を狙っていた高尾のことを殺すでもなく、自分が死ぬことまで受け入れられていたという事実だけがここにある。


「初めから怪しいとは思っていた。オレの命を狙っていたのなら納得なのだよ」

「それならオレを殺すなりすれば良かったのに」

「オレにお前を殺す理由はない」


 命を狙われていた時点で十分殺す理由になるだろう。それで殺されたとしても文句など言えない。これが理由にならないというのなら、どんな理由ならば理由として成立するのだろうか。
 そこまで考えたところで、高尾は思考を中断した。そうではないのだと分かっている。緑間には高尾を殺す気がない、という意味なのだと。


「そんなこと言ってたら、この世界で生きていくのは難しいぜ?」

「誰に対してもこんなことを言う訳がないだろう」

「じゃあオレが特別? そんなこと誰かに言われたことないから嬉しいな」

「……お前はどんな状況でもその調子なのだな」


 それは違うと思いつつ、高尾は訂正しなかった。わざわざ訂正をする必要もないだろう。いつも通りを装っているのは、そうでもしないとまともに話をすることさえ出来ないからだ。表面上ではこう言っていながらも、内面ではこの状況に動揺している。
 かといって、これまでの言葉に嘘はない。全部本当のことしか話していない。それはやはり、このような状況だからだろう。


「オレを殺すことが目的ならばさっさと殺せ。そうすれば、お前はこれ以上オレと一緒にいる必要はなくなるのだよ」


 無理をして一緒にいる必要はない。命さえ奪ってしまえば、この任務は終わり自由になることが出来るのだろう。
 その言葉に含まれている意味を簡単に理解してしまうくらいには、高尾は緑間の近くに居た。滞在期間が長かったというのもあるだろう。本来はもっと早くに終わらせる予定だったのだが、色々と予定が狂ってしまったのだ。機会を窺っていたといえば解決だが、本当の理由は別にある。


「…………なぁ、緑間。最後に一つだけ頼みたいことがあるんだけど」


 表情を読まれないように俯く。鋭いこの男にはすぐに気付かれてしまうから。
 しかし、それすら意味はなかったらしい。まだ何も言っていないというのに「断る」と返されて、緑間がこれから言おうとしたことを理解していると分かってしまった。どうして分かるんだよと思っていると、表情は隠せても声色は隠せないからだということを本人に教えられた。
 こういう仕事に就いている以上、そういう部分は隠すことには長けている。ポーカーフェイスをはじめとし、敵を欺くことなど容易いことだ。けれど、それが通用しない相手というのも世の中には居るらしい。とはいえ、正しくは高尾が緑間の言葉に含まれる意味を理解してしまったのと同じ理由なだけだ。近くに居た分、緑間にも高尾のことが分かっているというだけの話である。そのことに高尾自身は気付いていないけれど。


「お前はオレを殺しに来たのだろう。どうしてオレがお前を手にかけねばならんのだ」


 しっかりと言い当てた緑間に、それはそうなんだけどと高尾は続ける。こうして二人が対峙している以上、もう元の関係に戻ることは不可能だ。どんな結末になろうとも、これが最後になるのは間違いない。


「この仕事を続けてる理由なんて生きていく為に必要だからだ。けど、生きていたってオレは人を殺すことを繰り返すだけ。なら、ここで終わった方がよっぽどマシだ」

「だが、此処に忍び込んで来たということは最初は殺すつもりだったんだろ」

「そうだよ、それが仕事だからね。でも、やっぱりオレには無理だ。お前と一緒に過ごしてると、本当の目的を忘れそうになる。いずれ手にかけなくちゃいけないって思いながら、その時が来なければ良いなんて。考えちゃいけないことを考えてた」


 淡々と仕事をこなす。これまでやってきたことが出来なくなってしまったのは、間違いなく緑間に出会ってしまったからだ。初めはいつも通りにすれば良いと考えていた。周りに合わせて適当に生活をしながら任務を行う。
 そのつもりだったのに、いつからか一緒に居ることを楽しいと感じてしまった。それから任務を遂行しなければいけないと思う気持ちと、一緒に居たいと思ってしまう気持ちとが心の中で交錯する。抱いてはいけない気持ちを抱いてしまったのは、初めて共に笑って過ごせる相手に出会えたから。


「今は思うよ。お前と普通に出会えたら良かったのにって」


 普通に会うことは、互いの立場からしてどうやっても無理だったのだろうけれど。それでも、普通に出会えたら良かったのにとこれほど思うことはない。これはあくまでも高尾の考えであるが。
 薄らと透明な膜が色素の薄い瞳に浮かぶ。襲ってきた側がこれでどうするのか。だが、それも高尾のこれまでの生き方に関係しているのだろう。高尾の境遇など緑間は知らないが、この僅かな会話だけでも色々なことがあったのだろうと察するのは難しくない。
 こういう時、どうすれば良いのか。その術を緑間は知らない。高尾の任務を成功させるには、選ぶべき道は一つ。けれど、これまでの話を聞いているとそれが正しいとも思えない。だから、全ては本人に選ばせることに決める。


「緑間…………?」


 力なく置かれた高尾の右手に自身の左手を重ねる。そのまま手を首元に運ぶと、その瞳が大きく開かれた。この手に力を込めたのなら、すぐにでも殺すことが出来るのだと理解しているのだろう。高尾自身の力がなくとも、緑間が自分でこのまま力を込めれば実行することも可能だ。何を考えているんだと言いたげな瞳に、高尾が何かを言い出すよりも先に緑間は口を開いた。


「このままオレを殺せばお前の任務は完了する。言っておくがオレにお前を殺すという選択肢はない。お前がオレを殺すか、それともオレと共に行くかの二択だ」


 言い終わると呆気にとられたような表情で見られた。どうした、と声を掛ければそんなこと言われると思わなかったと返ってきた。
 まぁ確かに、殺されそうになっている人間の言う台詞ではないだろう。だが、敵意のない相手に殺せと言うのもどこか違う気がした。まず高尾がそれを望んでいない。この状況で何と声を掛ければ良いのか分からないからこそ、あえてこの言葉を選んだ。どちらを選んでも辛いことはあるのだろうが、今考えられることはこれで全部だ。


「高尾、お前が選べ。オレはどちらを選んでも構わない。お前が後者を選ぶというなら、何があってもお前を守ってやる。だから、そんな顔をするな」


 そんな顔と言われても高尾自身には分からないのだが、緑間の優しさは十分伝わっていた。どちらを選んでも良いとは言っても、どちらにも何かしらが付き纏うのは仕方がないだろう。苦労なくして生きていける世界ではないのだ。


「……そんなこと言って、後で後悔しても知らないぜ?」

「後悔などする訳がないのだよ。オレが自分で決めたことなのだからな」

「そういうお前の優しさに、オレは救われてるんだけどさ」


 偽って騙して過ごしてきた高尾と違って、緑間の生き方はとても真っ直ぐだ。正反対の生き方をしている緑間に惹かれたのは、自分にないものを持っているからだろう。
 闇の世界を生きてきた高尾にとって、緑間の存在は強く大きな光だった。緑間と一緒に居る普通の生活が楽しくて、そういう世界で生きていけたならと、自分の生きる世界を思い出す度に思っていた。闇と光は決して交じり合うことはない。そう思っていたのだけれども。


「オレ、お前と一緒に居ても良いのかな」


 光の方から手を差し伸べてくれた。この手を取っても良いのだろうか。それが正しいか正しくないかなど関係ない。正義と悪だって、この世に正確な区切りはないのだから。自分が正しいと思った道を信じて進む、それが全てだ。


「良いから言っている。お前はこれからもオレの傍に居れば良いのだよ」

「ぶはっ! 真ちゃん、それ告白みたいになってるんだけど」


 手に持っていた刃物を下ろして向かい合う。夜中だというのに構わず笑う高尾を見ながら、緑間は小さく微笑んだ。漸く笑ったな、と言えばきょとんとした表情を見せてからふんわりと柔らかな笑みを見せた。
 いつからか、高尾はそんな本当の笑みを見せるようになった。会った頃は作られた笑みばかり見せていたが、次第に偽物ではない感情を表に出すようになっていた。だから、緑間もこんな提案を持ちかけたのだ。決して嘘ではない気持ちを向けていたから。


「けど、オレもそう弱くはないから守られるだけじゃないぜ」

「そうか。だが、何かあった時はオレが必ず守ってやるから安心しろ」

「それは安心だな。期待してる」


 この先、任務に失敗したと知られれば追われる身となるのは間違いないだろう。けれど、高尾自身も実力がある上に一緒に居る緑間だってその道では名の通っている腕利きだ。二人が揃っていてそう簡単にやられるということもないだろう。


「真ちゃん、ありがと」


 聞き慣れた名で呼ばれる。やはりこの呼び方が一番馴染んでいる。初めこそ変な呼び方は止めろと言っていたが、今となってはそれが自然になっているのだから不思議である。


「明日には此処を出るぞ」

「了解」


 もう任務は関係ない。自分の意思で、自分の選んだ道を進んで行く。未知に進むことに不安がないといえば嘘になるが、緑間と一緒なら大丈夫だと思える。
 共に行くこと。それこそが今の自分達にとって一番の選択肢。

 どんな困難も二人で共に。
 目の前の相手と一緒にいることこそが、幸せだと思える時間なのだ。










fin